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【インタヴュー】ブランコ・レコ海軍大将インタヴューほか

【インタヴュー再録】混乱の時代の終わった後に ブランコ・レコ海軍大将インタヴュー

 1069年、セニオリスのプレンコビッチ首相が暗殺され、1075年の選挙までの間、政治的に不安定な時期が続いた。
 1065年に発生したクーデターを契機にレゴリス帝国は5年にわたる内戦状態が続き、いまだその傷は完全に癒えたとは言いがたい。
 1060年代から70年代にかけてのヴェニス島では同社のシステム機能停止により無政府状態に突入、ついに1078年にヴェニス・コンプレックスは崩壊した。
 三者三様の混乱の時代が「答え合わせ」を終えつつある今、我々はこれからの世界を見渡す必要性に迫られている。このような時に振り返りたいのが、かつてのセニオリスの「救国評議会」と、これを終わらせたブランコ・レコ海軍中佐(救国評議会当時)である。本号では、1043年に実施され、国内版で出されたものの国際版には掲載されなかったブランコ・レコ海軍退役大将インタヴューを国際共通語訳してお届けする。

―セニオリス社会共和国の現状をどのように分析されますか。
第二共和国を、過去の第一共和国と比較した時に大きな違いとして挙げられるのは、かつて徹底していた「資本主義」への信頼というものが失われていることでしょう。
建国時点で最大の勢力を誇っていた自由主義者は、時代を経るにつれて徐々にその勢力を逓減させ、代わって左派の、資本主義を問題視、あまつさえ敵視までする勢力が台頭する事態となりました。
私が共和国の軍人として過ごした時期は、まさしくそうした時期にあたります。
その私の目から現状の我が国を見るならば、資本主義への信頼は今までに回復されず、国民は完全にそれらに代わる選択肢を模索し続けているように見えます。
「社会共和国憲法」の成立は、それを代表した事例だと言えるでしょう。国民はそれまでに自らの生活を成立させてきた資本主義に目をくれず、むしろそれに痛恨の一撃を与えることを選んだのです。
最新の選挙においてはそれらを成立させた社会主義者たちは勢力を失いましたが、代わる超越主義者もまた、資本主義を真剣なものと捉えていないようです。
「超越」が我が国の新たな国是となり得るのかは私は分かりませんが、いずれにしても、国民が資本主義を再び信頼するにはまだ時間がかかるのでしょう。

―かつてのセニオリス・クーデターが掲げた大義名分について、どのように見ておられますか。
私はクーデターの立案、計画に携わる立場にはなかったため、必ずしもその意義について完全に理解しているわけではありません。
しかしながら、私は海軍中佐の身分として救国評議会への参画を打診され、それを受け入れる形で政権に携わっています。その理由としては、国益を守る軍人として、「社会主義の毒牙から国家を守らなければならない」との強い使命を感じたからです。
民主的に選出された政府を実力によって排除するという行為は、当時の私としてもいささか考えがたい行為ではありました。
しかし私はライフワークとしていた歴史書の探究において、革命がその後長きにわたり悲劇を生み続けるものであることを認識していました。革命により我が国の未来が永久に閉ざされる可能性を考慮したとき、私に打診を断るという選択はありませんでした。
救国評議会は崩壊し、その行動は完全なる無駄であったと評価する声は絶えませんが、私はそうとは認識していません。
事実、第6回選挙においては国民は社会主義者を退け、彼らの「社会主義共和国」構想は、共和国の体制を概ね維持する社会共和国憲法へと修正を余儀なくされたわけです。
我々が発した社会主義への警鐘は、確かに国民に届いた。かの件の「大義」は概ね果たされたと私は考えています。

―救国評議会政権はなぜ崩壊するに至ったのか、その経緯はどのようなものでしたか。
救国評議会の崩壊を説明するにあたっては、まず救国評議会の構造について説明するのがよいでしょう。
かの組織は当初、大統領府及び議会を臨時に代替えし国家運営を担うことを目的に作られました。
軍人、議会議員、地方議会議員、そして研究者から成ったこの組織は、やがて評議会内で議論が進むとともに臨時ではなく恒久的な制度として位置づけられ、当時の大統領府のコピーとも言うべき構造が導入されました。
それは救国評議会議長がトップとなり、首相以下各省庁を監督する長官に継承順位が割り当てられるというものです。
大統領府との明確な違いは、役職のない評議員が3名構成に含まれていたことだけでしょう。私は、その無役職の評議員の1人でした。
知っての通り、評議会が壊滅に至った直接的な要因は、975年5月のヘルトジブリール国防軍による総督府への攻撃です。
この攻撃が行われた当初、総督府には評議会の構成員のほとんどが集い内政に関わる議論を行っていたと聞いています。しかし私は無役職ということもあって出席が必須とされておらず、部下の指導に当たるためハルクステン県に赴いていました。
総督府が攻撃を受けたという報を受け取った私が初めに予想したのは、単なる移転の旨の連絡だろうということです。
同盟国軍より攻撃を受けるという異常な情勢の中で、政府関連施設であった総督府は当然に攻撃対象となることが予測され、露見し難い避難地や避難計画は当然整備されていました。
ところがそれらの計画は実際の攻撃に際して生かされることはなく、現地に居合わせた評議員18人が一瞬にして消え去る事態となっていました。
後の調査では、この原因は警報装置の不備にあったと報告を受けています。再度の攻撃の可能性から、私が現場を見ることができたのはスラヴ国が去り大統領府が再建された後のことでしたが、彼らの遺族に遺骨等の類は一切残されなかったようです。
さて、そうして評議会の構成者は私の他に、元政治研究家の女性のみとなりました。規定に基づき私は救国評議会議長の職を受け継ぎましたが、その時点で評議会の体制が既に破綻しているのは明らかでした。
組織に既に再建の余力は残されておらず、議長として私が為せる仕事は、いかにこの組織を畳むかという点だけでした。
なおも社会主義に直ちに政権を戻す手段には一定の抵抗を覚えました。しかし評議会外の党派に評議会に協力的な勢力はもはや存在せず、そしてSSpact内での戦争という内外の歪んだ状況を加味すれば、我が国に必要なことは一刻も早い政権返還以外にありませんでした。
かくして私は議長就任の公式発表を行うとともに安保理決議や条約機構勧告の履行を宣言し、976年3月に政権を崩壊させるに至ったのです。

―セニオリスクーデターへの対処と別府脱退という危機を経て、今のSSPactについてどのように見ておられますか。
サンサルバシオン条約機構は、あえてスラヴ国の立場から見るならばそれは体制破壊を目論む敵であったのと同時に、その他の諸外国からの介入を阻む盾でもありました。
同盟内での紛争という事態を経ても我が国が条約機構加盟国であるという立場に変化はありませんでしたが、評議会政権崩壊後の私は、再建された共和国政府による捜査に服し、復職後も軍人として海軍の再建に尽力するという立場でしたから、情勢について詳しく認識できているわけではありません。
とはいえど、同盟内での戦争という事態に続いて起きたヴェールヌイ社会主義共和国の脱退は、条約機構という組織を大きく動揺させたことには間違いありません。
辛くも条約機構は脱退によって解散状態に陥らず、現在でも国際連合に同盟理事国を派遣する立場を維持しています。その上でここ最近の国際情勢全体を見れば、新しい秩序の形成の流れや、既存の条約組織の縮小など、一定の節目を感じさせる事例は数多いようです。
そのような中、オブザーバー国を含め多数の国家が共通議題について率直に意見交換できる環境は、我が国のみならず条約機構の関係国全体にとって大いなるプラスとなっていることでしょう。
我が国より見た条約機構という立場で見れば、ヴェールヌイ脱退後に我が国は条約機構の政治代表へと就任し、条約機構の中心的な存在へと名乗りを上げました。
953年に準加盟を申請して以来からの流れではありましたが、サンサルバシオン条約機構が我が国の外交の中心であるという方針はここに確定的なものとなったものと思います。
近年では我が国は条約機構枠の安保理同盟理事国に就任するにも至りました。今や政権は、条約機構への向き合い方ではなく、条約機構の導き方を議論している時期なのかもしれませんね。

インタヴュアー:アンセルム・ミキャエル・カントルーブ
クレディ・ロムレー国際情勢調査部門主席専門調査員(当時)。アンゼロット記念大学で物理学を学び修士。ロムレー海軍退役准尉、レゴリス大使館一等調査官をはじめロムレーと国交のある国すべての公館での勤務経験があり、外交局では次官まで昇進後退職、インタヴュー後に中央議会議員に転身、一時は議長候補にもなるが選出されず。

【社説】CDXと超越の夢の終わり

 これまでのところ、11世紀はおおむね国際的な武力衝突のない、フリューゲル史全体としては安定期にあたる時期といえる。もちろん、これは個別にすべての国が安定していたということはない。本号のインタヴュー特集の冒頭で取り上げたように、烈瀬威三ヶ国は11世紀後半に大いに混乱の時代に突入し、フリューゲルはこれへの対処を迫られた。本世紀の前半には、カルセドニーでは社会主義評議会が古典的なカルセドニー社会主義体制を再建した。レゴリス・クーデターは停滞するレゴリスを救おうとするものであったかもしれないが、結局その夢はレゴリスに瓦礫を積み重ねることしかしなかった。ヴェニスのコーデクス主義は長い実験の結果であったが、セビーリャにも見られたように、コーデクス主義の抱える本質的な不安定性はついぞ克服されることのなかった。そして何よりもセニオリスの顛末は示唆的である。かつて、大スラヴ主義の時代が過去に過ぎ去ったときにあって、それでもスラヴ主義をとった「救国評議会」は、国際的な孤立の中でついに破滅を迎えた。今、国を二つに割って、急進的左派と中道左派に二分された国は、左に揺れ動いた後、人々は冷静さを取り戻し、中道に回帰し、「超越」は超克された。我々は観念的な政治の到達点を目にした。他国に対する軽視と無関心に揺蕩う「人民派」が差配する現在のロムレーも、もし座視するならば同じことが起こりうるだろう。起こることを冷静に見つめ、現実に根差した政治を取り戻すことが必要なのではないだろうか。

【オピニオン】超越主義者は独裁の夢を見るか?

 超越主義者は既存の問題をどうやって超越するのか?これは超越主義の古い問題だ。
 超越主義者は超越主義者同士の対立を超越できるか?これは超越主義の新しい問題だ。
 良く知られているように、ロムレーの政治学者の多数派の見解において、「超越」は、政治的対立のあるところにおいて、その対立を止揚することであると定義される。ここで一つの課題が生じる。超越主義が支配的となった場所において、超越主義者同士の意見の対立にどのように対処するか、だ。
 ロシジュアにおいても、かつて加速党を中心とする大きな政府派と空飛ぶ党を中心とする小さな政府派の対立が生じていたことがあった。当然のことながらそれら政党も含めほぼすべてが超越主義であった。この対立のありようは、価値観における超越主義を前提とし、政治的・文化的な対立点ではなく経済政策において摩擦が招じたという点で興味深いものであった。ただしその後のロシジュアでは彼ら政党の論戦の場であった帝国民会は廃されその役割は政策諮問AIヘスペリデスに移行したことから、一種のCDX主義的手法によって超越された感がある。
 超越主義の影響が大きかったもう一つの国がヴェニスであった。文化的次元において超越主義的であり、経済的次元において市場主義的である彼らにおいては、もはや政治・経済・社会のありようは論議の的ではなく、皮相的には大きな違いを持ち、しかしその基本原理においては本質的な違いのない10のコンプレックスに分割されて自らの理想を個々人で追求することがよしとされた。あるロムレー人超越主義思想史家はこれを生活保守主義になぞらえて「生活超越主義」と呼んだが、一方でこの超越主義はロシジュア以前の…いや、1000年以上昔の地球にあった「超越主義」に最も近いとも指摘している。
 ロムレーの超越主義は、超越主義の本来的な難解さとは違った性質の曖昧さを含んでいる。ロムレーにおける超越主義の起源はロシジュアが「超越」の語へと踏み出した時期と同程度には古いことが示唆されているが、一方で、それについてまわる晦渋主義を蒙昧主義と解釈した主流派ロムレー知識人は、これを政治思想へと導入しようとはしなかったし、ついには人民派がロムレーの思想的基盤をルッコラ保護主義に簒奪した時にロムレー超越主義はおそらく可能性を奪われた。現在のロムレーにも人民派・ジャンベール派・CDX派の三様の政治的超越主義があることにはあるが、いずれも発展可能性を損なわれ、人民派から政治的言語の主導権を奪還できる可能性はほとんどない。ロムレーにおける超越主義は社会的基盤すらも持たない個人的生活超越主義に留まることを余儀なくされるだろう。
 そして、セニオリスであるが、この国の歴史は重層性に満ちている。先セニオリス人のセニオリス共和国は社会自由主義を僭称する反社会主義の思潮が強かったが、現在のセニオリス人が入植して以降、まずは穏健な自由主義国として始まり、若干の振動を伴いながらも左派民主制の方向へと深化していった。現在のセニオリスは自由と超越の理念を通奏低音としつつも超越主義者と穏健派社会主義者の勢力が主導権を握っており、先セニオリス人が名乗った「社会自由主義」が正しくも実現していると言える。しかし、超越が理念として普及した結果、急進主義者も超越のレトリックを用いるようにもなっており、そのような勢力においては独裁主義的な超越主義の傾向を観察することができる。これは、時代遅れな教条的社会主義や浅慮な民族主義を終わらせることとなり、ある種の好例ではあるものの、一つの疑問が今でも残っている。これまで、多くの右派独裁・左派独裁がもたらしてきた悪夢を、超越独裁を招くだろうか。あるいは、独裁とディストピアの結合をも彼らは超越できるのだろうか。
 ただ、明らかなのは、少なくとも、究極的な社会原理においてロムレー人には理解の難しい世界がもたらされることにはなるのだろう、ということである。我々はそこから何を学べるだろうか。

ベルト・ケヴィン・ルーム
心理言語学者。学術協定機構教授。アンゼロット記念大学で計算言語学を修め博士(言語学)、のちベルグシュロス大学で神経科学を修め博士(医学)。
当初はアンゼロット記念大学研究員として数理言語学の分野で大きな成果を残したが、次第に言語そのもので言語について記述するということ自体へと関心を深化させ、当時最優秀と評されたヘルトジブリールの認知神経科学者のもとへ留学。近年は不気味の谷現象の第一人者(本人は懐疑的だが、作業仮説として一定の有効性はあると考えている)として名をはせ、B.K.ルームの名でメディアへの露出も多い。政治的にはロムレー超越主義協会の会員であったが、人民派の政治的台頭以降のロムレーにおける超越主義の潮流に対しては冷淡であり、現在は超越主義論者であって超越主義者ではないと自認する。

【政治】リディアーヌ・キュルティヴェシオナ議長、引退を表明。「我ら人民」はフィルマン・ルジャンドル氏を次期議長候補に指名。反人民派連合も統一候補を模索。

 就任から間もなく20年を迎えるリディアーヌ・キュルティヴェシオナ中央議会議長が引退の意思を示した。これを受け、「我ら人民」1089年年次総会において、社会基盤局長で、社会基盤局士官部隊退役少将であるフィルマン・ベルトラン・レナルド・ルジャンドル氏が人民派次期議長統一候補に指名された。ルジャンドル氏は1065年レゴリス極右クーデターに対するレゴリス政府救援部隊のロジスティクス面での最高責任者を務めており、この作戦は目的が物資支援作戦であったことから、事実上の作戦全体の統括役の任を果たした人物である。この選択は、平和主義者として知られたキュルティヴェシオナ女史に対する合理的規律派の抵抗感から当初より想定されていたものであり、軍人寄りの人物を選出することでバランスをとった形となる一方で、陸海空軍といった典型的な軍人ではなく各局士官部隊の出身者をとることでキュルティヴェシオナ路線の平和主義と専門知重視の姿勢を継承することも示す形となり、人民派内部ではほぼ全会一致で決定することとなった。
 一方で、11世紀を通して主導的な人民派の地位に対してほとんど抵抗することができていなかった反人民派の間でも動きがみられつつある。反人民派はあまりにも政治的立ち位置が異なるために連携ができていなかったが、「まずは人民派の優位を切り崩す必要がある」という点では合意に至りつつあり、その中で誰がリーダーシップをとるべきかについて論議が繰り広げられている状況となっている。

【国際】同盟理事国レゴリス帝国、一般理事国に就任。同盟理事国と一般理事国の兼任は史上初。

 1086年初頭、国連事務局は1091年から1100年までの安保理構成国一覧を公示した。1080年代の任期と比べ、サンシャの滅亡などによる推薦状況の変動が見られた今回の公示であるが、ひときわ目を引くのは同盟理事国レゴリス帝国が路烈角超四ヶ国の推薦を得て一般理事国にも名を連ねていることである。
 これは、1085年後半にロムレー政府がサンシャ滅亡に伴い宙に浮いた路烈角三ヶ国の票をレゴリスへと動かしたことをきっかけとし、同じくサンシャを推薦していたロシジュア政府も同じ動きを見せたため実現した。ロムレー政府がこのような推薦を行うに至った理由に関しては、公式にはアンセルム・アルシェ外交局長が「60年代半ばのクーデター以来低下したレゴリス帝国の国際的地位を回復させることを目的としている」と発表している。一方で、事情筋からは人民派のジェラール・エロワ・ルイ・モデルヌ次官による「一般理事国サンシャがいなくなって以降の安保理において、論議を呼ぶことなく速やかに席を埋めることで共和国が安保理に関わらずに済むようにすべき」との主張が浸透していたためであって、アルシェ外交局長のコメントはあくまでも同盟国重視の後付けの理屈にすぎないとの見解もある。いずれにせよ、同盟・一般の二つの枠を超越した理事国となったレゴリス帝国が今後安保理でどのような動きを見せるのかが注目されている。

(その他ヘッドライン)

  • 【経済】クレディ・ロムレー社、ヴェニス・ロムレースおよびヴェニス科学研究院への資本注入を通じての救済・再建プロセスを完了。両社は「我々はヴェニス本社崩壊後の混乱期を完全に脱した。今後はクレディ・ロムレー社のもと、いちロムレー企業として引き続き営業を続ける」と発表。
  • 【国際】決議採決に至らないまま閉会した第24回通常総会に続く総会開かれず。ロムレー外交局は「国連本部問題についてはコミットしない」方針を維持すると声明。
  • 【経済】ポワンクール労働取引所、対象地域を近郊地域に拡大。全ロムレー労働連合「労働者人民の自治を引き続き拡大する」
  • 【経済】新洲府観光業の特質に迫る
  • 【科学】ヴェニスの結末と「AI統治」理念の終わり ロムレー・CDX協会の1080年次報告を読む

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  • キュルティヴェシオナ女史の引退演説で一躍時の人となった、リシュリューやマザランと並べて(ロムレーでは)知られるフランス史上に残る名宰相。歴史教科書に出てくる彼とは違う側面も含め、今読み直してみる価値はあります。J.G.ウォーレン『フルーリー枢機卿とその時代―18世紀前半フランスの軍事財政政策』、重版出来。(アンゼロット記念大学出版局)
  • 『Linguistic Research』、今月はW.ヴェサリウス「フリューゲル・ロマンス諸語の発音変化の比較検討―ノイエクルス語・ロムレー語・セビーリャ語を中心に」、I.L.V.アイアトン「新コーデクス語音韻論におけるイスクイル・パラダイム」、B.K.ルーム「リミナルスペースの言語表現にみえる具象と抽象―心理言語学的観点からみた空間認知処理」など(ロムレー言語学会)

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