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大石動帝国

国名大石動帝国
英名Empire of Isulugi
国旗
国章
国の標語億兆一心
国歌海ゆかば
公用語日本語
首都室満京市
政体君主制・征夷大将軍開発独裁体制
太上皇帝児島宮
皇帝扇宮(第十八代)
大御所足利常子(第十二代)
征夷大将軍足利輝子(第十七代)
面積3.5万㎢
人口8.1万人
建国フリューゲル歴411年5月14日
通貨石動貫(ISK)
国花
国鳥
ccTLD.is

概要

 大石動帝国は、フリューゲルの東方地域に位置する君主国家である。411年~452年ごろの第一帝政期、456年~483年ごろの第二帝政期、527年~700年ごろの第三帝政期と、三度の滅亡・国土喪失を繰り返しながら、949年にようやく本土での戦乱を平定し、国際社会に復帰した。地球時代の日本国の西日本地域の日本人、分けても岡山県に居住していた人々をルーツとしており、独特の文化や風習を色濃く残している。

 また、「君主」である「皇帝」と「第一の臣下」(文武両官のトップ)である征夷大将軍の世襲統治による二重権威主義という独特の政治文化を有している。

身分制度

 建国以来「皇族」「公家」「武家」「平民」の四つの身分が存在する。

皇族

 石動皇帝家とその縁戚の一族。皇帝家以外には第三帝政瓦解時に皇帝家とともにカルセドニーに亡命した四宮家、在架時代に皇帝家から独立した三宮家が知られる。

公家

 地球時代の公家の系譜を汲む氏族。公家社会内部に家格という厳しいヒエラルキーを持っている。家格は上から摂関家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の6つとなっており、羽林家と名家が同格である。公家社会ではこの家格に基づいた礼節が求められる。

 第一帝政期から盛んに政権に参加していたが、ファシスト政権が成立した第二帝政期には彼らの政権参加は宮内省・神祇官・外務省に限られ、以降政府に於けるこれらの職域が彼らの門閥となる。特に宮内省は後述するように第一帝政期以来一貫して公家が要職を独占しており、皇帝を中心とした公家による「朝廷」として機能している。

 また宮中儀礼や和歌・雅楽などの、地球時代の日本国から受け継いだ伝統文化を継承する役割も担っている。

武家

 地球時代の武家の系譜を汲む氏族。その性格上第一帝政期から軍事貴族として活躍することが求められ、子弟の軍への入隊が奨励されていたことから、軍人の割合が高い。

 ファシスト政権下の第二帝政以降はなりを潜めていたが、第二帝政瓦解後は石動皇族・一部国民とともに大幹帝国へ移住、同国に於いてやはり防衛隊などに盛んに入隊したため、第三帝政の始まりとなる北条合藩連合からの本州奪還作戦に於いてはその中核をなし、第三帝政初頭のファシスト政権内部に於いて台頭、足利尊子臨時総統の初代征夷大将軍任命以降は、特に足利氏に血縁の深い武家を中心に政権に参画した。

 第三帝政以来、武家の最高峰たる足利将軍家を中心としたヒエラルキーが形成されている。

平民

 武家家格、公家家格を持たない一般国民。本来平民は皇族・公家・武家のいずれになることもできないが、第三帝政期瓦解以降の本州戦国時代では、平民から身を起こし武家の地位を手に入れたものも少なからずいると言われている。

政治

 皇帝を君主とし、その下で政府首班として大御所・征夷大将軍が行政府たる公方府の首長として統治を行い、管領がこれを輔弼する。現在は建国間もなく復興の途上にあるため、第三帝政後期の様な民主主義体制は採られておらず、征夷大将軍による開発独裁体制となっている。

公方府

 第三帝政期から存在する将軍直轄の行政機関。他国の内閣に相当。

省庁名 担当業務 内部部局・外局
公方府 将軍執政機関。 祐筆方・記録方・法制方・御目付役・事情方・広報方
政所 将軍補佐・人事・財務 国家鎮撫寄合・非常奉行・政務事情方・人事方・総務方・事情探求方・電網保全方・会計方
検断所 警察行政 所司方・民生取締方・縄目方・交通方・警護方・外国方・事情電波方
評定所 司法行政 所司方・民事方・縄目方・牢獄方・更生方・雑訴引付方
僧録司 仏教政策 僧録方・禅方・律方・真言方・天台方・曹洞方・浄土方・仏道奨励方
神宮司 神道政策 神宮司曹・神宮曹・八幡曹・稲荷曹・天神曹・儀式曹・神道奨励曹
守護所 軍政・地方行政 所司方・奉公方・守護方・海軍方・空軍方・地方(地方行政担当)・武器方・人事方・夷狄探題・総大将引付
治部省 外交 玄蕃寮(外交政策担当)・万邦協和寮(国際協力担当)・東方寮・WTCO寮・SLCN寮・埜連寮・Fenna寮・其他寮・夷狄検案司(国際情報担当)・易務寮(貿易交渉担当)・万邦法務寮(国際法担当)
大学所 教育・文化行政 別当方・教化方(教育行政担当)・初等中等教化方・高等教化方・大学寮・科学方・文化院
民部所 民生・税務 別当方・主計方(税務担当)・主税方(年金担当)・医療方・労働方・徳政方(社会援助担当)
商売所 経済担当 所司方・百姓方(農業政策担当)・商人方(商業政策担当)・工場方(工業政策担当)・土倉方(金融担当)

閣僚名簿

大御所 足利常子
征夷大将軍 足利輝子
管領 細川幽子
政所執事 伊勢隆貞
検断所所司 赤松秀政
評定所所司 吉良頼家
僧録 国師夢宗
神宮司統理 藤波宗忠
守護所所司 山名堯子
治部卿 二条治子
大学所別当 勧修寺豊子
民部所所司 畠山煕晴
商売所所司 上杉輝代

宮内省

 皇室関係の国家事務全般を担当する行政機関。第一帝政期から掲げられた「宮中・府中の別」の原則を守るため、第一帝政以来一貫して内閣及び公方府に属さない行政機関として存在している。

 職員はその殆どが上級~下級公家であり、いかなる時代においても石動における「朝廷」として機能している。第四帝政成立前のカルセドニーの「在架石動朝廷」はこの宮内省の機能を在架石動人公家らが存続・維持させたもので、扇宮皇帝の本州帰洛後は「在架石動朝廷」の組織がそのまま宮内省として改組・継承された。

組織

内部部局

  • 宮内卿職
  • 侍従職
  • 内侍司
  • 宗秩寮
  • 諸陵寮
  • 図書寮
  • 典薬寮
  • 大炊寮
  • 内蔵寮
  • 内匠寮
  • 主馬寮
  • 総務局

外局

  • 皇婿宮職
  • 春宮職
  • 帝室会計審査局
  • 御歌所
  • 帝室博物館
  • 学習院
  • 近衛府

征夷大将軍

 第三帝政期から続く大石動帝国の政府首班であり、帝国の文武両官の頂点に立つ職位。第三帝政期の南北朝状態にあたって真備宮皇帝が足利尊子総統を「征夷大将軍」に任命したのが初出。内閣制度下では陸海親衛三軍の全指揮権を掌握する国家最高軍事指導者であったが、公方府体制の成立により事実上軍事行政の最高指導者となった。尊称は「大樹」「大君」「将軍殿下」「公方殿下」(一見武官の様で、内情は武官と文官の頂点に立つ官職であるため、地球時代の室町幕府将軍の例に倣い尊称は殿下である。無論、軍の将官とも明確に差別化されている)
 征夷大将軍設置の令・公方府法その他慣例などにより以下の権限が規定されている。

  • 公方府閣僚級職員、その他要職の任命権
  • 独立命令である将軍御教書の発令
  • 近衛軍を除く帝国四軍の統帥権
  • 戒厳令・非常事態宣言の発令
  • あらゆる弾劾裁判に掛けられない
  • 臨済宗五山の決定権(大御所不在時のみ)
  • 上奏文内覧権
  • 重要な政治決定に関する国民投票の実施権

歴代征夷大将軍

代数 氏名 生没年 在位期間
初代 足利尊子 499~585 532~578
第二代 足利晶子 538~608 578~608
第三代 足利滿子 572~682 608~653
第四代 足利持子 613~693 653~683
第五代 足利嗣子 618~695 683~695
第六代 足利教子 628~700 695~700
第七代 足利尚子 675~745 700~730
第八代 足利材子 717~788 730~757
第九代 足利澄子 743~806 757~782
第十代 足利植子 770~851 782~802
第十一代 足利晴子 791~867 802~833
第十二代 足利栄子 816~884 833~862
第十三代 足利昭子 843~918 862~883
第十四代 足利通子 861~932 883~907
第十五代 足利周子 882~938 907~928
第十六代 足利常子 903~ 928~942
第十七代 足利輝子 928~ 942~

大御所

 大御所とは、現将軍の実母たる前将軍のことである。足利尊子初代征夷大将軍が将軍位を返上した後の尊称が「大御所」であったことが初出。当初は単なる尊称であり明確な権限は無く、初代大御所である尊子殿下も退位後は政治関与をほとんど行わなかったことから「生前退位した前将軍」という程度の意味しか持たなかったが、滿子将軍退位3年前の650年に当時の滿子将軍が「大御所設置の令」を評定院で可決させ、同法によりその職分が明文化された。大御所たる資格を持つ者は「現将軍の実母」と定義され、将軍の後見として為政諮問ならびに人事諮問を行うことができる。さらに将軍の独立命令である将軍御教書より高い効果を持ち、場合によっては将軍御教書を無効化することが出来る「大御所御教書」を発令することができる。尊称は「仙洞大樹」「仙洞大君」「大御所殿下

 大御所設置の令・公方府法その他慣例により以下の権限が規定されている。

  • 将軍に対する強制権のある為政に関する諮問
  • 将軍に対する強制権のある閣僚・要職人事に関する諮問
  • 独立命令であり将軍御教書を無効化することができるできる大御所御教書の発令
  • あらゆる弾劾裁判に掛けられない
  • 臨済宗五山の決定権
  • 上奏文内覧権
  • 重要な政治決定に関する国民投票の実施権

歴代大御所

代数 氏名 在位期間
初代 足利尊子 578~585
第二代 足利満子 653~682
第三代 足利尚子 730~745
第四代 足利材子 757~782
第五代 足利澄子 782~802
第六代
足利植子
802~833
第七代
足利晴子
833~862
第八代
足利栄子
862~883
第九代
足利昭子
883~862
第十代
足利通子
907~928
第十一代
足利周子
928~938
第十二代
足利常子
942~

皇帝

 皇帝は大石動帝国の君主である。フリューゲルに於いては地球時代の天皇家の血統を受け継ぐ家系である。地球時代の日本国皇帝家は男系として知られるが、皇帝家の祖である高松宮家(21世紀後半に再興)は当時の日本国政府の皇室典範改正により設置が認められた女系の「女性宮家」である。そのため石動皇帝家は代々女系として日本天皇家の万世一系の血統を護持している。石動皇帝たる「皇帝」は音読みの他、和訓で「すめらみかど」とも読む。その他尊称として「帝(みかど)」「主上(しゅじょう・おかみ)」などがある。

 皇帝の諱は皇女として生まれた生誕時より決まり(稀に本人の希望により改名することもできる)「~宮」と名付けられ、これはその皇女の居室の名ともなる。宮の前には地球時代の日本の旧国名や伝統的な建築様式、文物の名称から採られた諱が着く。また母帝や本人の希望により歴代皇帝の諱の前に「後」を冠した諱が名付けられることもある。

 皇室典範に於いて生前退位が認められており、退位後は「太上皇帝」の尊号が贈られる。

歴代皇帝一覧

代数 生没年 在位期間
初代 駿河宮 336~434 383~411
第二代 明日香宮 402~488 411~456
第三代 近江宮 435~491 456~483
第四代 神凪宮 465~522 483~522
第五代 真備宮 512~600 532~576
第六代 旭宮 516~605 573~576
第七代 後真備宮 544~646 576~601
第八代 烏帽子宮 577~640 601~654
第九代 直衣宮 627~724 654~702
第十代 高麗宮 660~748 702~725
第十一代 難波宮 697~812 725~758
第十二代 瑞穂宮 730~805 758~790
第十三代 蘆原宮 765~848 790~714
第十四代 後烏帽子宮 793~860 714~850
第十五代 後直衣宮 830~927 850~890
第十六代 美作宮 862~945 890~912
第十七代 児島宮 890~ 912~948
第十八代 扇宮 926~ 948~

司法

 立憲君主制であった第一帝政期は、帝国憲法および帝国六法に基づいた裁判が行われていたが、第二帝政以降「内閣委任統治法」により「憲法」が事実上失効してからは「違憲」という概念が失われ、刑事・民事裁判が司法機関の主な役割となった。刑事・民事裁判の制度や法令そのものは第一帝政期からさして変わらない。三審制がとられており、以下の裁判所が存在する。

名称 所在地 概要
弾正院 室満京市 最高裁判所。三審を下す。
門注院 満室京市・敷倉市・津山市 高等裁判所。二審を下す。
引付院 各道府県庁所在地 地方裁判所。一審を下す。

立法

 第三帝政期は立法会議が設置され、民主的な体制で平民へも政治参画の門戸が開かれていたが、現在は建国間もないため、上級武家・上級公家による合議制が採られている。立法府として評定院が存在し、各上級武家・上級公家の当主・前当主・次期当主が議席を持つ。

地方行政

 各地の武装勢力・地方政権が群雄割拠していた戦国時代の本州を平定した名残として、現在地方行政は各地の守護軍(他国の陸軍に相当)が担当している。守護軍は各道府県に守護総軍を置き、各守護総軍司令官(通称「守護」)が各地の地方行政を統括している。

外交関係

 現在以下の国家と国交を有している。

国名 治部省公式漢字表記(略称)
カルセドニー社会主義共和国 架爾設都尼(架)
リブル民主主義人民共和国
利布爾(利)
成蘭(成)
民族自治軍管区ハルィチナー
巴爾底尼(巴)
エステル国
愛沙底爾(愛)
埜也久爾斯(埜)
秋津(秋)
賛沙(賛)
ベロガトーヴィチ大公国
白瓦都斐(白)
瓦都斐(瓦)
御岳山(岳)

締結中の条約

人物列伝

足利輝子

928年3月10日生。正二位征夷大将軍(第十七代)

 母、足利常子が病弱であったため、942年に14歳で将軍職を継ぐ。将軍就任前から剣豪・塚原凸伝の剣術指南を受け、奥義「一之太刀」を習得したと言われる。その後944年に、逆心を起こした幕臣松永秀久に三十名の刀剣・銃火器で武装した刺客を差し向けられたが、左肩・右胸・右腿に銃弾を浴びながらも十九名の刺客を斬殺し難を逃れた。945年に本州関東で勢力を伸ばしていた織田野鮒臥軍を滅ぼし、948年には毒川安家の糾合した本州北部勢力を打ち破り、本州を統一。949年に公方府臨時政府を発足し、在架石動朝廷と連絡を取り、皇帝による自身の正式な将軍宣下と、皇帝の本州帰国による大石動帝国の再興を成し遂げた。