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石動史

建国以前

 地球時代の21世紀後半、日本国に於いて皇室典範改正が行われ、女性宮家の創設が認められた。皇室はこれにより「高松宮家」を再興させた。その後、深刻な地球の環境悪化を危惧した日本政府は国連のユニティプロジェクトへ参加を決定、天皇家を中心とした移民船団を宇宙へ送り出した。しかしこれと並行して日本政府は、「日本国天皇家の血脈をより確実に存続させる」ことを目的とし、各地から宮家を中心とした移民ロケットを打ち上げる「カミヨ計画」を発動。岡山県ではこれにより高松宮家を中心とする移民団が編成され、21世紀末、超大型移民宇宙船「希望号」が移民団を乗せ、地球を旅立った。しかし同船は冥王星通過後に強力な磁気嵐に巻き込まれ、何百年もの漂流を余儀なくされ、その間数世代にわたり宇宙船内での世代交代が繰り返され、やがて宇宙船は閉じられた空間内でのストレスから諍いや殺し合いが頻発。しかしそれを和を以て収めたのが、希望号における高松宮家の長、駿子であった。彼女は後に初代皇帝駿河宮として即位することとなる。

 その後、フリューゲル歴380年ごろに希望号は現在の石動本州の児島に不時着。一団は駿河宮を皇帝として戴き、漁労・狩猟・農業で生計を立てつつ、地球史に堪能なものを中心として国家としての枠組みを整備していき、遂に411年5月14日、駿河宮皇帝は明日香宮皇帝へ譲位。明日香宮皇帝は「大石動帝国」の建国を宣言した。これが第一帝政の始まりである。

第一帝政

憲法発布
大石動帝国憲法発布式の図。壇上の人物は明日香宮皇帝

 明日香宮皇帝は、武家の新田智義を初代総統に任じ、新田内閣は成蘭連邦王国のウラン鉱山開発支援を取り付けた。しかし413年に国土開発のために算出資源の中でも特に重要視されていた石材が欠乏。総統に避難が集中したため、新田総統は精神を病みサナトリウムに入院。この間代理を務めた陸軍卿足利孝弘陸軍大将が事実上二代総統となるに至った。この時新田元総統は足利総統の就任を「指導者不在を利用した狡猾なクーデター」などと批判し非常に恨んだと言われており、暗殺騒動までもが巻き起こり、武家内における新田氏と足利氏の深刻な対立を生んだ。

 成蘭連邦王国の支援の下、帝国は燃料欠乏問題・自由民権運動・震災や怪獣被害などを経験しつつ、急速に発展していき、北畠内閣の頃に至っては新興国である瑞陵王国へウラン鉱山開発援助を行い、その対価として不当なレートでのウラン輸出を強要するといった強圧的な行為や、アルカディア経済国家共同体への加盟を行うなど、その内外の発展は目を見張るものがあった。しかし北畠三代総統の辞任に伴い、448年12月に初の平民出身総統である田中藤次四代総統が就任。この時同盟国である大神連邦や友邦天津飯帝国が崩壊。この当時の帝国の栄華は貿易によるものが大きかった為、取引国の崩壊による経済破綻が起こり、間もなく民心は帝国を離れ、国土は荒廃し、帝国は事実上崩壊した。また、この際の田中総統の無策は、石動人に、政党政治・議会政治に対する大きな失望をもたらした。

天理教国時代

天理教国旗
神性天理教国国旗

 第一帝政瓦解後、石動の大規模な宗教団体である天理教の教主、中山薫子は、自給自足農業で経済破綻の影響を受けなかった石動領菜良島に注目。同島を拠点に宗教国家、「神性天理教国」を建国することに決定。早速同島に上陸し島民に布教を試みたが、地域に根差した仏教が深く根付いていた同島での布教は成功しなかったため、失業軍人の信徒らに安価なオストマルク製銃器を配布し「教庁自衛隊」を組織。武力により同島を実効支配し、455年1月15日に神性天理教国の建国を広く世界に宣言した。しかし、この動きを憂慮した極右団体、国家社会主義石動労働者党(以下、国社党)は、少数の近衛残党とともに本州に残っていた明日香宮皇帝の三女、近江宮第三皇女に状況を説明し、菜良島を残存兵力で奪還し帝政石動を再建する事を提案する。近江宮第三皇女はこれに同調し、赤松雅彦陸軍中将を総司令として陸海軍残存兵力を糾合し、国社党臣民突撃隊と共に456年1月13日に菜良島へ上陸。教庁自衛隊の応戦も虚しく、2月2日には皇女軍は天理教本部目前まで迫り、天理教国は降伏した。中山薫子は一度は幹部らとともに逃亡を図り香麗民主連邦との接触を試みたがこれを拒絶され、457年9月7日、龍鮮王国領で途方に暮れている所を龍鮮警察に逮捕、強制送還された。彼女は10月14日に臨時裁判において死刑判決が下された。

第二帝政

首都龍城京市に展開する首都圏治安警察機構特別機動突撃隊

 456年2月2日に菜良島を奪還した近江宮第三皇女は、菜良市で石動三代皇帝に即位。石動第二帝国の建国を宣言した。第一帝政瓦解の失敗を重く見た近江宮皇帝は、国社党に立法や行政権力を移譲することを決断、これにより2月4日、第二帝国暫定統治政府第一回最高為政会議は、「内閣委任統治法」を発布し大石動帝国憲法を事実上停止。ここに「国家社会主義君主制国家」という奇妙な国家が形成された。暫定政府臨時総統には菜良島奪還作戦の総司令であった赤松雅彦中将が推挙された。その後震災を経験したり、強力な電波障害による鎖国を余儀なくされつつも、第二帝政は順調に発展し、467年5月22日には首都圏治安警察機構法が制定され、警察国家的な国家社会主義国としての法整備も順調に勧めていった。

 471年7月17日に赤松総統が高齢により辞意表明を行うと、国社党が制度化した全国民投票による総統選挙が行われた(皮肉なことにこの選挙こそが石動で唯一行われた民選による政治指導者選挙であった)。宮内省は候補者として楠木雅之陸軍中将、千早敬三副総統、高野直内閣総統府書記官長を指名した。楠木中将には総統就任の意欲はなかったため、選挙は実質千早副総統と高野書記官長の一騎打ちとなった。千早副総統は第一帝政期の平民院議員であり、「立憲君主制への回帰」「社会保障・教育・インフラ整備並行進行」を標榜する国社党内の元平民院議員らによる「議会派」の中心人物であった。対して高野書記官長は「インフラ整備・教育・社会保障」の順に整備を行っていくべきという国社党内の急進派「発展派」の急先鋒と言える人物であった。選挙は99.8%という異常な投票率を記録し、8935票の僅差で高野直書記官長が当選。第六代総統に就任した。ここから議会派は党内から一掃され、石動は国家社会主義君主国家としての道を突き進むこととなった。

 その後475年2月8日、当時中夏民国の軍政下から独立した秋津皇国からの要請を受け、同国を併合し、秋津皇王領秋津州とした。この際秋津側の提案により国号を大石動帝国と改めた。石動領秋津皇王領秋津州こはその名の通り併合後も秋津皇王が統治する地域とされ、独自の軍事力である「州軍」の保有も認められていた。

 その二年後の477年12月、友好国龍鮮王国にて共産主義者が蜂起、龍鮮戦争が勃発した。高野直総統は龍鮮王国の要請を受けすぐさま龍鮮政府の援助を決定。2月10日には近衛第一師団、第六・第七師団、武装親衛隊第二親衛機甲師団を派遣。27日には東海に戦艦アマテラスほか重巡2隻、軽巡6隻を派遣。中夏人民共和国義勇軍の介入に悩まされながらも、3月には陸軍約5万、秋津州軍約4万の増派も行われ、12月に龍鮮・石動・ノイエクルス・エルジアによる連合軍により赤軍は撃退され、龍鮮戦争が集結。この戦争により石動軍は弱兵ぶりを晒しつつも、のちに大幹帝国となる龍鮮王国とより深い信頼関係を築くこととなる。

 しかし一方で秋津州との関係は微妙なものになっていた。石動政府は秋津州に対しインフラ整備と国内産業の商業特化を指示していたが、秋津州は一向にこれを実行せず、保有を認められていた州軍の徒な増強を繰り返し、遂には突如として国内の商業都市を全て工業都市に作り変えるに至った。秋津州の態度に絶望し、もはや秋津州の領有は不可能と見た政府は480年4月3日には秋津総督柏宮親王を帰国させ、10日には全在留邦人が撤退。6月12日に主権を放棄した。石動政府の主権放棄を受けて秋津は大秋津帝国を名乗り独立を宣言したが(この際声明において「やられたらやり返す、倍返しだ」などと意味不明なことを言っていたという)、結局なんの前触れもなく滅亡してしまった。極端な軍拡と劣悪なインフラ環境で国内の不満が爆発し、政権が打倒され再び群雄割拠の時代に逆戻りしたものとされている。

 しかしそれから三年後の483年12月27日、政府は玉島原子力発電所がメルトダウンしていたことを発表。小さな菜良島はたちまち全域が放射能影響下に入る事が発覚し、政府は同島を放棄し皇族・武家・公家を中心に友邦龍鮮王国へ亡命し、翌484年1月18日に在龍石動臣民臨時亡命政府(後に龍鮮王国が国号を大幹帝国と改めたため、在幹石動臣民臨時亡命政府)を発足した。しかし行き場をなくした多くの石動人は世界各地へ散り散りに逃れていった。この際、無政府状態となっていた旧本州(現在の石動本州)へ逃れた者たちも少なくなかったという。 その後、皇帝のもとに集った在幹石動人達は大幹帝国と共に、オセアニカ・アースガルド戦争の敗北という艱難辛苦を味わうこととなる。

北条政権時代

北条合藩連合旗

 在幹石動人たちが幹国で敗戦の苦渋と復興を味わっていた頃、本州は依然として無政府状態の無主地と化しており、テロリスト・マフィア・海賊・敗残兵軍閥が各々勢力を築き群雄割拠する無法地帯と化していた。そんな中、一人の秋津系石動マフィアの北条司は、麻薬売買や人身売買の仲介を行って得た金で香麗から武器を仕入れ、各地の勢力に対し懐柔と侵略を繰り返し、遂には本州を統一するに至った。本州統一を成した北条司は各地の有力者を藩主に封じ、522年12月4日に「北条合藩連合」の建国を宣言。大幹帝国政府に対し、自国との国交と「石動の象徴として」の時の石動皇帝後明日香宮の「保護のための」引渡しを求めた。これに対し大幹帝国は「大幹帝国政府が石動において認める唯一の正統政府は在幹石動臨時亡命政府のみ」「後明日香宮皇帝は渡石を拒否している」という理由で北条側の申し出を拒否。遂には足利尊子臨時総統を中心とする石動亡命政府により「在幹石動臣民突撃義勇軍」が組織され、大幹帝国軍の援護を受けて翌523年6月13日に本州へ上陸した。これを石動動乱と呼ぶ。

 北条は香麗の支援を受け頑強に抵抗したが、北条に与していた新田藩の離反やレゴリス・フリューなど列国の参戦により、わずか4ヶ月後の10月13日、山岡市の陥落に伴い北条合藩連合は降伏した。

第三帝政

南北朝時代(南北動乱の発生と終焉)

南朝軍の爆撃を受ける津山市

 本州の奪還が成ったため後明日香宮皇帝は室満京において「石動第三帝国」としての石動帝国の復活を宣言。第一帝政期の足利孝弘総統の曾孫にあたる足利尊子臨時総統は六代総統に就任した。第三帝政の始まりである。第三帝国は再び成蘭連邦王国の支援やレゴリス帝国の融資を受けつつ、528年にはオセアニカ経済協定(CAME)に、530年にはオセアニカ条約機構(OTO)に加盟し、晴れて友邦大幹帝国(現大和寧帝国)の盟邦に返り咲いた。

 第三帝政初頭の石動は第二帝政期のファシスト政権としての政治機構を踏襲しつつも、その実情は第二帝政期とは異なる武家専制体制となっていた。というのも先の石動動乱期に本州奪還を成し遂げた在幹石動臣民突撃義勇軍は、大幹帝国防衛隊員での軍歴を持つ者によって構成されたが、分けても将校経験者は武家出身の者が圧倒的に多く、指揮官として義勇軍の指導的役割を果たした。これによって第三帝政期初頭の国社党に於いては「本州奪還の功ある」武家に中枢を握られ、神輿として担ぎ上げられた足利尊子総統を中心とする武家政権の様相を呈した。「血の正統性」を根拠に指導部が貴族的集団に支配される状況はもはや「国家社会主義」的政治体制とはかけ離れた体制と言わざるを得ず、この状況を第二帝政期を知る古参党員は「我が国はもはや封建貴族主義石動武家党だ」と評した。

 しかし足利尊子総統を中心とした武家勢力に政権が恣にされている状況に、後明日香宮皇帝を中心とする公家勢力は大いに不満を抱いていた。彼らは第一帝政期の立憲君主体制下では公家院議員や閣僚としてある程度の政治参画が認められていたため、第二帝政下での国社党専制、第三帝政下での武家専制に永らく不満を募らせていたのである。時の宮内卿兼内大臣北畠千恵は、後明日香宮皇帝に「軍事クーデターで武家勢力を排除し、皇帝が君臨しながら統治するあるべき帝政国家を建国すべき」と進言し、後明日香宮を中心とした公家勢力は陸軍近衛や新田沙代副総統・楠木雅茂陸軍大佐などの協力を取り付け、532年2月9日に帝都において蜂起。第三帝国政府を撃退し正統吉備皇国の建国を宣言した。これを石動南北動乱と呼ぶ。第三帝国政府はやむなく明日香宮皇帝の第二皇女、柏宮の孫にあたる真備宮王を皇帝に奉じ帝都北方の津山市に大本営を設置。さらに真備宮皇帝が足利尊子総統を陸海軍・武装親衛隊の最高指揮官たる征夷大将軍に任命し、自身の正当性を主張。ここに石動国内に於いて二つの皇統・二つの政府がお互いの正当性を主張しあう南北朝状態が醸成された。その後大幹帝国の北朝支援もあって北朝は南朝を本州南方の浄土島、並びに秋津地域南部の丘州へ追いやったが、依然として南北の拮抗は続き、その間南朝による本土浸透作戦・商船拿捕事件や、それを受けての大幹帝国による丘州討伐などが行われた。

 そうした中で足利尊子将軍は543年10月1日、建国以来の歴史を持つ内閣制度を廃止し、征夷大将軍が兵権・行政の全権限を司る公方府制を確立させた。これにより北朝における足利尊子将軍の権力は磐石になるかと思われたが、政権内部では高野翼統合参謀総長を中心とする革新派と、足利直管領(尊子将軍の妹)を中心とする保守派の対立が表面化。直管領は高野参謀総長とその一派の乱脈ぶりを尊子将軍へ直訴し、高野参謀総長を罷免させるに至ったが、これに反発した高野翼参謀総長は配下の直参親衛軍(武装親衛隊を改組した将軍親衛部隊)を動かしクーデターを敢行。公方府を包囲し尊子将軍に自身の罷免取り消しと直管領の永久公職追放及び出家を求め、尊子将軍がこれに応じるに至った。しかしその後直管領が南朝と通じ皇国義勇軍を名乗り敷倉市で挙兵するや否や、尊子将軍は高野翼参謀総長の公職永久追放・出家を条件に直管領と和睦。さらに高野翼参謀総長は更迭中に自身が暗殺した政敵上杉重義管領の長男、上杉義典陸軍中佐に殺害されてしまった。しかしながら尊子・直姉妹の友情が復活することはなく、その後も直管領に近しい公方府高級職員・軍人などが左遷・免職・暗殺などを被るという不穏な状態が続いた。

 ただ、この様な悲惨な政争が繰り返される中でも帝国経済は確実に成長しており、明日香宮皇帝紀元150年にあたる561年5月14日の紀元節には13ヵ国の来賓を迎えた盛大な祝典が催され、世界にその復興ぶりを示した。

 しかし566年4月22日、小康状態に落ち着いたと思われていた動乱は大きな転換期を迎えた。南朝が占拠する浄土島に巨大隕石が落下し、熱病で崩御した後明日香宮の娘、後駿河宮皇帝を中心とする南朝重臣が全員死亡してしまった。これにより南北朝状態は終結したかに見えたが、秋津地域丘州の吉備秋津義勇軍が同地に滞在中の後駿河宮の妹の長押宮を奉じ、浄土島のさらに南方の嘉川島に上陸、同島を占拠したのである。彼らは長押宮を吉備六代皇帝に戴き正統吉備皇国を再建(後南朝)、南北朝状態は依然として継続された。さらに翌567年1月21日には北朝の帝都室満京市に巨大隕石が落下。皇帝・将軍ほか主要閣僚は室満京脱出に成功したものの、少なくとも600万人の国民が犠牲になり、北朝の政府機能は完全に麻痺。国内は恐慌状態に陥り、国外へ逃亡する者が続出した。さらに本土に潜伏していた南朝軍が国民の不安を煽り各地で挙兵。足利直管領も敷倉市で南朝を名乗り挙兵し、国内は荒廃した。事態を憂慮した北朝武家勢力は独断で大幹帝国の仲介を取り付け南朝との停戦協議に臨み、南朝皇帝を正統皇帝に戴くなど南朝に大幅に譲歩した条件で合併を申し入れた。南朝はすぐに条件を受け入れ、572年6月9日、石動第三帝国・正統吉備皇国両国の国交・条約を継承した大吉備帝国が成立した。この時北朝皇帝真備宮はもはや事後承諾と言える和睦に半ば恫喝にも近い形で承認を迫られたという。またこの和睦が成されるやいなや尊子将軍は自ら敷倉市の直元管領を討伐した。

 こうして名実共に南北統一がなされたかに見えたが、573年2月3日、南朝強硬派の新田秋穂陸軍卿は長押宮皇帝の承諾を取り付け「足利尊子征夷大将軍の将軍宣下取り下げ」「公方府解体」を布告した。動揺した尊子将軍と北朝武家勢力は陸軍・親衛軍主力を糾合し敷倉・津山両都市で蜂起。復興された室満京市を包囲し、布告の撤回を条件に南朝側に和睦を迫った。結果は新田陸軍卿による受諾拒否であり、尊子将軍勢力は帝都を総攻撃。大幅な経済損失を出しつつ、573年6月20日に帝都の奪還に成功。しかし南朝は北朝真備宮皇帝・孝寧院太上皇婿・後真備宮皇女ら三皇族を拉致。北朝はやむなく成蘭王太子妃となっていた衵宮皇女を太上皇帝に奉じ、彼女の叔母にあたる真備宮の妹、旭宮を北朝皇帝に戴くこととなったが、程なく南朝側和睦派の情報提供により三皇族が無事救出され、救出された後真備宮皇女が七代皇帝に即位した。こうして南北両朝は再び本州と嘉川島に対峙する構図となった。しかし578年4月14日、阿蘇直子太政大臣を中心とする南朝和睦派が嘉川島を掌握。新田秋穂を中心とする強硬派は秋津南方の埜久島へ逃れた。これを受けて遂に南北両朝は6月16日に停戦に合意し、587年1月20日に正式に停戦条約に調印。法的にも南北朝動乱は完全に収束した。南北動乱の実質交戦期間は46年、法的な交戦期間は56年にも渡った。

CAME圏・幹半島をめぐる外交史

 一方で外交においては、CAME/OTOの実質上の盟主国たるノイエクルス連邦との関係が急激に悪化していた。これは石動が申請した鋼鉄購入申請をノイエクルス自由国が二年間に渡り放置した上で、鋼鉄を潤沢に有していた上で「資源節約」を理由に取引を拒否した事件(メタルショック)に端を発する。これは公方府・皇室内に於いてノ連への不信感が急速に高まった事件であった。特に事件を問題視した後真備宮帝は尊子将軍に在石ノ連大使のペルソナノングラータを強く命じ、576年6月9日、これが実行に移されるに至った。さらに大幹帝国の仲裁よる石動・ノ連間の調停が試みられたが、ノ連側から対応が不適切であった事を認める謝意を引き出すことが絶対条件であると厳命されていた佐々木外務卿は、ノ連側の対応に接し謝意を引き出すことは不可能と見て、交渉失敗時の計画に則りCAME/OTO条約の一方的破棄を通達して足早に退出した。

 この際調停の場を設けた大幹帝国の尹阜善首相は引責により内閣総辞職を行い、大幹帝国において初の反石動政権である盧文鉉政権が成立。以後盧文鉉政権下の大幹帝国と石動との関係は急速に悪化することとなる。盧文鉉政権は大幹帝国軍石動守護帥に帰国命令を発するが、石動守護帥はこれを拒絶。これに怒った盧文鉉政権は581年7月9日、「守護帥の拘束・送還とCAME/OTO両条約破棄の撤回」を要求した最後通牒を突きつける。到底受け入れがたいとしてこれを黙殺した石動であったが、同年12月7日、幹国海上防衛隊の防衛艦「対馬」が何者かによって撃沈されると、盧文鉉政権は遂にこれを石動軍と石動守護帥によるものと断じ対石宣戦布告を行った。しかし好機と見た香麗民主連邦が大幹帝国に南進し京城が奪われたため、鄭俊雄航空幕僚長ら親石動派によるクーデターが決行され、反石的な盧文鉉政権が打倒された。石動は大幹帝国の維新政権から出兵依頼を受けたが、国際与論も考慮し、また内戦により再び幹半島が疲弊することを善としなかった公方府は、かつて香麗と通じていた旧大吉備帝国のパイプを活かし、香麗における和睦派と結託、香麗における指導部強硬派の排除を決行した。陸軍中央即応部隊群特殊作戦大隊による「夜鷹作戦」と呼ばれる特殊作戦がそれであった。果たして584年3月21日に決行された夜鷹作戦は成功、香麗強硬派首脳陣の殺害とこれによる香麗和睦派の台頭が成功し、4月1日には龍鮮統一準備政府が発足されるに至った。しかし国際社会では「国際法を無視したテロ行為」などの非難の声が上がり、同年2月に香麗へ宣戦布告していたノイエクルス連邦も「龍鮮統一準備政府は停戦条件を満たしていない」として旧香麗支配地域へ空爆を開始。龍鮮統一準備政府・ノ連間が戦争状態となったが、程なく停戦し、幹半島には統一政府にして石動友邦たる大和寧帝国が成立するに至った。

足利尊子初代征夷大将軍の薨去と、晶子二代将軍による内政改革

 この頃足利尊子初代征夷大将軍はすでに将軍位を返上し、長女の晶子が征夷大将軍の座にあったが、585年8月にはとうとう尊子初代将軍が薨去した。以後晶子将軍は大胆な内政改革に踏み切った。590年4月21日、第二帝政以降石動の治安を護ってきた首都圏治安警察機構を廃止し、商業に対する厳しい監察を撤廃。以後石動の商業売上高は急成長した。さらに同年5月11日には制限的とは言え、第二帝政以降完全に政治から切り離されていた平民の政治への参画を可能とする「立法会議」を成立させた。これによって国民の幸福度と商業売上高は大きく跳ね上がり、石動社会は大きな変革を迎えるに至った。外交面では590年代には駐石ノ連大使のペルソナノングラータ処分以降外交関係が断絶していたノイエクルス連邦との国交正常化に成功したほか、新興工業国であるスコッチランド共産主義者同盟との関係性を深め、来る足利滿子三代将軍の齎す「石動の最盛期」への土壌を固めていった。

足利晶子二代将軍の薨去と、滿子三代将軍による経済成長と民主化

 長きにわたる南北動乱から立ち直り、ようやく商業国へと成長の道を歩み始めていた石動であったが、時あたかも第二回国際スポーツ大会山岡大会の準備が進められていた608年1月6日、足利晶子二代将軍は薨去した。長女、足利滿子が将軍位を継ぎ三代将軍となった。滿子将軍は即位後の初仕事となる609年の第二回国際スポーツ大会山岡大会、さらに二年後の611年に行われた紀元200年祝典を成功裏に修めた。

 また外交面においても636年に経済面において連携を強めるスコッチランド共産主義同盟と「石動第三帝国とスコッチランド共産主義同盟の政治及び軍事に関する同盟条約」を締結し「石蘇同盟」を形成、647年には大和寧帝国崩壊号に萬洲・和寧地域を実効支配していた萬州・和寧民主共和国を、亡命政府である石動和寧国民団の求めに応じて石蘇連合軍によってこれを撃退。萬洲・中夏地域は数年間の石蘇和軍政時代を経て大和寧帝国に併合され、幹半島と中夏大陸一円を支配する大明帝国が成立した。650年には列強エルツ帝国との相互安保条約を締結し、安全保障面に於いて盤石の体制を築いた。

 さらに経済面においても643年に独自通貨である「貫」を制定し、その成長ぶりをアピールした。

 政治面に於いては647年に立法会技法・公方府法を改正し、立法会議民評院議員から「民部閣僚」たる農林卿・商工卿・逓信卿・厚生卿・労働卿と、さらにこれを指名し取りまとめる事を目的とする「副管領」を選出する「民事閣僚民選議員制関連法」を民評院が可決し、これを評定院が可決したことにより同法が成立。第二帝政以来初の、民選議員による閣僚輩出が可能となった。同年5月10日に行われた民評院解散総選挙によって自由党・社会労働党連立政権が民評院第一党の全国民衆一揆を破り民事閣僚与党と成った。

ヴァノミス危機の影響

 また満子将軍在位末期の外交事案として特筆しなければならないのが「ヴァノミス危機」であった。当時ヴァノミス戦争を経てヴォルテリア条約によりエルツ帝国・アルドラド帝国・レゴリス帝国・ENEC加盟国から成る連邦最高評議会顧問委員会の制限化に置かれていたヴァノミス連邦は、ベルサリエーレ第一共和国より砲弾を輸入、これをENEC加盟国ウェールリズセ連邦がヴォルテリア条約に反する弾薬の保有であるとして問題視し、ヴァノミス連邦が謝罪。輸入した砲弾をアルドラド帝国及びウェールリズセ連邦に半量ずつ輸送した。しかし砲弾輸出後もヴァノミス連邦は一定量の砲弾を保持しており、ウェールリズセ連邦はこれを謝罪声明に背くものとして指弾、説明を要求した。ヴァノミス連邦より件の砲弾はヴォルテリア条約批准後も顧問委員会から委譲の指示を受けず放置されているものであるとの説明があったものの、ウェールリズセ連邦は砲弾の保持そのものが条約違反であるとしてこれを取り合わず、ヴァノミス連邦を弾劾した。

 一方で顧問委員会構成国であるエルツ帝国は直ちに顧問委員会を招集、事態をヴォルテリア条約に則り、飽くまでも顧問委員会での協議を経る形で解決しようしたが、ウェールリズセ連邦は顧問委員会に於ける協議を経ないままヴァノミス連邦との交渉を一方的に打ち切り、ENEC内の軍事協定PEDECに批准するところのウェールリズセ連邦・テークサット連合・コーデクス共和国、並びにこれらの国々を持するレゴリス帝国によりヴァノミス連邦に宣戦を布告した。顧問委員会構成国でありながら顧問委員会の存在そのものを蔑ろにされたエルツ帝国は、アルドラド帝国と共にヴァノミスの防衛を宣言。アルドラド帝国はレゴリス帝国及びPEDEC批准国に対し、エルツ帝国はレゴリスとの不可侵条約からPEDEC批准国に対して宣戦を布告。さらにここに於いて各国の安保条約による宣戦布告の連鎖が起こり、エーラーン教皇国がエルツとの安保条約を適用しPEDEC批准国に宣戦、またロムレー湖畔共和国がレゴリス帝国との安保を適用しアルドラド帝国に対し宣戦を布告した。我が国公方府・外務省筋ににおいても、ウェールリズセ連邦によるひたすら対話を放棄しヴァノミス連邦を「懲罰対象」と見なして疑わないウェ連の傲慢な外交態度と、顧問委員会を招集し事態の平和裏の収束を図るエルツ帝国の顔に泥を塗る如き冒険的・好戦的外交策動は極めて批判的に受け止められ、「ウェ連膺懲すべし」との意見が支配的となった。外務省は直ちに石江相互安保を適用し同戦役に参戦すべく、エルツ帝国に対し、今次戦役が石江安保第三条に規定されている「当事国の意志と希望に反した戦争」であるのかという点を照会。エルツ帝国側はこれを肯定し、石江安保に基づく石動の参戦を求めた。ここに於いて石動はウェールリズセ連邦・テークサット連合・コーデクス共和国の三国に対し宣戦を布告し(レゴリス帝国に対しては相互不可侵条約を適用し不宣戦)、事態に関与することとなった。

 ことにこの戦役(というものの実際の戦闘行為は行われておらず飽くまでも「危機」であるが)に於いて、石動公方府は少なくともウェールリズセ連邦に対する勝利を確信していた。エルツ・エーラーン・石動のヴァノミス側三国はいずれもレゴリス帝国との不可侵条約を締結しており、これら三国は列強レゴリスの攻撃を受けることなくウェールリズセ連邦に対する膺懲を行うことが出来たわけである。しかしながらここに於いてエルツ帝国は事務レベル協議で石動に対し「レゴリス帝国よりENEC側宣戦布告の取り下げ提案」があった旨を伝え、石動に対し対応に関する意見を求めた。石動は「宣戦布告取り下げ提案がなされた以上こちらも宣戦布告を取り下げねばならぬが、ENEC側に条約を蔑ろにする動向があったのであるから、ENEC側にヴァノミス統治委員会からの脱退等のペナルティがあって然るべきである」という意見を伝えたものの、同条件がエルツとENEC側諸国との交渉に於いて取り沙汰されることはなく、ENEC側は今般の動向に関し謝罪、正式な謝罪声明を発表することを約束しつつ宣戦布告の取り下げを行い、やむを得ず石動もエルツ帝国の意向に従い連名して宣戦布告の取り下げを行った。しかしながら、ENEC側からの正式な謝罪声明を本石動史編纂委員会は確認することが出来ず、ENEC側が約束した「正式な謝罪声明」の発表は反故されたようである。

 この一連のヴァノミス危機は石動に於いては、ENEC及びソサエティの中心的存在であるウェールリズセ連邦共和国が極めて攻撃的・不寛容的であり、国際平和を危うくする危険性のある国家であるという印象を与えることとなり、第三帝政期の石動に於ける反ウェールリズセ的イデオロギーを醸成することとなった。

足利持子四代将軍即位・満子大御所体制による石動最盛期

紀元250年祝典に於いて行進を行う陸軍山岡憲兵隊特別儀仗隊。

 653年10月10日、足利満子将軍は出家し、将軍位を長女、足利持子へ譲った。譲位に先立ち満子将軍は「大御所設置の令」を制定し、単なる尊称であった大御所に征夷大将軍を上回る権限を持たせた。第三帝政期の最盛期を齎す満子大御所体制の到来である。

 二年後の655年には航空宇宙軍がいわゆる「イレギュラー」級軍事衛星に分類される戦略攻撃衛星「ショウレンゲ」の打ち上げに成功、軍事力の成長ぶりをアピールした。さらに660年4月5日には、スコッチランド共産主義同盟から王政復古を遂げたアルビオン連盟王国、そして大明帝国、また石動が開発支援を行ったラシニア社会共和国の三ヶ国ともに、フリューゲル集団安全保障条約を調印。全締約国の批准により同条約は同年9月22日により発効された。これら締約国による軍事同盟の略称をFuCoSTOとする。FuCoSTO条約は締約国の相互防衛・軍事的協力のほかに、締約国内での資源保護や、軍事物資たる砲弾に加え軍事転用が可能な石油・鋼鉄の直接・間接的同盟国外への流出を規制するものであったが、ソサエティ加盟国はこれを「行き過ぎた保護貿易」「ブロック経済の助長」と受け止め、これに対する暗な批判がなされていた。

 そして661年5月14日、第三帝政期の石動最盛期を象徴する一大国家事業が敢行された。世界22ヶ国からの出席者を招いて挙行された、明日香宮皇帝紀元250年祝典がそれである。特に祝典参加国の内13ヶ国の儀仗隊が参加して行われた国際儀仗隊閲兵式は高い注目を集め、石動最盛期の発展ぶりを遺憾なく発揚する一大事業として成功を修めた。

サンピエル危機による外交軋轢

 外交的にも経済的にもまさに最盛期を迎えた第三帝政期の躓きの始まりが、7世紀後半に起こったサン・ピエル危機であった。当時石動は、国内の一大商圏を維持するため、資源輸入国確保のための新興国への開発支援を盛んに行っていた。同支援の対象の一つにあったのが、サン・ピエル共和国である。外務省はまず同国と国交を開設し、同国へ鉱山開発支援を申し出たが、同国はインフラ整備を優先するとしてこれを拒否、さらにインフラ整備に関する石動の支援申し出もこれを拒絶した。当然ながら新興国が財源もなく独力でインフラ整備を行うことなどできない為、10年以上が経過しても同国のインフラ整備は遅々として進んでいなかった。その後石動は改めてサン・ピエル共和国に「インフラ整備の為の支援を他国から受領する意志はないのか」と問うたところ、同国は「『第三国』とインフラ整備に関する支援交渉を行っていたがこれがとん挫した」と説明。再度石動からインフラ支援を提案したところ「国内問題のため不可能である」という全く要領を得ない回答を行った。石動は「国内問題とは何か」「尚の事貴国は石動からインフラ整備を受領すべきではないのか」との質問を行ったが、同国は数か月この質問を無視した上で行政指示を実施、石動からの通信文を黙殺した。これについて石動から再度質問を行ったところ、同国はこのような回答を行った。「 貴国の得心のいく対応とは何でしょうか。支援を受け入れる事でしょうか。支援拒否の理由を説明することでしょうか。それとも、我(後欠) 」

 一国の外交通信を黙殺した上で、質問に質問で答えるという倫理観を逸脱した回答は当時の外務省幹部を激昂させた。石動側はサン・ピエル共和国に対し再度「国内問題とは何か」「当初の我が国の提案を蹴った上で『第三国』との支援交渉を進めたのは何故か」「今後も独力でインフラ整備を行うことができると考えているのか」という三つの質問を同国に対し行ったが、同国は石動の質問を黙殺した上で100期後に行政指示を行った。

 またこれと並行してアルビオン連盟王国もサン・ピエル共和国と国交を開設し、同国への支援提案・国家首脳訪問の打診・国家情報の開示要求を行ったが、これら提案に対しても同国は黙殺で応じた。

 以上の点を踏まえ石亜両国政府は、同国の石亜両国への対応は無礼且つ国際儀礼・道義を逸脱した行為であり、同国は国家を運営し外交活動を展開するに相応しい責任能力・統治機構を有していないという見解で合意。石亜両国は673年にサン・ピエル共和国に対し九ヶ条の共同要求を行った。この要求はサン・ピエル共和国が石亜両国への外交儀礼上の無礼に対する謝罪、石動からのインフラ整備支援の受領、同国の民主化、国家情報の開示などのほかに、アルビオン連盟王国からの要求で、同国に於けるFuCoSTO加盟国国民に対する領事裁判権・石亜両国人による政府顧問の雇用・鉱山の譲渡など苛烈且つ前時代的な要求が盛り込まれていた。当初石動外務省に於いては「サン・ピエル共和国からの謝罪が引き出せればそれで良い」という考えが支配的であったため、アルビオンからの同要求は退けるべきではないかという意見も出たものの、同盟国の要求を無碍にすべきではないという親亜派からの反論、また石動外務省内でもはや取り返しがつかぬほど醸成されたサン・ピエルに対する敵愾心から、石動はアルビオン側の要求に全面的に同意。先の共同要求が発表されるに至った。

 また共同要求に対してサン・ピエル共和国は自己弁護・石動への罵倒を含む反論に終始したばかりか、石動に対する「インフラ整備を優先する」という当初の説明が「方便」すなわち虚偽の答弁であることを明言した。これらサン・ピエル共和国の回答を受けて石亜両国は「サン・ピエル膺懲やむなし」という意見の一致を見たが、ここに於いてこの石亜二国の一連の行動に「他国の介入を許す危険性」を危惧する国家があった。当時の「反ウェールリズセ」的イデオロギーの一致から石亜二国と急速に接近し友好関係を築いていた当時のカルセドニー島共和国がそれである。同国は石亜両国に対しサン・ピエル共和国との和平のための仲介を申し出、石亜両国とサン・ピエル共和国がこれに合意。673年8月3日、先の九ヶ条の共同要求を全面的に受け入れる内容の「石動第三帝国及びアルビオン連盟王国とサン・ピエル共和国との関係正常化並びにサン・ピエル共和国の国家再建に関する条約」が石亜聖三国によって締結された。

 しかしこれに遅れる事一ヶ月、同年9月17日にノホ・ヘレコ連邦ホウ・マナワ・オラで開催された第6回ソサエティに於いて、ソサエティ加盟国は第6回ソサエティ声明を発表。この声明でソサエティは石亜両国によるサン・ピエル共和国に対する共同要求を「主権を侵害するが如き恫喝的要求」と称し避難。さらに共同要求の五、六、七、八、九条の撤回を「勧告」すると呼号。さらに石亜両国が今後も「侵略的策動」を続けた場合、「必要な措置を実施する」と発した。

 国際的な承認を得ていない一部列強国の閉鎖的集団であるソサエティからの一方的介入に時の足利滿子大御所は激怒。同年9月20日に大御所別邸南山第に於いて声明を発表した。ソサエティ第6回声明はソサエティ加盟国が唐突に事態に介入し利権の獲得を画策せんとする外交的挑発活動であり、石動はこのような一方的な主張を受け入れないと主張。ソサエティ第6回声明こそが「武力を背景とする恫喝」であると締めくくり、ソサエティを非難した。

 これを受けた当時のソサエティ加盟国、ノホ・ヘレコ連邦・レゴリス帝国・ストリーダ王国・テークサット連合・ヴェールヌイ社会主義共和国・ヘルトジブリール社会主義共和国・ウェールリズセ連邦共和国・ガトーヴィチ帝国・コーデクス共和国・ロムレー湖畔共和国の10ヶ国は、674年2月に石亜両国に対する国交停止を宣言した。石動に於いてこのソサエティの集団断交は「平和的交渉を放棄し、武力の使用を暗にほのめかす示威的行動」として受け止められ、時の二条基子外務卿は「侵略戦争・武力恫喝の上をいく蛮行」と評した。結果として石亜両国は674年4月7日に「石動第三帝国及びアルビオン連盟王国とサン・ピエル共和国との関係正常化並びにサン・ピエル共和国の国家再建に関する条約」が「一定の役割を果たした」としてこれを撤廃。また当時の石動の二条基子外務卿は事態の引責を取るため辞任した。

 さらに675年のソサエティ第7回声明に於いてソサエティは石亜両国に対しサン・ピエルとの「交易の終了」ないし「事前協議を経た公平な交易」を要請するとともに、石亜両国によるサン・ピエルに対する正式な謝罪を要請した。石亜両国は「国交断絶が成されている以上『ソサエティ』から発せられるあらゆる声明は外交交渉に当たらず、よってこれを石亜両国に対する声明と認めない」という態度を取りつつも、アルビオンは「サン・ピエル共和国とアルビオン連盟王国との間の貿易に関する協定」を締結し交易関係を是正。さらに石動は678年2月9日に当時の二条基子外務卿の辞任に際するサン・ピエルに対しての謝罪を含む外務卿談話を政府系報道の公方府広報で発表し、アルビオン連盟王国も同国の報道機関「アルビオンタイムズ」に於いてFuCoSTO防衛委員長ジョン・パルダー氏のサン・ピエル問題に関する声明とノームラー・ギーン外務省渉外局長会見を掲載し、両国ともに一応はサン・ピエル共和国に対する謝意を呈する結果となった。 

 この様にサン・ピエル問題を起因として石動はソサエティ加盟国(の一部国交開設国)との関係を損ねた挙句、ソサエティからの暗な武力的恫喝に脅かされながら、その外交活動を制限せざるを得なくなってしまった。これはこれより始まる石動の銀鉱山落盤による鎖国、その後の開国後の経済破綻による崩壊への不吉な序曲となった。なお現在に於いても当時のソサエティ加盟国による行動は蛮行として語り継がれ、石動人にとってのソサエティの印象は最悪なものとなった。

銀鉱山落盤による鎖国、開国後の経済破綻から滅亡へ

 681年、石動に於いて銀鉱山が落盤。これによる経済破綻を恐れた公方府は同年7月に鎖国を決定した。しかしながら鎖国中の682年、足利滿子大御所が薨去。彼女の置き文により時の足利持子四代様軍は683年、満子大御所の次女、足利嗣子に将軍位を譲った。足利嗣子五代将軍である。しかし萬和共和国を平定した猛将である嗣子将軍をしても、石動の危機的状況を好転させることはできず、何ら解決策を視ないまま、公方府は690年に外交・貿易活動の再開を行った。鎖国解除後の石動は貿易交渉に於いて旧取引国からの燃料・食料などの定期輸入再開交渉に失敗し、国内経済は凋落の一途をたどった。

 ほどなく嗣子将軍は肝硬変により695年に薨去したが、嗣子将軍は将軍継嗣についてなんら遺志を示していなかった。継嗣問題で紛糾した重臣たちはくじ引きで次期将軍を決定。嗣子前将軍の妹に当たる宗蓮院門跡、天台座主義念が六代将軍に決した。義念は還俗し同年に足利教子将軍として就任したが、元来の神経質な性質が祟り、重臣に次々と将軍不敬や謀反の疑いを掛けて排除し、政権は恐怖に包まれた。時に700年3月11日、教子将軍と重臣を邸宅に招いた赤松満介陸軍卿らは、邸内に於いて教子将軍を斬殺。抵抗しようとした山名煕子親衛軍総大将、京極高量内務次官らが殺害され、正親町三条実子外務省外交政策局長が負傷するという事件が起こった。

 赤松氏一同は混乱に乗じ手勢の陸軍一部部隊に守られ播淡道に下向。ここで3月21日、本来将軍家嫡流となる身でありながら不本意な置き文によって嫡流の地位を嗣子前将軍に奪われた、亡き持子将軍の遺児、足利視子を「正統なる六代将軍」として擁立。皇帝家の将軍宣下を仰ぐと共に、各地の軍を糾合した。これを受けた細川勝子管領兼統合参謀総長は3月23日、教子将軍の遺児、足利尚子を七代将軍として将軍宣下を下すよう直衣宮九代皇帝を恫喝。幼い尚子七代将軍を頂き、偽将討伐の軍を糾合した。しかしこの混乱に乗じ、3月25日、旧南朝家の熊野宮王が、吉備八代皇帝を名乗り、北畠雅子陸軍大佐に奉じられ嘉川道にて挙兵。これらの混乱状態は各地の争乱を誘発し、中央政府の権威は失墜。バラマキ政策によって国庫は尽き、通貨は紙切れと化し、在地勢力の発行通貨が流通。石動は軍・警察を母体とする各地の在地勢力が群雄割拠する戦国時代と化してしまった。こうした中で直衣宮皇帝は室満京市に於いて、細川勝子管領兼統合参謀総長が実権を握る公方府勢力により実質幽閉されていた。自身が政治利用され石動の動乱が激化することを恐れた直衣宮皇帝は、当時の友好国であるカルセドニー島共和国へ亡命を打診。カルセドニーがこれを受け入れたことにより直衣宮皇帝は皇族・四宮家・一部公家とともに石動脱出を決行した。10月31日に、皇帝家亡命に同意する陸軍近衛師団の警護のもと、一団は密かに室満京市を脱出。山岡府玉緒宇野泊地に於いて海軍の協力者が掌握したやさかのいりひめ級軽巡洋艦「めずかんのん」に乗艦、11月1日夜明けに石動領海を脱出。公海上でカルセドニー海軍が派遣したエウロパ級フリゲート「ガニメデ」、パラス級コルベット3隻からなる特務艦隊と合流し、直衣宮皇帝以下の移乗を行った。特務艦隊は6日間かけてカルセドニー島共和国まで帰還、11月7日早朝にクリソプレーズ軍港へ帰港。これを以て石動皇帝家はカルセドニー島共和国へ定住することとなったが、これは事実上の第三帝政期の終焉を意味した。皇帝不在となった石動本州の動乱はなお激化し、250年近く続く石動戦国時代を齎した。また公方府による石動再統一を期し皇帝家の政治利用を行った細川勝子管領は、その結果皇帝家の本州脱出を招いてしまった事を深く後悔し、自身の日記『勝子公記』には「私は石動細川家の光輝ある伝統に泥を塗った逆臣である」とまで記していた。

(なおこの時石動PLが貿箱を引退した理由はサン・ピエル危機に起因するソサエティからの集団断行でない点は断固として主張するが、凍結解除後の貿易再交渉がまるでうまくいかず国の維持が困難であったことに加え、この頃から石動PLは漫画の執筆に専念したいと考えていたため、引退を決意した次第である。当時のソサエティ加盟国を除く関係国各位には、碌な挨拶もなく引退してしまったことこの場を借りてお詫び申し上げる)

(それにしても第八回ソサエティ共同声明に於いては、石動PLが「卒論製作の為」というどう考えてものっぴきならないリアル事情で凍結しているにもかかわらず、一方的な集団断行をしておきながら同鎖国を「両政府は現段階において、鎖国措置をとっており、諸外国との対話の姿勢すらも閉ざした。」などとのたまうのは実にいかがなものかと思う。誰がこの文言を考えたのかは知らないが、PLとしての品性が問われるのではないか。)

本州戦国時代

後々南朝による大吉備帝国建国と東西公方府の対立

 石動から皇帝家が不在になって以降も、足利尚子将軍を頂く公方府勢力は、皇帝の首都脱出に同行しなかった一部公家と共に依然として室満京市を中心とした勢力圏を維持し続けた。石動に残存した公家らは、「留守朝廷」を組織。本州の戦乱が平定され皇帝家が本州へ帰還するその日まで留守朝廷が官位除目や勅許などの皇帝の国事行為の代理を務めるとした。これは即ち、皇帝が不在となった以降も足利将軍家が留守朝廷から征夷大将軍として追認される事を意味した。しかしながら皇帝不在という状況は留守朝廷及びこれに信任される公方府勢力の権威を決定的に損ねることとなり、皇帝家脱出後の公方府による本州再統一はより過酷なものとなった。

 嘉川道に於いては吉備八代皇帝を名乗る熊野宮王の軍に嘉川公方足利成子率いる嘉川公方府が抵抗していたが、712年に足利成子は嘉川管領上杉忠憲を殺害。熊野宮王から鎮守府将軍に任じられ、公方府及び嘉川公方府(上杉派)に反旗を翻した。公方府は鎮圧軍を嘉川へ送ったが、北畠雅子と足利成子の連合軍を前に敗走。715年には嘉川道に熊野宮王を皇帝として奉じる大吉備帝国が再建された( 後々南朝)。また公方府は711年に足利視子を六代将軍として頂いた赤松満介軍が立て籠る播淡道へも軍を送ったが、嘉川道同様に敢え無く敗走し、ここに於いて公方府は熾烈な二正面作戦を強いられることとなった。この期間、嘉川公方足利氏の他に、室満京市を支配する尚子流足利氏の公方府と、播淡道の持子流足利氏の公方府が併存したことから、前者を西公方府、後者を東公方府と称する。しかし後に763年に播淡道に巨大隕石が衝突し、東公方が消滅。後ろ盾を失った本州東公方派勢力も西公方府派勢力に討滅・吸収された。

三好政権の成立による南北公方府の拮抗

 一方で8世紀後半の嘉川道の大吉備帝国内では、鎮守府軍監三好長義が台頭。嘉川公方足利基子をほとんど傀儡と化し、南朝内での発言力は太政大臣北畠具子に次ぐものとなっていた。三好長義は本州への侵攻と室満京市の奪還を建議。これに当時の大吉備皇帝常盤宮が同意し、嘉川公方、足利基子鎮守府将軍の軍は本州へ上陸。これに公方府勢力は悉く敗走し、795年、室満京市は嘉川公方足利基子率いる大吉備帝国の手に落ちた。第十代征夷大将軍足利植子は公方府重臣と共に辛くも室満京市を逃れ津山市へ落ち延びた。留守朝廷の大半も公方府と行動を共にしたが、一部の公家らは大吉備帝国皇帝を正統と認め、これに同行しなかった。室満京市を手中に入れた嘉川公方足利基子を傀儡として操縦する三好長義は、大吉備皇帝常盤宮に以下の要請を行った。室満京市への上洛に加え、足利基子の征夷大将軍宣下と、自身の左大臣宣下がそれであった。これを事実上の公方府復活であり、大吉備帝国への謀反と受け取った常盤宮は、北畠具子率いる討伐軍を室満京市へ差し向けたが、足利基子軍の徹底した水際防衛により悉く本州への上陸を阻まれ、終には802年に足利基子軍の逆上陸を招いた。嘉川道南西の観音寺まで追い詰められた常盤宮皇帝と北畠具子は、嘉川道脱出を決意。812年に捲土重来を期し秋津地域の佰愿諸島へ脱出した。これにより室満京市と嘉川道一円を支配する足利基子政権が成立。足利基子は798年に在京留守朝廷から征夷大将軍に任ぜられた。同政権は事実上三好長義の傀儡であったため、石動史に於いては専ら「三好政権」と呼称される。またここに於いて嘉川公方足利氏の足利基子を将軍とする公方府と、津山の足利植子を将軍とする公方府が併存したことから、石動史に於いては前者を南公方府、後者を北公方府と呼称する。

 しかしその後の三好政権に於いては、長義の傀儡であることを快く思わなくなってきた足利基子との対立が顕在化、基子が室満京を脱出しこれを長義が連れ戻すという事件が幾度と起こり、さらには長義暗殺未遂事件までが出来した。さらに長義の後継者が相次いで早世したことから、政権も不安定化。長義は末弟の十郷一政の子、義継を後継者として指名。長義死後の842年に家督を継いだ。義継が幼かったことから、三好一族の三好長安・三好政安・岩動友通ら三好三人衆の後見を受けた。

北公方府による室満京市奪還と三好政権の崩壊

 しかしこうした政権の不安定化は北公方府による執拗な攻撃を招くこととなり、北公方府は度々室満京市を襲撃。遂に849年に室満京市が足利栄子十二代将軍の率いる北公方府に奪還された。この際在京留守朝廷は三好政権をもはや支持しておらず、室満京市に残り北公方府側留守朝廷と合流した。三好政権の南公方府は珠緒市で果敢に防戦を続けるが、北公方府の猛攻になすすべもなく、851年に嘉川道へ落ち延びた。また室満京市の失陥は三好政権の不安定な結束を徹底的に瓦解させた。時の嘉川公方足利氏の足利政子は三好義継と共に三好政権重臣で三好一門のの篠原永房が支配する嘉川道東部の佐貫市に身を寄せた。事態は三好政権を二分する内乱に発展し、嘉川公方と義継という二つの神輿を同時に失った三人衆勢力は政権内での相次ぐ離反を招き、855年に篠原軍に敗北。岩動友通のみ篠原軍に降伏したが後に切腹を命じられ、三好長安・政安らは行方不明となった。

 こうして嘉川道の支配は嘉川公方足利政子を頂く嘉川公方府体制に落ち着いたが、足利政子は857年に篠原永房を暗殺。旧三好勢力を排除し嘉川公方独裁体制を敷いた。

嘉川公方足利氏の滅亡と後北条氏の興廃

 嘉川公方足利政子は継嗣に関する内憂を抱えていた。政子は長女茶子を素行不良であるとし座敷牢に監禁し、次女潤子を継嗣とした。これは政子の将配である渋川昌澄の讒言によると言われている。しかし茶子は足利政子死後の865年に座敷牢から脱獄し、嘉川公方継嗣の順子と渋川昌澄を殺害。事実上の嘉川公方となった。しかし足利茶子は奸臣の讒言を信じ嘉川公方府の重臣らを次々と斬殺したことから、旧臣の離反を招き、嘉川道全土は混乱状態に陥る。この混乱に乗じ868年に伊勢盛言が嘉川の豪族、鈴木宗茂、松下三郎らを従え挙兵。高松城を襲撃し足利茶子を殺害。873年には嘉川道全土を平定した。盛言はかつて本州を独力で平定し北条合藩連合を成立させた北条司に心酔していたことから、自身を北条司になぞらえて北条氏に改姓。このため、この北条盛言による嘉川道政権は専ら「後北条氏」と呼称されている。

 暴君足利茶子を廃し嘉川道統一を為した後北条政権は一時的に歓迎されたものの、足利将軍家の末裔である嘉川公方足利氏に比して今一つ血統的正統性が無かったことから、平定後も道内の内紛は絶えず、嘉川道全域では騒乱が頻発し、不安定な状況を呈した。これに乗じ十四代将軍足利通子将軍率いる公方府は875年から嘉川道平定を敢行。887年には北条盛言を自害に追いやり、891年に公方府による嘉川道全土の平定が実現した。

織田野鮒臥の台頭

 室満京市及び本州一部に加え、嘉川道を平定し、本州平定に一歩近づいたかに思われた公方府であったが、918年に備前守護今川氏家臣の織田野家当主、織田野鮒臥が反乱。備前守護今川義基を殺害し備前県一円を支配下に置いた。足利周子十五代将軍の率いる公方府はすぐさま討伐軍を差し向けたが、織田野鮒臥軍による巧みな山岳歩兵戦と徹底されたゲリラコマンド戦術に苦しめられ、敢え無く撤退した。織田野鮒臥は地球時代の歴史人物である楠木正成と毛沢東を敬愛しており、これらの戦術は彼らの人物譚から学んだと言われている。織田野鮒臥は後に津山守護武田頼勝を破り、本州北方の在地勢力と同盟した。

足利輝子将軍による本州平定

 928年に足利周子十五代将軍は、長女足利常子に将軍位を譲り、938年に薨去した。しかし足利常子十六代将軍は持病の気管支喘息を患っており病弱であった。幕臣の進言もあり、常子将軍は942年に、わずか14歳の長女輝子に将軍位を譲り隠居した。足利輝子十七代将軍である。輝子将軍は幼少の頃から剣豪、塚原凸伝の剣術指南を受け、奥義「一の太刀」を伝授された剣豪と知られており、幼少ながら武勇に秀でた将軍として幕臣からも強い期待を帯びての将軍就任であった。しかしながらこの時、三好氏家臣の末裔であり、一代で公方府政所代に上り詰めた松永秀久は、輝子将軍の就任を快からず感じていた。輝子将軍は幼いながらも将軍としての帝王学を修め、強い意志を持った将軍として、幕臣の讒言を容れることなく主体的に政務をこなしていた。将軍に神輿以上の価値を認めず、公方府内での立場を利用し将軍を操縦することで政治を行おうと目論んでいた松永秀久にとっては、輝子将軍は「都合の悪い将軍」であった。松永秀久は織田野鮒臥と通じ将軍暗殺を画策した。

 944年5月19日24時、松永秀久は息子である守護軍京師大番師団第三連隊長の松永秀通に兵を動員させ、将軍御所を包囲した。秀久は「将軍に直訴あり」と要求し警護の奉公軍(第三帝政期の直参親衛軍が改称したもの)に取次を求め、この隙に一部部隊が将軍御所の塀を登って御所内に侵入。輝子将軍の寝所を襲った。御所内には火が放たれ混乱状態となり、この混乱に乗じ秀久、秀通親子も主力を率い邸内に乱入した。しかしこの時輝子将軍は異変を察知してか、寝所の畳に手元にある限りの刀剣を刺し、最初に邸内侵入に成功した30名ほどの守護軍兵士を迎え撃った。この時輝子将軍は左肩・右胸・右腿に銃弾を浴びながらも十九名の刺客を斬殺。死を恐れた秀通配下の守護軍兵は忽ち撤退。秀久らに輝子将軍の暗殺が不可能である旨を報告した。さらに一時間後の午前1時には異変を察知した守護軍憲兵隊奉還町分隊が急行。暗殺失敗を悟った秀久は守護軍京師大番師団第三連隊を退き室満京市を脱出。西大寺に押し入り同地で織田野鮒臥軍の救援を待ったが、時遅く今川氏政奉公軍第一師団長の軍に包囲された。今川氏政は秀久に、茶釜の名器「古蘆原平蜘蛛」を引き渡すことを条件に助命の嘆願を持ちかけるが、秀久はこれを拒否し、件の「平蜘蛛」に手榴弾を投げ込んで息子秀通と共に爆死した。また輝子将軍は事件後意識を失い、直ちに山岡帝国大学病院へ搬送されたが、全身三か所に銃弾を浴びながら奇跡的に一命をとりとめ、後遺症もなく全快した。

 輝子将軍はこの壮絶な暗殺事件を経て自身が一命を取り留めたことを、自身が本州を平定する「天命」の兆しであると考え、直ちに全ての公方府守護の軍を招集し、織田野鮒臥追討の軍を挙げた。織田野鮒臥は北方の在地勢力に援軍を要請し、これを備前県西部の長船地域で迎え撃つ態勢を整えた。945年3月1日に両軍は開戦。これを長船の戦いと呼ぶ。輝子将軍自らが先陣に立つ公方府軍の異様な士気の高さに織田野鮒臥軍は劣勢を強いられ敗退。同年4月15日には備前全土が平定され、織田野鮒臥は居城備前城に火を放ち自害した。

 長船会戦から辛くも一命を取り留めた織田野鮒臥の寵臣、毒川安家は、津山に逃れ、黒田・浅野・伊達・井伊・最上・福島ら、嘗て織田野鮒臥と同盟した北方の諸勢力に公方府追討の兵を糾合した。これら北方勢力は毒川の求めに応じ津山に集結。この動きを察知した輝子将軍も直ちに公方府軍を津山南方の久米に集結させた。948年9月15日に両軍は津山市内で会戦した。これを津山の戦いと呼ぶ。結果は長船の戦いの如く公方府勢力の圧勝に終わり、この戦いの後北方諸勢力は公方府に帰順した。また毒川安家は敗戦後数人の手勢と共に同地から逃れようとするが、地域住民の敗残兵狩りに捉えられ、公方府軍によって斬首された。

 こうして本州全土を統一した輝子将軍は949年に公方府臨時政府を組織。石動第三帝国の後継政府として、カルセドニーに在する石動皇帝家を迎え入れる準備を整えた。

在架石動朝廷の動向

 一方で石動皇帝家及び皇族と共にカルセドニー島共和国へ移住した一部公家らは、「在架石動朝廷」を組織した。これは石動建国以来一貫して内閣・公方府外の管轄にあった宮内省の組織形態を継承するもので、石動皇帝を主催とする朝廷であり、同国内に於いては石動の亡命政府として機能した。しかしながら702年に勃発したカルセドニー革命とこれによるカルセドニー連合の成立。さらに764年のカルセドニー社会主義連邦共和国の成立を成す混乱期に於いて、「在架石動朝廷」の存在は完全に忘れ去られ、単なる在架石動人コミニュティの一つとしてカルセドニー革命以降の躍動の時代をやり過ごすこととなった。しかしながら石動皇帝家の子女に於いて、このカルセドニー革命に身を投じる人物が現れた。第三帝政期に直衣宮皇帝と共に石動に移住した、高麗宮第一皇女その人であった。母、直衣宮皇帝の奔放な教育の結果、山岡帝国大学に進学後社会主義に傾倒、社会学研究者として活動する傍ら、皇族の身でありながら石動共産党の名誉顧問として活動。こうした経験を買われカルセドニー連合に於けるヘゲモニー政党である労働党に入党するに至った。

 やがて直衣宮皇帝が高齢となり健康状態が危ぶまれると、在架石動朝廷は高麗宮に「石動皇帝」への即位を嘆願。社会主義者であるが故に君主制を忌避していた高麗宮はこれを頑なに拒否したが、周囲の労働党党員の説得もあって、706年に(本人曰く「名目上」の)第十代石動皇帝に即位した。高麗宮本人は在架石動朝廷の「国事行為」の一切に協力しなかったものの、自身の次女、高麗宮澄子が石動皇帝への即位を希望するようになると、自身が直衣宮皇帝の奔放な教育の結果、今の地位を手に入れたことを思い返し、澄子に石動皇帝への即位を許した。澄子は石動第十一代皇帝難波宮として即位し、こうして石動皇帝家の血統は護持されるに至った。

 やがてイデオロギーの近さからガーネット州の地方政党「南の風」との関係を深めた在架石動朝廷は、皇帝家と共に首都クリソプレーズからガーネット州モリオン市に移転。また、正当な石動皇帝の下に集いたいという石動人としてのアイデンティティの発露から、第三帝政瓦解以降各国に散らばっていた石動人はガーネット州モリオン市にこぞって移住するようになり、同市には石動人街が形成され、多数の石動人コミニュティが成立した。

 こうして形成されたガーネット州の石動人コミニュティに於いて波紋が生じたのが948年であった。同地に五年前の943年に挙行された神聖ガトーヴィチ帝国アパラート君帝の戴冠式の情報が、「南の風」系列の再生紙メーカーが原料として本土から購入した古新聞の束に混じるという形で流入したことがその要因であった。同戴冠式に、大秋津国「保護国」石動国代表として、「石動国皇帝山城宮」なる人物が出席していたためである。ガーネット州に居住する石動皇帝こそが正統であると認めるガーネット州の石動人らは大きな憤りを感じ、またその歴史的経緯から秋津人に差別的・蔑視的感情を抱いていた石動人にとって、「石動」が秋津国に「保護国化」されているという事実は受け入れ難いものであった。この混乱はカルセドニー社会主義共和国の報道機関「赤光」によって報道され、同紙のインターネット配信を通じて全世界に報道された。

第四帝政

扇宮皇帝帰洛による大石動帝国の成立と大秋津国との和解

 一方で、インターネットを通じて「赤光」の報道を目の当たりにした本州の公方府臨時政府は、カルセドニーに於ける石動皇帝家の存続を確認するに至った。公方府臨時政府は南の風と連絡を取り、南の風系漁業組合が派遣した遠洋漁船に、足利輝子将軍名義での在架石動朝廷宛の、949年10月15日付けの解状(申請書)を託した。解状の内容は、(1)石動皇帝の本州への帰国。(2)足利輝子への将軍位宣下。(3)足利材子以下、直衣宮皇帝亡命後に留守朝廷から征夷大将軍に任じられた歴代足利将軍への将軍位追号。以上三箇条から成るもので、当時の在架石動皇帝扇宮はこの三箇条を全て承認し、在架石動朝廷にに命じ先の解状に応じる宣旨を発給させた。同宣旨はやはり南の風系漁業組合が派遣する遠洋漁業船に託され、石動本州の公方府臨時政府に齎された。先の解状の申請を全面的に承認する同年十一月一日付の宣旨を受け、公方府臨時政府はカルセドニー社会主義共和国に対し国交樹立の打診を行うと共に、扇宮皇帝を迎えるための海軍艦艇の寄港先を問い合わせた。同国と国交を開設するとともに、寄港地についてクリソプレーズ港を提示された臨時政府は、ただちに海軍の重巡洋艦おきながたらしひめを派遣した。なお同艦は第三帝政期に建造されたおきながたらしひめ級重巡洋艦のネームシップであるが、長きにわたる戦乱で高度な戦術情報システムの運用ノウハウも失われ、浮き砲台の様な運用が成されている状況で、艦橋四面のフェーズド・アレイレーダーも破れたままでの出港と相成り、海軍関係者からは「浮いて進んでいるだけで奇跡」と評された。おきながたらしひめはかかる老体にむち打ち無事、949年12月15日に本州に石動皇帝を迎え入れることに成功。これをもって臨時政府は「大石動帝国」に国号を改め、第三帝政以来の皇帝を頂き公方府が統治を行う君主国家として光復した。これが第三帝政の幕開けである。 

 第三帝政の開始に伴い、在架石動朝廷を主体とする宮内省は公方府に「元号」の制定を提案した。有史以来石動に於いてはかつての地球時代の日本のような元号が制定されておらず、「明日香宮皇帝紀元こそが石動の暦」という態度が採られていたが、宮内省を中心とする公家勢力は「元号とは天変地異等君主の徳が行き届かぬ際に徳を建て直し、君主の徳を広く海内に行きわたらせる重要な国事行為であり、石動再建と同時にこの文化を再建させるべきである」という建議が起こり、元号制定に至った。これによりフリューゲルに於ける石動の初の元号「天徳」が制定されるに至った。

 内政面に於いては第三帝政期とは一線を画し、工業国としての再興を期した。再検討所に「南の風」及び三洲社会福祉事業団による多額の支援がああっとはいえ、鉱脈探査二回目にウラン鉱を、その後銀鉱を独力で整備した石動はカルセドニー社会主義共和国との貿易を経て外貨獲得を行いながら、955年には人口千人を超える工業国として発展し、カルセドニー社会主義共和国に二か月あたり50兆Va相当の商品を輸出する工業立国としてその成長を見た。

 また外交面に於いては、大秋津国に対するこれまでの経緯から同国に対する警戒が成されていたが、同国報道によって、943年のアパラート君帝戴冠式に出席した大秋津国保護国「石動皇帝」山城宮は、812年に秋津地域佰愿諸島へ避難した南朝系熊野宮の末裔であることが確認され、山城宮本人も石動への帰順の意志を示していることから、両国の国交開設と大秋津国上将軍・大石動帝国征夷大将軍による首脳会談が953年に実現。同会談に於いて、石秋の相互承認と両国修交の方針を定める石秋友好修好条約が調印された。