917年3月27日付〈中央通信〉
26日に行われた連合党大会はここ数年かけて作成が進められてきた修正党綱領を採択して閉会した。新たな党綱領として最も注目に値するのは、党のイデオロギー的前提から社会主義を削除したことと、下院により任命される「専門委員会委員長会議議長」職を創設し、これに大統領が現在有している行政上の権限の大半を移して事実上の「首相」としての役割を負わせる制度改革を今後主張することとしたことの2点が挙げられる。一方、外交政策など注目されていた他の論点では抜本的な修正は行われなかった。
連合党は結党当初サンディカリスムを掲げており、803年の二大政党制移行時にサンディカリスムを最前面に打ち出さなくなってからも社会主義政党としての姿勢は明確にし続けていた。しかし、国内の社会主義の潮流としてサンディカリスムよりも官僚統制主義的な委員会社会主義が優勢となったために、少数派として孤立していった連合党はついにその路線を放棄する形となった。党内の過激派からは「自由主義」を明確に掲げ、社会主義に反対する路線を示すべきだという声も上がっていたとされるが、今現在も党員の多数派を占めているサンディカリストを中心に猛反発があり、最終的には中間的な立場をとる社会民主主義勢力の仲介もって思想色を明瞭にしない案に修正された。
また、連合党は長く党是として分権化を支持しており、862年の改憲で803年以降廃されてきた大統領制度が復活する際にも可能な限り弱い大統領を志向、地方選挙区の設立と引き換えに労働党の要求する強い大統領を受け入れている(詳細)。877年の労働党単独改憲によって成立した現憲法は862年憲法と比べ地方選挙区を廃止するなど中央集権化されており、連合党は現憲法に反対する姿勢を示してきていたが、初めて具体的な改革案として半大統領制への移行を提案した形である。現憲法自体に反対していたこれまでの態度と比べれば後退したともいえるが、大統領選出に関する上院の強力な権限は労働党の分裂後勢力を伸ばした革新党にとっても悩みの種であり、上院の影響力を下げる行政改革は革新党との協力が期待できるとされる。起草過程では大統領を完全直接選挙とすべきとする案や、極端なものでは下院の選挙権を自主管理連合組織代表委員に限らず労働者全体に拡大すべきだという意見もあったが、これらは支持を広げられず退けられる形となった。
党綱領の起草時に論点として掲げられていた第三の要素である外交政策は、「反FUN的な態度を終止し、FUNへの支持を明確にする」という案や、「二極化するフリューゲルの中で友好国との関係を前進させる」などの案があったものの、結局明確な結論は示せなかった。ローレル・ガトーヴィチなどの同盟国との関係を重視するという路線自体は広範に支持されていたものの、タイク・コーサイト外交委員長を中心とする具体的手段としてのFUNを重視する勢力と、シンナ・アメシスト前外交委員長などが属するWTCOなどにより力を注ぐべきとする勢力が拮抗し、党として意見を統一することはできなかったとされる。
この新たな党綱領は連合党支持者のみならず政界全体にも注目を集めており、連合党が低迷する党勢を挽回するきっかけになるのかが注目される。
【解説】連合党史と社会主義
連合党が社会主義の看板を下ろしたことの重大性はその党史をさかのぼれば明らかである。連合党はそもそもカルセドニー島共和国(旧共和国)時代の地方労働組合を源流に持つ。675年のレハシ・ウェストカーネリアン大統領暗殺事件を契機に右派に支配された旧共和国議会によって共産党が地下活動に追い込まれると、地方労組は地下活動期の共産党と結びついた。こうして695年頃に成立した旧労働党の内部における<組合派>が連合党の直接の母体である。旧労働党内の<共産派>と<組合派>の対立を背景に763年に旧労働党がヘゲモニー政党制を放棄した時点で連合党は旧労働党から分離、労働組合を支持母体とするサンディカリスム政党としてその歴史をスタートした。しかし、同年の憲法制定議会選挙で大敗、袂を分かったはずの(新)労働党と協力して社会主義憲法の再制定の道を選んだ。その後連合党は次第に党勢を拡大、803年の改憲以降は右派勢力を吸収し労働党との間に二大政党制を成立させた。
しかし、ユハル・ツァボライト元外交委員長の登場により労働党<国際主義派>が台頭してからは政界が労働党内の派閥を中心に動くようになったこと、FUN成立後に取った反FUN主義的な外交政策が有権者に受けなかったことなどにより党勢は低迷を続けている。社会主義共和国憲法の成立後に右派(南の風)が分離してからはさらに支持を失い、今では下院の6分の1を押さえるのみとなった。880年下院総選挙で与党人民党が単独過半数を失ってからは人民党と人連連立政権を組み、その流れの中894年には連合党出身のテンク・モスアゲート大統領(当時)が選出されたが、テンク前大統領は連合党主流派に背を向ける態度を取り、結果としてさらなる革新党の勢力拡大を許すことになった。
このような歴史を持つ連合党は本来「カルセドニー社会主義の2潮流のうち一翼を担う政党」であり、革命後のカルセドニーの200年以上の歴史の中でサンディカリスムと委員会社会主義の間で次第に勢力差が明確になってきたことを今回の連合党の社会主義路線廃止は象徴している。党は次の920年の共和国議会下院総選挙を見据え、方針を一新することで巻き返しを図る構えであるが、旧来の支持層である労働組合を中心としたサンディカリスト勢力が動揺することは間違いなく、最悪の場合「社会主義vs非社会主義」という構図になり、サンディカリストの支持が人革両党へ移動してしまう可能性もある。連合党のこの綱領は一種の賭けであり、成功するかはまだ分からない。
途上国でFUNに関する議論
916年11月、ローレル共和国大統領は「今後も、安保理理事国という栄誉ある地位から、その責務を果たしていく所存」という談話を発表した。これに対し、近年かつてクラリス連邦を構成していたセニオリス連邦を領土として引き継ぐとされるセニオリス共和国(かつてのセニオリス共和国とは異なる)の報道機関イグナイト・タイムズ紙が「理事国地位が『栄誉』との考えは、非理事国軽視の姿勢の現れである」と題された社説を発表した。また、ガトーヴィチ民主帝国の投資によって経済発展を続けているとみられるアッザース朝においても「まるで国連がエリート国家集団のごとき言に国内で反国連感情高まる。」と報じられ、近年FUNに加盟したリブル民主共和国においても「理事国は諸外国の負託を受けた地位、当然に栄誉である、我国には無理」というモリキロー国軍最高司令官の発言が伝えられている。
FUN非加盟国であるセニオリス・アッザース両国において立て続けにFUNに関する報道が行われたことは注目されている。これまで、FUN非加盟国はほとんどFUNに対して明確な態度を示してこなかったが、セニオリス共和国はヤドラスコ・グループの報道で「国連安保理、一般理事国は2国に 識者『”ねじ込み選挙”により回復へ』」と言及するなど、FUNに対して少なからぬ情報収集と評価を行っている。FUNの国際社会における注目度は良くも悪くも高まってはおり、FUN主義を掲げる革新党シジト政権にとってもその事実は大きい。シジト大統領は途上国のこれらの報道に対して「『国連がエリート国家集団のごとき言』が何を指しているのか承知していない」とした上で「少しでも良い印象がFUNに与えられることが望ましい」と述べるにとどまったが、タイク外交委員長は「FUNは本来FUN加盟国の利益となるために存在する組織であり、非加盟の状態でその価値を実感することは難しいのかもしれず、セニオリス・アッザース両国についてもFUNに加盟した上でその利益を享受することが本来望ましい」と両国のFUN加盟を期待するような発言を行った。
我が国が臨時選挙制度を提案した総会第7回通常会期以降、FUN安保理一般理事国の地位は国際社会において注目を集めており、その流れの中で様々な意見が提示されることはFUNが組織として硬直化せず、発展していくには本来不可欠なことである。一方、実際の総会の議場では投票期間入り直前までほぼ議論が進展しないなど、実質的な改善を行える場所ではない井戸端での言い合いになっているという構図があり、この点は国際社会全体に提起されるべき課題であろう。
【国際】スルガ崩壊、FUN加盟国は御岳山加盟により再度15ヶ国に。外交委員長「一般理事国は3ヶ国以上存在することが望ましい」強調。
【政治】人民党、下院で「臨時選挙制度は瓦国への肩入れ」批判。革新党は否定。
【経済】過剰供給の商品、下層労働者へ無償提供。南の風は現代都市増設を提案。