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「ハルクステン語公用法」から8年 他

953年6月5日付

【お知らせ】加盟機関の名称変更について

セニオリス共同国際通信をご愛読いただき、ありがとうございます。
916年の形成以来、本組織では5社体制でセニオリス地域に関する報道を国際社会にお届けしてまいりましたが、この度加盟する報道機関に付きまして一部変更がございましたので、お知らせいたします。

  • 労働者ネットワークニュース(Vijesti radničke mreže / VRM)
    労働者ネット1000(Radnička mreža 1000 / RM1000)に社名変更
    • 挨拶
      労働者ネットワークニュースをご愛顧いただきありがとうございます。これまでVRMでは共和国の労働者を見つめ、また労働者に寄り添った独自の切り口からの報道を提供してまいりましたが、この度来たる11世紀をも見据え報道の質にさらなる磨きを掛けるべく、「労働者ネット1000」に社名を変更することと致しました。新たな社名のもとでも資本主義の鋭き監視者たる理念は引き続いて変わりません。皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
  • ヤドラスコ・グループ(Jadransko skupina / JS)
    ヤドラスコ・ニュース(Jadransko vijesti / JV) に事業分割
    • 挨拶
      915年に始まったこの豊かな共和国の歴史は、まもなく40年目を迎えようとしています。ヤドラスコ・グループは首都イグナイトから北方のヤドラスコ湾を結ぶ鉄道「ヤドラスコ鉄道」の開発を原点とし、その後レジャー、不動産業など企業グループとして多角的業務を手掛けてまいりました。これまでこの共同国際通信には持株会社であるヤドラスコ・グループ直営の報道部門が参加しておりましたが、皆様に真実の報道をより迅速により丁寧にお伝えするべく、この度「ヤドラスコ・ニュース」としてグループ内企業の一員として独立することと致しました。虚偽はあらゆる場所に潜んでおり、真実を追い求める姿勢は共和国の未来を守るべく常に求められ続けています。ヤドラスコ・ニュースは、フェイクが世から無くなるその日まで、これからも誠実に真実をお届けして参ります。

【社会】「ハルクステン語公用法」から8年 進む共存と見える課題

<北方セニオリス新聞>

ハルクステン人居住地域であるノルテアレフィス、ハルクステンの2県における標識や公共施設案内での両語表記義務などを定めた「ハルクステン語公用法」の成立から953年1月で8年となった。

公用法は945年1月に成立し、標識の置き換えなどのため3年の移行期間が設けられていた。953年1月にはハルクステン城前公園において「セニオリス共存協会」主催で義務化5周年の集会が開かれ、ハルクステン人の象徴となったルッコラ料理が振る舞われた。

当時のセニオリス自由党が難色を示していた予算案とのバーターで成立したとも囁かれたこの法は、その理念を果たすことが出来ているのか。施行から5周年となった今、ノルテアレフィス県を取材した。

エンデルヴァルト出身の筆者は、初めて訪れる県都で複数の公共交通機関を利用した。そこで見られたのは法に基づいた両語表記がきちんと徹底されているということだ。あらゆる案内板は同じ行き先を示しているものでも必ず2行記されているし、アナウンスはセニオリス語の後にハルクステン語でも読み上げられた。そして両語表記は法に定められる標識や公共施設に限らず、「努力規定」である民間の広告にも見られたのだ。

立ち入ったカフェでもメニューは両語表記されていた。気にかかり取材を申し込むと店は快く引き受けてくれた。聞くと、この店はハルクステン人の利用が特別に多いわけでもないようだ。ではハルクステン人の集客を狙っているのかと聞くと、店長は「こんな店にハルクステン人が来ることなんてないですよ」と笑った。見渡すとなんと窓の外にはスラヴ三色旗を持つ人だかりがあり、中心では何者かがマイクを握っていた。聞くとすぐ隣がフルヴァツカ・スラヴ民族共同戦線(HSZF、「青き八重歯」)の支部だといい、このような集会は頻繁に開かれているという。店長は「最初は文句も言ったが、そのうちガラスを防音にしたほうが安上がりだと気づいた」と苦笑いだ。

公共施設のみならず民間でも進む両語表記の現状を、当事者のハルクステン人はどう見つめているのか。セニオリス共存協会の理事は「公用法の理念が急速に浸透している」と高く評価している。理事は当初の想定では「10年で進めば良い方」と予想していたそうだが、「官民の協力には眼を見張るものがあった」と振り返る。
ただ、課題がすべて解決されたわけではないようだ。その代表例が教育現場におけるハルクステン語の地位とするのは協会の別の理事だ。
「ノルテアレフィス、ハルクステンの2県では現在教育委員会が初等・中等教育課程に教科としてハルクステン語を取り入れることを検討していますが、こちらは遅々として進んでいないのが現状です。たった数十年前まで主流だった言語を学ぶことがないままに子どもたちが育っていくのを見るのは歯がゆいばかりです。」

公用法によって地域ではセニオリス語がありふれたものとなる一方で、教育現場への導入が進まないのはなぜか。大統領報道官は会見で質問に対し「初等・中等教育課程に取り入れるべき科目として様々な提案があることは承知しており、全国一律・平等での教育という前提の上で検討を進めてまいりたい」と回答した。これにある社会民主党幹部は「ハルクステン語教育の需要は特定地域に偏っており、科目としての導入は不可能ということだ」と話し、否定的な見方を示した。

ハルクステン語学校の関係者は政府のこの動きに「残念なことだ」としながらも「かつてこの地域の第一言語であったハルクステン語は、今や全人口の1割を占めるのみとなっている。これを受けて共存協会の多数意見もハルクステン語学校への支援拡充と高等教育におけるハルクステン語教育強化に留まっているのが現状だ。見合わない政策は逆に民族間に溝を掘ることにもなりかねず、一筋縄ではいかない」と話した。

【社説比較】フリューゲル国際連合に加盟 共和国外交の展望とは

<セニオリス共同国際通信>

951年、共和国はサンサルバシオン条約機構への準加盟、さらにフリューゲル国際連合への加盟を申請した。同年11月にフリューゲル国際連合安全保障理事会はセニオリス共和国の加盟を承認し、またサンサルバシオン条約機構への準加盟も953年5月に承認された。後期に入ったバルバリッチ政権の元で、共和国外交は転換を迎えることとなった。

国連加盟は建国当初より議論がなされていたが、その後社会民主党の国政選挙での勝利とそれに伴う内政方針の転換が重視されることとなり、「外交は共和国の重要議題ではない」(当時のプロシネチキ政権幹部談)との認識の広まりによって萎んでいた。以後共和国は目立った外交的動きを見せない「静かなる孤立」の状態にあったが、今回の方針転換は951年がハルクステン条約発効から100年となる節目であった事が大きいとされる。

しかし、フリューゲル国際連合には国連懐疑論がつきまとっている。直近の活動状況を見ても第10回通常会期は最終的な投票参加国が(カルセドニー社会主義共和国代表によって積極的な投票が呼びかけられたにも関わらず)神聖ガトーヴィチ帝国ただ一国のみ、更に第11回通常会期は950年末までに議題提出が無かったことで未開催が決定されるなど、冷温停止が指摘されている。
バルバリッチ政権による方針転換は正しかったのだろうか?

新セニオリス新聞は「国連加盟は素晴らしき第一歩」と全面的に評価。”冷温停止”などの指摘に関しては「ひとえに『三国協調』のリーダーシップ頼みになっていることが原因」と指摘し、「非列強という立場こそが共和国外交の真価だ」と主体的な役割を果たすよう注文した。

労働者ネット1000は「共和国の目覚め」と題し、方針転換を「バルバリッチ政権が後世に残す輝かしき功績の一つ」と全面的に評価。国連の現状について「100年という年月は先進的であった組織をも陳腐化させている」とした上で、「非列強の立場から改革を掲げる先鋒となるだろう」と期待を示した。またサンサルバシオン条約機構については「同条約が記す『あらゆる人々の共通の利益と平等を保障する公平かつ公正な社会』は共和国が目指すべき国家像とも一致する」とし、「理想を共有する国々との連携は共和国にとり大変重要なものとなるだろう」と評価した。

イグナイト・タイムズは「平和と安寧を理念とする共和国の方針にも適うもの」として評価した一方、915年以前のセニオリス史に触れ、「フリューゲルには”セニオリスが付いた側が負ける”とのジンクスがある」と紹介。また「過去にその名がもたらした禍根から、”セニオリス”に忌避感を覚える人々は少なくない」とした上で、「決して驕り高ぶらず、現実に立った慎重な外交こそが重要だ」と指摘した。

北方セニオリス新聞は「国連加盟の実質的評価は加盟後の対応によって変わる」とし、10世紀中盤現在の国際情勢を「第一共和国に見られた”理念外交”が通用する余地はもはや無い」と評価。「国際社会は過去波乱を生んだセニオリスの名を注視している」として慎重な対応を求めた。また2年後に控える選挙に大統領が2期目挑戦の意向を示唆し始めたことを念頭に「今般の方針転換はバルバリッチ政権の実績作りという色が否めない」と指摘している。

ヤドラスコ・ニュースは「凍死志願者」と題し、バルバリッチ大統領を模した人物が”FUN”と記された氷溢れる冷凍庫に嬉々として入ってゆく風刺画を掲載。その真意について、「我々は一人の目立ちたがりの手により冷凍庫に叩き落されようとしている」と説明。国連について「第10回会期、進まない憲章改正などから、フリューゲル国際連合とその加盟国がもはや凍死状態なのは明白」、準加盟が承認されたSSpactについて「社会主義条約の名が未だ健在なのは同機構の構成から明らかだ」とそれぞれ分析し、今回の方針展開を「いかにも知識のない目立ちたがりが考えそうなことだ」と酷評した。

ハルクステン条約発効から100年、共和国は外交方針転換により新たな局面を迎えることとなる。しかし9世紀前半に第一共和国により生み出された混乱は100年以上を経た今もなお国際社会に根強く記憶される所となっている。バルバリッチ政権が口火を切った転換はこれからが正念場だ。

【政治】「厚生福祉にも光を」生活弱者訴えで厚生省設置実現

<労働者ネット1000>

953年5月1日、第5回メーデーは各地で開催され、労働者らが労働環境改善などを力強く訴えた。
首都イグナイトの南部に位置する公園では、過酷な労働環境で心身を壊したという女性が登壇し、涙ながらに窮状を訴えた。

「身体を壊し働けなくなった時、私は毎月病院に通うことになった。いつ復帰できるのか見えないままで、とてもつらかった。ある時調べていると、心身の不調を理由にした離職者向けの通院支援があると知った。ああ、私はまだ生き続けていいんだ。そう思った時、担当省庁の名前を見て驚いた。『運輸衛生省』だという。私は国にとっての汚れなのか。私は居てはいけない存在なのか。こんなことが許されていいのでしょうか。」

泣き崩れる女性に会場は同情の声を上げた。続いて登壇した男性はまもなく定年を迎えるのだという。

「社会人となってから、私は長きに渡ってこの国に貢献してきた。大変なこともあれば、私がミスをし迷惑をかけたこともあった。でも私はこの仕事に誇りを持っていたし、大変な子育ても妻と支え合ってなんとか乗り越えられた。定年後は妻に寄り添おう。歴史に残るようなことではないかもしれないけど、何かを残した人間として、誇りをもって余生を過ごそう。そう思っていた。でも私が積み立ててきた物はどこにあるのかと聞いた時、私はとても困惑した。『経済産業省』、そう私の年金は彼らが”経済・産業政策の一環として”支給するようだ。私は確かにこの国の産業に貢献してきたという自負はあるけど、なぜ定年してもなおその一環に取り込まれ続けるのか。これは国が厚生福祉を軽視している表れじゃないのか。」

この会場では様々な窮状が訴えられることとなり、国家の厚生福祉政策の不十分さが強く認識されることとなった。これに対し、招かれたある社会民主党議員が壇上に上がり「皆様の窮状はひとえに我々の努力の不足によるもの、直ちに対応します」と明言し、拍手喝采を浴びた。

この言葉によって、事態は急展開を迎えた。翌日の2日にはドゥブラフカ・マタチッチ行政改革長官が「厚生関連の機関の貧弱性は私も以前指摘したところだ」と言明。更に3日にはペトラ・ペルコビッチ運輸衛生長官が「追い詰められた弱者を汚れ扱いすることなどあってはならない」と語り、8日には大統領自らが「私の残りの任期中に『厚生省』を設置する」と断言し、急ピッチで調整が進められた。

社会民主党、セニオリス共産党、進歩自由党の3党は11日、「厚生省」に関連する法案や人事について協力し合うことで一致した。26日に大統領は大統領令第84号『厚生省の設置』に署名。継承順位第15位に厚生省を管轄する厚生長官を置くこととし、議会は関連法案を可決すると共に、無所属の元地方議員のミラ・パヴロヴィッチ氏を長官に任命する人事を承認。1ヶ月にも満たないスピード決着であった。

労働省設置が建国以来より議論され続け948年10月にようやく実現したこととは対照的な出来事であるが、1ヶ月に満たない期間には拙速さも感じられる。この組織に問題はないのだろうか。

「実は厚生福祉特化の省庁の設置はバルバリッチ政権発足以来からずっと水面下で議論され続けていたのです」とは今回の設置で中心的役割を担った社会民主党中堅議員の談だ。
「前政権下でマタチッチ行政改革長官がまとめ第3回選挙前に公表した『現行制度の不足機能』の報告書では安全保障部門、労働部門、福祉部門の大きく3つで不足項目が指摘されていたのですが、政権奪還を目指す我々は労働のみならず福祉での行政改革も主張し、国民の皆様の支持を得ることが出来ました。しかし福祉部門は当時の自由党の想定外にあり、また穏健派労働組合のナショナルセンター形成構想もあり労働省設置が急がれていたため、まずどこから手を付けなければいけないかという水面下での議論から始まったのです。」

第3回選挙の当初、当時のバルバリッチ候補には「極左」との逆風が吹き荒れ、ヴィドヴィチ候補とベキッチ候補の2択とまで言われた。自由党は「労働省設置」によって穏健左派を固めベキッチ候補を圧倒する構えだったが、社会民主党と共産党が福祉部門の改革も主張し、逆に中道派票を引き抜かれた格好だ。
「バルバリッチ政権発足当時には全くの白紙だったことは事実です。しかし我々はここまで10年間に渡り議論を重ねてきました。労働省設置は複数の政権を跨がされましたが、この問題を先送りする必要などありません。これは奇跡などではなく、必然です。」

バルバリッチ政権は、前政権を打ち倒す格好で誕生しながら、その口上を遥かに上回る格好で「行政改革」を実現した。しかし、これによって人民の不幸はすべて消滅したわけではない。共和国の歩みをとどめてはならない。2年後に控える選挙は、人民の固き意思を表すものとなることだろう。

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