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ロシジュアの歴史

 ロシジュアの歴史では、ロシジュア地域における政治史について概説する。なお、本稿ではロシジュア史上における重要な事柄を二種に分け、国内の事物を緑字、国外の事物を青字で表記している。

軍閥割拠時代(?~849)

 現在ロシジュアと呼ばれる地域に人々が降り立ったのは9世紀初頭と思われるが、記録の散逸により定かではない。入植当時は粗放農業が営まれ、小麦・大麦類の栽培のほか、豊かな森林資源を用いた家屋建造などが行われた。しかし、入植後まもなく内地で起こった干ばつによって局地的な大飢饉が発生。飢えた人々は、干ばつ被害が軽微な沿岸部の村落を襲撃して食糧を強奪し始めた。するとこれに報復するべく内地への焼き討ちが実行され、ロシジュアの地全体が大混乱に陥った。そのうち一定の地域を包括して安全保障・他地域への侵略を行う軍閥が乱立して相争った。これが軍閥割拠時代の始まりとされる。

 主要な軍閥群はモスコヴィー軍閥・ノヴァゴルド軍閥・モレスンスク軍閥・チェルニヒア軍閥などである。このうち内地のモスコヴィー軍閥が強大化して周辺の軍閥を併合し、ロシジュアの地の制圧に乗り出した。しかし一方で、ノヴァゴルド軍閥領では平和主義団体が支持を集め始めた。かの団体の長は軍閥が掲げる軍事覇権主義を否定し、全ロシジュアの人々が平和共存する平和統一主義を訴えていた。当時、既に恒常的内戦が数十年続いて多くの人々が疲弊しており、平和を願う者が多かったことで、この団体はたちまち巨大化した。団体メンバーはロシジュア各地に自生していた紫のバラ(ロシジュアンローズ)を胸元につけて標識としたので、団体は「バラ連盟」などと呼ばれたという。ノヴァゴルド軍閥は当初この動きを弾圧したが、軍事路線を貫いてモスコヴィー軍閥と対決したところで敗北は目に見えていたため、バラ連盟に一縷の望みを託して同団体と協力関係を樹立、モスコヴィー軍閥に平和的合併を打診した。モスコヴィー軍閥は聞き入れずに大軍をノヴァゴルド軍閥領に差し向けたものの、かえってバラ連盟に共感した兵士と農民の反乱を招いて、848年に滅亡した。

◆帝国時代(849~857)

皇帝存命期(849~850)

 ロシジュアの地を統一したノヴァゴルド軍閥は解散して、バラ連盟による平和的統治が始まることとなった。国家元首にはバラ連盟の長が選ばれ、連盟幹部らの協議のもと「ロシジュア皇帝」の称号を戴き、857年には帝国府と呼ばれる国家機構が完成し、正式にロシジュア帝国が建国される。長年に渡る紛争と食糧不足が解消されたため、民衆は大いに喜んだ。またロシジュアの地の外へと目を向ける余裕もでき、ライン共和国・ミルズ皇国(現国連統治領ミルズ)・フェネグリーク帝国・ストリーダ王国などとの国交締結が行われた。

 ところが、国家中枢部である帝都が突如として大火災に見舞われた(八月大火)。建国以来ロシジュアには木造家屋が多く、帝都の都市構造が火災に弱い密集様であったことが大火災誘発の原因とみられている。八月大火では帝都の住民の大多数が焼け出された他、国家元首たるロシジュア皇帝も火に巻かれて姿を消した。大規模な捜索が試みられたものの、完全鎮火に一週間を要したこともあり、ついに皇帝は発見されなかった。ロシジュア皇帝が行方知れずとなったことはロシジュア全体に大きな衝撃を与えた。

臨時政府期(850~852)

 バラ連盟の幹部らは直ちに帝都を北東のサクロトペルトブルクに移し、臨時政権を樹立した。臨時政府はロシジュア皇帝の捜索は続けるとしながらも、一刻も早い復興のため最大限の力を注ぐと強調した。旧帝都にはバラック小屋が立ち並び、少なくとも852年までにはおよそ人口は大火以前まで回復、教育・インフラ整備も並行された。このため臨時政府は旧帝都を帝都に再設定し、その名をツァリアクラート(皇帝の都)とした。857年には初めての国家間条約として瓦樹交流協定をガトーヴィチ帝国と締結している。その直後、臨時政府は八月大火の復興は完全に終結したとする宣言を発し、ロシジュアの民意を取り入れた政府改革の実行を宣言した。これがいわゆる「行政民営化宣言」であり、857年末には臨時政府は解散、新たにソシアート政府が生まれることとなった。

連邦時代(857~897)

ソシアート体制の始まり

 857年の臨時政府解散に伴って発足したソシアート政府は、国号をロシジュア超越的帝政ソシアート共同体と改めた。しかし国号が覚えられないという声が上がったためすぐに訂正し、ロシジュア平和連邦とした。「長い国名を短時間で変更した」という一連の流れはロシジュア国内で「長いが短い論議」と称され笑い話となっている。しかしこの初出国名は「超越主義」の語源となった。

 ソシアート体制とは中央ソシアート(政府)と帝国民ソシアート(地方自治体)という二種の議会によって成立する体制であり、帝国民ソシアートから選出された人材が中央ソシアートに派遣されるため政府の民営状態は保たれるとした。中央ソシアートは中務ソシアート以下9つのソシアートから成って、それぞれが独自の分野に関する議決を行った。各ソシアートでは代表と呼ばれる名目上のリーダーが立てられ、このうち中務ソシアート代表が事実上の国家元首とされる。ただし、行政民営化は帝政の廃止を意味するものではないため、名目上の国家元首はあくまでもロシジュア皇帝であること、また代表の地位は何の特権も保有者にもたらさないことを留意しておかなければならない。

第一次ソシアート改革

 中務ソシアートの初代代表であるガリーネ・ファスティナは、881年に第一次ソシアート改革と呼ばれる改革を断行した。中央ソシアートの構成人数を300人から10人に減らすもので、議事の簡便化が図られたが、一方で行政の民営化が形骸化するとの指摘もあった。第一次改革ではこの他に各ソシアートに付属する帝庁の設置が行われ、評議を担うソシアート・実務を担う帝庁という行政分業化が成された。また、帝国民ソシアートから中央ソシアートへの情報伝達を可及的速やかに行うため、帝国ホットライン帝国コールセンターが設置された。

 ガリーネ代表は高次科学探求島(科探島)アーコロジー地域の二つの島を特別行政区とし、ソシアート体制下に組み入れない自治区とした。前者は技術ソシアートと提携して学術研究を行う研究専用島であり、後者は衣食住がまとめて大規模構造物の中に備わった新世代型集約農業の実験場である。また外交面では859年にロムレー湖畔共和国とバラ園の協定と呼ばれる平和・学術協定を締結した。まら887年には、北海連邦でクーデターを起こし成立した大北圈連帶聯邦を嫌って亡命してきた極圏超越主義連合を受け入れたが、政府はこれを国家承認しない意向を示した。同連合はアーコロジー区域に移動し、政治活動を続行した。

  

第二次ソシアート改革

897年にガリーネ中務ソシアート代表が死去したため、新たな代表としてエレーナ・インサイティナが選出された。エレーナは若年でありガリーネと比べて我が弱く、リーダーシップを発揮することはあまりなかったが、柔らかな物腰と天然発言から、国民には「レーナちゃん」と呼ばれ親しまれた。その業績として特筆されるのは、代表就任直後に発した第二次ソシアート改革である。これは地方の問題を中央政府がいち早くキャッチし対応するためとして、帝国民ソシアートの議事に3名のオブザーバー議員を参加させるものである。オブザーバー議員には議事の参加権がないため、この制度自体が地方自治を損なうことはないが、監視体制の強化のようにも思えるという非難の声も上がった。また、オブザーバー議員からの情報を集積して地方政策を審議する統括ソシアートが同時に設置された。この第二次改革にて、地方政治への中央政府の介入が事実上容認される形となったため、帝国時代より地方分権スタイルが確立していたロシジュアではこの改革への疑念の声も多くみられた。

◆コモンウェルス時代(897~918)

得られた20年

 第二次改革では国号も改称され、ロシジュア平和コモンウェルスとなった。このコモンウェルスという単語には中央集権の意が多分に含まれていることは想像に難くない。この20年余に渡るコモンウェルス時代の大半は「得られた20年」と呼ばれ、ロシジュア史でも特に重要な時期と位置付けられている。

 「得られた20年」においてはロシジュアの産業構造・規模が大きく変容したことが知られる。第二次改革以降、工業ソシアートは雇用確保・国内総生産向上政策として国土改質イニシアティブ(国土改質計画)を二度に渡り発表・実行した。国土改質とはインフラ整備・工業化などで従来の土地をより良いものに再構築するという意で用いられる単語である。この国土改質計画については第二次改革で新設された統括ソシアートが多分に関与しており、地方の国土改質の加速をもたらした。第一次国土改質(900~902)では地方都市の再編成・計画都市化が行われ、また無秩序に形成されていた道路網を再形成するなどして交通・流通の効率化が図られた。第二次国土改質(904~910)はより重要で、もともと綿製品などの軽工業に集中していたロシジュアの工業構造を、IT・電子部品中心の先端工業に切り替えるというものであった。第二次国土改質によって、ロシジュアの工業生産力はVa換算で実に40倍以上に増加、ロシジュアは世界屈指の工業国として知られることとなった。一方、第二次国土改質の機関にはロムレー湖畔共和国・カルセドニー社会主義共和国に対し200兆Vaずつの外債を発行しており、国土改質はロシジュアが債務国となるきっかけにもなった。

超天連邦の形成

ヘルトジブリール=ロシジュア連邦の項も参照のこと。

 第二次国土改質に関しては、ヘルトジブリール社会主義共和国の存在無くして成立しえなかったといってもよい。従来、世界最大の先端工業国であったヘルトジブリールは、大規模な宇宙移住プロジェクトによる人口・工業力の減少が予測されており、かの国に代わる先端工業国の出現が求められていた。先端工業化を志向するロシジュアが、その代役となったのである。ヘルトジブリール・ロシジュアの両政府は前者から後者への工業生産移行に際して綿密な協議を重ね、かくして第二次国土改質は成就した。そして両国は間柄を維持しつつ、それを現実に昇華することを望み、907年の超天平和友好条約の締結、ひいては912年のヘルトジブリール=ロシジュア連邦の成立に至るのである。

巨大隕石災害

 917年、ロシジュア本島南西部と北東部に巨大隕石が落下、のべ1500万人以上の住民が被災したと見積もられている。また第二次国土改質で伸びた工業力に関しても、実に3分の1が失われる大損害を被った。政府は被災者に対する助成金交付およびはらぺこ基金の割当てを行い、可及的速やかな復興を確約した。この巨大隕石災害は、直接的に物質被害を被った被災者のみならず、ロシジュア国民全体に精神的ショックを与えた。隕石がいつどこに落ちてくるか分からないという恐怖心の中で、国民の中ではロシジュア皇帝を再び称揚しようという運動(ツァリア・アナゲンスィフ)が盛んとなった。これは政治の場ではほとんど意識されなくなったロシジュア皇帝の存在が、民間においては精神的支柱として存在し続けてきたことを再確認させる現象であった。そして、政府は…

◆ドミニウム時代(918~)

 918年、エレーナ代表に代わり中務ソシアート代表となったイネッサ・アドーナ代表は声明を発表し、「ロシジュア帝聖平和ドミニウム」の成立を宣言した。これは先の巨大隕石災害において皇帝再称揚運動が高まったことに対する国家の返答であって、以降ロシジュアは皇帝の存在を念頭に置いた国家運営を行う運びとなった。

第三次ソシアート改革

 922年9月末、イネッサ代表が第三次ソシアート改革の綱領を発表した。これは地方より選出された議員で構成され、中央政府に干渉できる帝国民会の設置を中心とする政治改革であった。その他、地方政治を監察するオブザーバー議員や彼らを取りまとめる統括ソシアート・統括帝庁が廃止されるなどして、地方の政治的発言力の強化を目指した改革として評価される。

922年帝国民会選挙

 第三次ソシアート改革後、922年中に初めての帝国民会選挙が実施された。この選挙には漸進党・加速党・空飛ぶ党・ぜんまい党・メガリ拡大党・遡る党・マシナリア党・色彩党の8政党が参加を表明し、ロシジュア史上初めての全国規模の選挙戦が繰り広げられた。結果、「得られた20年」にて顕在化した労働問題の解決を掲げたぜんまい党が第一党となる一方で、他政党も少なくはない議席を獲得し、状況は小党分立を呈した。923年には、ぜんまい党が国有小口融資銀行の設立を求める行政案を提唱、民会内で過半数の支持を得たため民部ソシアートに提出された。この要求が受理されたことにより、ロシジュアには救貧機関としてマイクロクレジットを融資する「バラ銀行」が設立されることとなった。