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路加共同学術研究協定成立 ほか

【学術】路加共同学術研究協定成立

 古くより、特有の経済学研究の発展を遂げたほか、論理学や幾何学などで優れた水準にあるカルセドニーであるが、1020年の社会主義評議会体制成立以降、カルセドニーにおいて実績ある委員会社会主義体制が再確立されているが、一方でカルセドニー人のキャリアパスが硬直化していることが指摘されてきた。初等教育を住環境委員会が、高等教育を各委員会が管轄する現在のカルセドニー教育制度は、職業教育の効率性という面ではロムレー人教育者にも評価されているものの、生涯学習や学びなおしといった人材育成面や学際的な領域での研究面で弊害があり、このような課題点はカルセドニー人側からも認識されていたようである。
 一方で、国家間の上からのアプローチではなく人民間の下からのアプローチによる国際関係構築を志向するティボー学士院最上席を中心とするロムレー知識層は、1042年の路芹学術協定に続く学術協定を模索してきた。路芹協定は結果的にセリティヌムとBCATの間にあった何らかの軋轢を表面化させてセリティヌムのBCAT脱退という結果に終わり、ロムレー人民とBCAT人民の間での交流にはつながらなかったものの、古典学への造詣の深いセリティヌム人との交流は一定の成果を上げており、学術協定の拡大に対する肯定的な評価のもととなった。また、ティボー女史は「そもそもロムレー史はレゴリス留学から始まる。ロムレーの学術交流史はロムレーの外交史と同じだけ古い。そして別国へのSTEM人材育成に関する提案にもあるように、そこにイデオロギーの壁もない」を持論としており、この見解が広く支持されたこともこの協定がルッコラ保護主義に反するものではないとの理解の形成につながり、「我ら人民」からも後援を得られる結果となった。
 このような背景で締結された本協定がレゴリス留学・普蘭考古学・アオリィカ議会人育成・セリティヌム古典学といったこれまでの学術協定と異なるのは、協定によって結成される機関が直接に教育・研究機関として機能する点と、協定に第三国が加盟することが可能となっている点である。前者は、教育制度改革の担い手を現行教育制度の中で育成することがどれほど可能かという問題に対処するためであり、後者はいずれ来るセビーリャが自己の独立状態を認識するに至ったときに大ラテン主義といった民族主義に走らずに自らの才覚を発揮する機会を与えることを考えてのものであるとされる。
 協定成立にあたって、さっそく学術協定機構が1074年内に成立し、活動を開始したが、当面はその活動はすでにティボー女史やその周辺で試みられていた共同研究プロジェクトや、ロムレーフランス語・カルセドニー英語・コーデクス語等での語学・基礎教養の教育プロジェクトがその中心となると思われる。
 これについて、協定機構の教育プロジェクト一期生で数学基礎論を専門とするアンゼロット記念大学の学生エメ・オーギュスティーヌ・グランジェさんは「数理論理学研究の世界的な中心地であるカルセドニー留学を目指している。カルセドニー人講師の論理学講義はアンゼロット記念大学のものと比しても様々な特徴があるカリキュラムになっており、今後が楽しみ」とコメントした。

【政治】中央議会、リディアーヌ・キュルティヴェシオナ女史を第23代議長に指名

リディアーヌ・キュルティヴェシオナ女史肖像
第23代中央議会議長 リディアーヌ・キュルティヴェシオナ

 中央議会は、1071年9月12日に退任したリコール前議長の後任としてリディアーヌ・キュルティヴェシオナ女史を第23代中央議会議長に指名した。
 精神薬理学者であるキュルティヴェシオナ女史は、学者の両親のもとに生まれたロシジュアンハーフで、平和主義と環境保護主義を掲げる。既に「我ら人民」によって次期議長統一候補者として推挙されており、他の議員が誰も十分な推薦人を集めることができなかったことから無投票で第23代議長に指名された。「我ら人民」内部にあっては、1070年度年次総会において次期議長候補の選定が進められており、「我ら人民」の中核層の熱狂的支持を受けたテオファヌ・ド・ヴィルパン氏が当初キュルティヴェシオナと激しく競り合ったものの、「人民派らしい」急進主義者であるヴィルパンに危機感を覚えた穏健派の巻き返しによってキュルティヴェシオナを議長とすることで決着し、その穏健な姿勢から主要党派の支持を固め、少数党派がもはや衰微していることもあって中央議会においては唯一の立候補者として無投票で議長に指名された。なお、議長候補としては脱コーデクス主義と資本主義の重視を掲げるバティスト・アダン・ロック・クーラン氏も存在し、資本家層を中心に一定の支持を集めたが及ばなかった。
 この情勢は、現下の「レゴリス再建問題」に対するロムレー人の態度を示すものであると言える。近年のロムレーにあっては、1060年代半ばの「レゴリス帝国崩壊」(第三次レゴリス内戦)を経て、国際安全保障環境における「レゴリス圏」の存在感は大幅に後退したものとの見方が強く、一方で国連体制の下では引き続き支障なく国際平和の維持がなされるであろうとの判断も働き、もはや使い古された感のある「戦闘国家」ロムレーという一部の国家からの評はもはや過去のものと考えられている。そのような環境においては、平和主義を掲げ、穏やかな小国としての地位を目指すキュルティヴェシオナ女史の路線は広く支持されるものとなったと思われる。キュルティヴェシオナ政権はレゴリスの経済的な再建とレゴリス経済の余波を受ける諸国への支援を実施していくことになるだろう。

(イラストはロシジュア先生に描いていただきました。ここに感謝申し上げます。)

【国外】レゴリス帝国政府再建・レゴリス内戦終結後も進まぬレゴリスの復興

 1060年代半ばに事実上「崩壊」し、以後内戦状態にあったレゴリス帝国であるが、1070年1月に「帝国政府」が全土の再掌握を宣言した。共和国は新政府の国際的な最初の承認国となり、内戦中より実施していた支援を継続する方針を示して100兆Vaの資金援助などを実施した。
 レゴリスにおいては、1065年7月から8月にかけての大暴動と極右クーデターを契機として政府機能が崩壊、軍部良識派によるクーデターそのものの鎮圧後も政府機能は麻痺状態となり、1070年1月の全土再掌握宣言までレゴリスにおける統一政府は存在しない状態にあった。
 現在もレゴリス帝国政府は資源輸入において支払凍結を継続しており、凍結された債務の処理は不透明ではあるものの、長期化すれば負債が積み上がる懸念も強い。レゴリス情勢新政府の本格的な活動再開が待たれるところである。

(その他ヘッドライン)

【国外】セニオリス社会党主導の改憲、国民投票で否決
【学術】古代教会スラヴ語と現代のスラヴォニック諸語の書記体系
【軍事】セビーリャを除くと初?平時における国産兵器の持続的な対烈輸出本格化へ検討進む

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・ロムレー最大級のスノーリゾートで、ロムレー最高の体験を。今冬の入場チケット、一部エリアはすでに定員迫る。ご予約はお早めに。(フォートリエ観光)
・「ルッコラ保護主義」は経済的に保護主義ではない。では一体これはなんなのか?気鋭の若き経済学者の博士論文を書籍化。J.パドルー『反保護主義的な環境保護主義:セヴィニェ=セザール期ロムレー貿易体制の展開と変容』(アンゼロット記念大学)

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