国名 | 神聖ガトーヴィチ帝国 Священная Готовитская Империя Holy Gotovitian Empire |
国旗 | |
国章 | |
標語 | 帝国の発展に邁進せよ |
国歌 | 栄えよ、ガトーヴィチ! |
国鳥 | ツバメ |
首都 | イヴァングラート(13,13) |
元首 | グリブノーイ・ヴィクトーロヴィチ・リーソフ第28代君帝 |
公用語 | ガトーヴィチ語 |
政体 | 君帝制民主主義 |
通貨 | マリュースク |
建国 | フリューゲル歴427年1月16日(15374期) |
神聖ガトーヴィチ帝国(Священная Готовитская Империя、Holy Gotovitian Empire、略称:瓦)は、937年に成立した君帝制民主主義国家である。前身は、843年に成立したガトーヴィチ民主帝国、及び427年に成立したガトーヴィチ帝国。
元首は君帝であり、憲法において、ガトーヴィチ人の「模範」とされている。
目次
概要
ガトーヴィチ人はもともと、稲作に目覚めたスラヴ民族であったとされる。かつては「大スラーヴ主義」を掲げ、フリューゲルのスラヴ民族の連帯を推し進めるとともに、ガトーヴィチベルサリエーレ戦争や、ヴォルネスク独立戦争を指導した。
9世紀に入り、反共陣営EDTO(エルドラード条約機構)の一角として813年戦争に参戦するも、連合国に降伏。ディースブルク条約の下、866年まで厳しい軍備制限を課せられていたが、フリューゲル国際連合安全保障理事会理事国を務めるなど、その国際的地位は再び上昇した。
政治
君帝
第29代君帝
全ガトーヴィチの君帝、エステルのツァーリ、ベロガトーヴィチの大公にしてサザンベルクの公
グリブノーイ・ヴィクトーロヴィチ・リーソフ
Император Всеготовитский, Царь Эстерский, Великий Княжь Белоготовитский и Княжь Сазанбергский
ГРИБНОЙ ВИКТОРОВИЧ РИСОВ
「グリブノーイ」は茸の意。
為政院総理大臣
第54代為政院総理大臣
ドミトリー・ボリーソヴィチ・ギンクゴーネン, Дмитрий Борисович Гинкгонен
西イヴァングラート県出身
学士(政治学、君帝院大学)
ゴラリスト重工業株式会社経営企画課
帝国発展党入党、西イヴァングラート県議会議員(2期)
帝国議院議員選挙イヴァングラート市選挙区当選
〇帝国議院
外政防衛委員、予算委員、環境委員
外政防衛委員長
〇帝国発展党
イデオロギー局、外政局
イデオロギー局長
幹事長
現 総帥
右派の名家・ギンクゴーネン家に生を享ける。先祖には第47代為政院総理大臣(935~955)を務めたボリス・イリイチ・ギンクゴーネン、第27代為政院総理大臣(640~650)を務めたバマク・イリイチ・ギンクゴーネンがいる。
歴代為政院総理大臣
代 | 名前 | 父称 | 苗字 | 所属政党 | 連立与党 | 連立与党 | 連立与党 | 就任 | 退任 | 印象 |
1 | ドミトリー | セルゲーエヴィチ | モロゾフ | 立憲帝政党 | — | — | — | 437 | 442 | 工業国化を提唱、国是に |
2 | ドミトリー | セルゲーエヴィチ | モロゾフ | 立憲帝政党 | — | — | — | 442 | 447 | 経済停滞 |
3 | アレクサンドル | アレクサンドロヴィチ | ギェーホフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 447 | 457 | 憲法発布、月普不可侵 |
4 | ウラジーミル | ニコラエヴィチ | カイツキー | 帝国発展党 | — | — | — | 457 | 465 | 瓦成安保、初の辞任 |
5 | ヨシフ | イリイチ | バーバチキン | 帝国発展党 | — | — | — | 465 | 467 | 短命 |
6 | イヴァン | プラーハヴィチ | プチェーリン | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 467 | 478 | 君帝崩御、瓦成新安保、隕石 |
7 | ミハイル | ヴァシーリエヴィチ | ミチオリチェンコ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 478 | 488 | 経済成長、一部国民が崇拝 |
8 | マクシム | ヴァグナノヴィチ | ズボーロフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 488 | 498 | 安定成長、腐敗進む |
9 | ドミトリー | ドミトリーエヴィチ | ヴォーイニン | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 498 | 508 | 軍需産業の発展、君帝崩御 |
10 | バンブーク | サスナスリーエヴィチ | ツルタハーギェフ | 立憲進歩党 | — | — | — | 508 | 517 | 社会保障費削減で下野 |
11 | ニコライ | アンドレーエヴィチ | ミーロフ | 国民党 | ゾロアスターの勝利 | — | — | 517 | 527 | 君帝崩御、建国100周年 |
12 | ブラス | ザラトーヴィチ | トルービン | 労働党 | ゾロアスターの勝利 | — | — | 527 | 537 | 憲法改正 |
13 | イスク | イェスコーヴィチ | カタハルコフ | 帝国発展党 | 立憲進歩党 | 労働党 | 中央党 | 537 | 541 | 挙国一致内閣、対日ノ本戦争 |
14 | ウラジーミル | バラーノヴィチ | サズヴェジエフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 541 | 549 | 君帝陛下続けて崩御、市場閉鎖 |
15 | モデスト | ニシコーヴィチ | デングスキー | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | ゾロアスターの勝利 | — | 549 | 557 | 日ノ本懲罰戦争勝利も統治できず |
16 | アングレイ | イポーノヴィチ | ケンキーノフ | 労働党 | — | — | — | 557 | 565 | 安定 |
17 | アングレイ | イポーノヴィチ | ケンキーノフ | 労働党 | ゾロアスターの勝利 | — | — | 565 | 573 | 123年振りの総理再任 |
18 | ヴァシリー | ミレヴィチ | パラジチルニンスキー | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 573 | 581 | 君帝崩御、瓦昆安保 |
19 | ニコライ | イヴァノヴィチ | ナパダーチン | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 581 | 585 | 貿易問題で辞任 |
20 | ミハイル | ドミトリエヴィチ | ラーコフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 585 | 589 | 中継ぎ |
21 | ニキータ | ラヴレンチェヴィチ | ドレベドニョフ | 労働党 | 社会民主党 | — | — | 589 | 597 | 高工計画、正教改宗の勅語 |
22 | ナターシャ | アレクセーエヴィチ | オゴーニナ | 労働党 | — | — | — | 597 | 607 | 初の女性宰相、 |
23 | アルチョム | アレクサンドロフ | クラーシニン | 労働党 | 社会民主党 | ゾロアスターの勝利 | — | 607 | 609 | マンネリ |
24 | エンゲイ | エンゲーエヴィチ | カリンニコフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | 609 | 619 | 血の降誕祭事件、七・二四事件 |
25 | キノン | プリーヌツォヴィチ | ズヴィズダノフ | 社会民主党 | 労働党 | 立憲進歩党 | — | 619 | 629 | クジラ議事堂破壊を受け辞職 |
26 | リシャト | ニコラエヴィチ | ファグネルスキー | 帝国発展党 | 立憲進歩党 | — | — | 629 | 640 | 瓦辺戦争 |
27 | バマク | イリイチ | ギンクゴーネン | 帝国発展党 | — | — | — | 640 | 650 | 小スラーヴ主義、国体純化法・鎖国法成立 |
28 | — | — | — | — | — | — | — | — | — | — |
29 | — | — | — | — | — | — | — | — | — | — |
30 | — | — | — | — | — | — | — | — | — | — |
31 | — | — | — | — | — | — | — | — | — | — |
32 | ヴァストク | スタリツェヴィチ | スダーチン | 帝国発展党 | — | — | — | 700 | 710 | 大スラーヴ主義、スラヴ連合発足 |
33 | ニコライ | ジョルトゥイエヴィチ | ガルボーイ | 帝国発展党 | — | — | — | 710 | 722 | ヴォルネスク解放戦争 |
34 | ラファイル | ミハイロヴィチ | イユーリン | 帝国発展党 | — | — | — | 722 | 733 | 史上最年少(32) |
35 | ラファイル | ミハイロヴィチ | イユーリン | 帝国発展党 | — | — | — | 733 | 774 | 大学紛争、五月革命 |
36 | マキシム | グリゴリエヴィチ | カンセーエフ | 労働党 | ガトーヴィチ社会党 | — | 774 | 799 | 146年ぶり左派政権 | |
37 | ユリヤ | ミハイロヴナ | メタロヴァ | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | — | 799 | 813 | EDTO加盟、813年戦争敗戦 |
38 | ニコライ | ルスラーノヴィチ | ローシャジェフ | 立憲進歩党 | 正教保守党 | — | — | 813 | 833 | WTCO加盟 |
39 | レーヴァ | クラソーチナヴナ | ガルモーニナ | 労働党 | 社会民主党 | — | — | 833 | 853 | 民衆主権の政治 |
40 | ゲンナジー | アレクサンドロヴィチ | チェプロフ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | — | — | 853 | 867 | ディースブルク体制からの脱却を図る |
41 | ナジェージダ | ニキートヴナ | インビーリェヴァ | 立憲進歩党 | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | 867 | 884 | ツァーリ国建国宣言、帝国分裂 |
42 | ラヴレンチー | イヴァーノヴィチ | クロヴァーヴイ | ガトーヴィチ共産党 | — | — | — | 884 | 884 | ツァーリ国との和解(スヴャトホースト合意) |
43 | フンクツィヤ | ラガリフモーヴナ | カリクリャータルスカヤ | 社会民主党 | 立憲進歩党 | 労働党 | 正教保守党 | 884 | 904 | 対SSPact論争 |
44 | フンクツィヤ | ラガリフモーヴナ | カリクリャータルスカヤ | 社会民主党 | 立憲進歩党 | 労働党 | — | 904 | 916 | スルガ問題、辞職 |
45 | アジ | ゲヴァルトーヴィチ | オルゴフ | 社会民主党 | 立憲進歩党 | 労働党 | — | 916 | 924 | — |
46 | ルィバ | ニコラエヴナ | アレクサンドロヴァ | 労働党 | 立憲進歩党 | — | — | 924 | 935 | ヴォロス宮事件 |
47 | ボリス | イリイチ | ギンクゴーネン | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | — | 935 | 955 | 神聖ガトーヴィチ帝国成立 |
48 | アナスタシヤ | イオアーノヴナ | ポポーヴァ | 正教保守党 | 立憲進歩党 | — | — | 955 | 975 | セニオリス情勢への関与 |
49 | キリル | コジェヴィチ | ズダチョーフ | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | — | 975 | 995 | 対舌無策 |
50 | イオアーンナ | イオーシフォヴナ | ノジーンスカヤ | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | — | 995 | 1015 | セフィロトノード議案 |
51 | イオアーンナ | イオーシフォヴナ | ノジーンスカヤ | 帝国発展党 | 正教保守党 | — | — | 1015 | 1035 | BCAT同盟理事国獲得運動 |
52 | ダーマ | ルスラーノヴナ | ピーカヴァヤ | 立憲進歩党 | — | — | — | 1035 | 1036 | 少数与党 |
53 | ダーマ | ルスラーノヴナ | ピーカヴァヤ | 立憲進歩党 | 社会民主党 | — | — | 1036 | 1055 | 瓦利経済協力 |
54 | ドミトリー | ボリーソヴィチ | ギンクゴーネン | 帝国発展党 | 立憲進歩党 | — | — | 1055 | ― | ― |
55 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
56 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
57 | ヘルト | アンダーロヴィチ | ブレードフ | 帝国発展党 | 立憲進歩党 | 1115 | ||||
政党一覧
- ガトーヴィチ共産党ГКП (ゲーカーペー)Готовитская коммунимтическая партия
- 極左。435年結党、643年解散命令、799年再結党 。極左政党。共産主義の信奉者らが結党した。君帝の廃止、労働者階級の代表による国家運営を提唱、究極の目標は共産主義国家の樹立である。しばしば活動を禁じられている。
- 社会民主党СДП(エスデーペー) Социал-демократическая партия
- 左派。525年結党、650年解散命令、724年再結党。瓦成安保改定等で中道左派への転換を図ったミーロフ党首に反発した旧国民党(現労働党)の議員、および極左色を強める共産党に見切りをつけた同党の右派議員らが結党した。政策は旧国民党の政策に類似しており、軍事費削減、高福祉社会の実現など。一度解散を命じられたが、国体純化法改正を受けて724年に再結党した。
- 労働党ЛП(エルペー)Лейбористкая партия
- 中道左派。434年結党、524年改称。中道左派政党。保守的な立憲帝政党(当時)に対抗する形で結成された。旧称は国民党。低負担(減税)・高福祉社会を実現させるため、軍事費、公費の削減を訴える。諸外国とは協調外交で接し平和国家を目指す。党名を変更した頃から中道に寄る。935年第43回選挙で党勢を失った。
- 立憲進歩党КПП(カーペーペー)Конституционно-прогрессивная партия
- 中道右派。434年結党。建国当時から君帝を輔弼してきた学者・専門家らが結党した。旧称は立憲帝政党。「自然且つ緩やかな経済発展」が目標で、自由主義経済を標榜する。政権を担当した期間が最も長く、気位が高い。
- 正教保守党ПКП(ペーカーペー)Православная консервативная партия
- 保守・宗教。650年結党。正教の教義を尊重し伝統文化を継承することを目的とする。
- 帝国発展党ПРИ(ペーエルイー)Партия развития и империи
- 極右。436年結党。軍事軽視の立憲帝政党(当時)に対抗して結党された。君帝の指導のもと国力を強化する全体主義を標榜する。瓦辺戦争後の選挙(639年)以来、我が国の指導的地位にあったが、774年の五月革命によってその地位を追われた。現在は、スラヴ主義路線を放棄し、正教主義路線を掲げている。
国連大使
第4代フリューゲル国際連合神聖ガトーヴィチ帝国常駐代表大使
デニス・キリーロヴィチ・ブラーノフ, Деннис Кириллович Буранов
外交
国交樹立基準
我が国は、自動国交樹立方式を採用している。
参加中の国際機構
- WTCO(国際交易協力機構)
- 我が国は816年6月に加盟した。
- FUN(フリューゲル国際連合)
- 我が国には850年の発足からの原加盟国であり、852年より安全保障理事会一般理事国を務めていた。
- オプシストヴァ(ソサエティ)
条約
- ガトーヴィチ民主帝国とロシジュア帝国との間の交流に関する協定
- ガトーヴィチ民主帝国とリブル民主共和国との間の平和友好交流条約
ガトーヴィチ民主帝国とアッザース朝との間の銀鉱山の開発に関する協定- ガトーヴィチ民主帝国とベロガトーヴィチ大公国との間の安全保障条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とリブル民主主義人民共和国との間の銀鉱山の開発に関する協定
- 神聖ガトーヴィチ帝国とサンシャ独立国との間の不可侵条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とサンシャ独立国との間の修好条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とベロガトーヴィチ大公国との間の銀鉱山の開発に関する協定
- 神聖ガトーヴィチ帝国と民族自治軍管区ハルィチナーとの間の修好条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とルクスマグナ共和合衆皇国の平和友好条約
地理
ガトーヴィチはほぼ全土が亜寒帯湿潤気候に属し、一部が温帯湿潤気候に属する。元来、ガトヴィカ米と呼ばれる寒さに強い独自種が栽培されていたが、現在は食料自給率の低下により、ジャポニカ米およびインディカ米の流通量が増大している。
行政区画 1市18県
- イヴァングラート市
- 帝国の首都。中心にある官公庁街はザーマク(Замок、城郭)と称され。、官僚機構の換喩として用いられる。
- 東イヴァングラート県
- 光り輝く巨石、成長記念碑、観光都市を抱える。
- 西イヴァングラート県
- 帝居、官邸が立地する。
- コリツォー県
- クミス銀山の銀を利用した鉱工業と、クミス湖における養殖業が盛ん。「ガトーヴィチ養殖業組合」は、国内有数のロビー団体として有名。養殖ブリ「シリブロー」は、お歳暮やお土産に欠かせない。
- チェーニスク県
- チェーニスクの森とチェーニスク大聖堂しかない。県民は敬虔な陰キャである。
- ローシスク県
- 建国初期創業の老舗遊園地プラウダを抱える。
- セヴェロモルスク県
- 建国初期に造成された海抜ゼロメートル地帯。北の商業文化都市。
- イノラ県
- 帝国初の怪獣が出現した地であることが名付けられた。怪獣の出現跡地には、多神教のガトーヴィチ宗に基づく怪獣神社が建立されている。
- ラヴニーナ県
- 建国初期、北西方向への干拓の足掛かりとなった地域。平原。
- ドィーム県
- ガトーヴィチ本島の西部に位置する。工業生産額全国一のドィーム工業地帯を抱える。
- ザーパドナヤ・カロヴァ県
- 県東部はドィーム工業地帯に含まれる。県西部はのどかな地方都市と言うべき風景。
- ヴァダーコイ県
- ドィーム県の南に位置し、国際貿易港ヴァダーコイ港を抱える商業都市。
- ヴァルヴァルストヴォ県
- 首都圏とデー・ヴェー圏(ドィーム・ヴァダーコイ圏)との間にあるド田舎。大都市圏に挟まれているのに、なぜか全く発展しない。とてつもなくきつい訛りととてつもなく古い風習を保っている。
- 中央ガトーヴィチ県
- ドヴァトリピャーチウラン鉱山のウラン採掘業が盛ん。
- ユークリル県
- 帝国の南に位置する諸島。ナダニヌール宇宙基地は帝国宇宙開発の拠点。大洋に臨むため観光業が盛ん。
- ユジノズヴェズダー県
- 帝国南東部ズヴェズダー島南部。630年代に首都機能分散の一環として国会議事堂が移転した。国会議事堂は、ネオバロック建築の傑作であり、多くの観光客が訪れる。
- セヴェロズヴェズダー県
- 帝国南東部ズヴェズダー島北部。ユジノズヴェズダー県には色々な点で負けているが、森を活用した観光業が盛ん。
- オストラフ県
- 元々帝国北東部の流刑地であったが、8世紀より開発が進み、今では軍需産業が花開いている。
- アスタリノイ県
- 帝国北西部の細い島。セヴェロモルスク都市圏の防波堤としての存在価値を持っており、県民は絶望的に隠キャである。
文化
国歌 栄えよ、ガトーヴィチ!/Процветай, Готовить!
480年1月16日、国歌法の成立により制定された。作曲者は民謡を取り入れた交響曲制作に定評があるアシュルモフ氏、作詞者はテジュールヴィチ氏(だが彼は曲の難解さに匙を投げ作詞を放棄し、「Ураと叫んでおればよい」という言葉を残した)。五拍子で、ガトーヴィチ民謡特有の陰湿さが良くも悪くも表れた国歌であり、国民の支持不支持は五分五分といったところ。
準国歌 君帝行進曲/Марш Императора
506年3月24日、スヴャトホースト君帝陛下御即位10周年を記念し、国歌同様、アシュルモフ氏が作曲を、テジュールヴィチ氏が作詞をした。旧ロシア帝国の国歌「神よツァーリを護り給え」の旋律が引用されている他、印象的な音型「Es(S)→H」が多用されている。これは御名「Святхост(スヴャトホースト)」の「С(S)」と「Х(H)」からとっている。
国旗
白が純粋な国民性を、青が四方の海洋を、赤が発展の象徴である太陽とガトーヴィチ本島を表す。日+ロ。税関旗に酷似しており、税関国家ガトーヴィチとも言う。
国章 十八歯輪稲穂玄鳥紋
建国前史にゆかりのある稲穂と、稲作における益鳥であるツバメが、工業国を象徴する歯車を取り囲むように配置されている。
国鳥 ツバメ(Ласточка、ラースタチカ)
国章、イヴァングラート帝国大学燕が丘キャンパス、609年第二回国際スポーツ大会山岡大会に出場したガトーヴィチ代表野球チーム「ラースタチキ・ガトーヴィチ(ラストーチキ・ガトーヴィチ、ガトーヴィチ・スワローズ)」、3泊4日ロムレーの旅を手掛ける「ラースタチキ交通社(ラストーチキ交通社)」等、ガトーヴィチ人に愛されている鳥である。
高等教育
宗教
ガトーヴィチ正教会
ガトーヴィチ正教史
ガトーヴィチ正教会は、帝国民の8割が信仰している、国内最大の宗教である。5、6世紀に、正教を信仰する帝国民は限られていたが、転機となったのは、キスラロートКислород第九代君帝(在位595-631)の治世である。キスラロート君帝は、タチヤナ2年-596年-に
朕深く帝室と朕が国家の現状とに鑑み正教への改宗を聖断し而して正教要理及び洗礼を受け以て正教徒と為れり。…
という書き出しの「正教改宗の勅語」を発表し、(1)正教への改宗 (2)聖堂の建設 (3)君帝の君主号維持を表明した。当時、キスラロート君帝の御身辺では、イストーチニク先帝陛下の崩御に続き、姉のコージャ皇女・娘のラパータ皇女が薨去、さらにはオストラフ県に巨大隕石が落下し、県内の防衛大学校で勉学に励まれていた皇孫ミェール公も犠牲となった。こうした悲劇が、元々正教に関心をお寄せになっていたキスラロート君帝が改宗を決断した理由とみられている。
タチヤナ5年-599年-の宗教統計調査では、ナターシャ14年-589年-比でガトーヴィチ宗(後述)の信者数が1/3に、正教の信者数が4倍になった。
タチヤナ14年-608年-には、救世主ハリストス大聖堂において新コンスタンティノープル・イヴァングラート大主教、全地総主教に着座された。全地総主教は、6世紀はじめにシオン総主教が就いていた地位であった。君帝と全地総主教を兼任するという事態は、皇帝と総主教が互いに尊重・理解しあい、この世を鑑とするビサンティン=ハーモニーから外れており、フリューゲルにおける唯一の正教会の方針を決定づけるものとなった。
タチヤナ19年-613年-、キスラロートイヴァングラート総主教・全地総主教・君帝は、
朕惟ふに、我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民正教を篤く信仰するに因りて、帝国愈々殷盛を極めたり。(中略)然るに朕爾臣民と倶に瓦都美地正教を国教と為し之を拳々服膺して皆其徳を一にせんことを庶幾ふ。
という文の「国教に関する勅語」を渙発し、タチヤナ22年-616年-にはゾロアスター教を名指しで批判する「異教に関する勅語」を渙発した。その後は、ゾロアスター教徒によるデモが発生し、618年には正教保守党グランカ司宰の暗殺事件(血の降誕祭事件)、君帝の権限縮小を求めるデモ隊と近衛軍の衝突、帝国議会の解散総選挙が立て続けに起こった。タチヤナ37年-631年-、キスラロート君帝の崩御により、ガトーヴィチの宗教的混迷は終熄したが、このタチヤナ時代を転機として、ガトーヴィチ正教会は帝国における一大宗教の地位を確立したのである。
ガトーヴィチ正教の現在
現在、ガトーヴィチには新コンスタンティノーポリ・イヴァングラート総主教庁、ラヴニーナ府主教庁が存在し、イヴァングラート総主教は全地総主教を兼任する。君帝家は、しばしばイヴァングラート総主教・全地総主教を輩出してきたが、総主教に就いた君帝は、キスラロート君帝ただ一人である。現在、帝国民の8割以上が正教を信仰している。
古儀式派
タチヤナ2年-596年-に正教に改宗したキスラロート君帝の勅令の下、ガトーヴィチ正教会は正しい奉神礼のあり方を研究、回復し、多くの帝国民が正教に改宗した。これに対し、6世紀以前から細々と正教を信仰していた人々は、「古儀式派」と呼ばれ、パンとブドウ酒ではなく、米とウォッカを供えるなどの違いを持つ。幸いにも現在、ガトーヴィチ正教会と古儀式派は、互いに宥和的である。
ガトーヴィチ宗
大昔から存在する多神教的土着信仰を瓦宗(ガトーヴィチ宗)と称する。宗教への関心があまり高くなかった時代は、「とりあえず瓦宗」という流れで最も信者数が多かった。しかし、タチヤナ2年-596年-のキスラロート君帝御改宗以降は減少している。それでも、瓦宗の文化は慣習として人々の生活に深く根ざしているため、単に表立たなくなっただけと考えることができる。現在、帝国民の1割がガトーヴィチ宗を信仰している。