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【政治本】ヴォルネスク~果てなき混迷~

 『ヴォルネスク~果てなき混迷~』は、1050年8月にヴェールヌイ社会主義共和国で初版が発売になった政治本。ブルースター紙が企画、出版を手掛けた。本著の原題は『ヴォルネスク 果てなき混迷の先に~スラヴ三国と現代スラヴ主義を問う~』であったが、ベロガトーヴィチ放棄や後継国家のタンファ王国が存在する1130年代からは、現タイトルで印刷されている。

 1045年までベロガトーヴィチ大使を務めたダニーラ・ムクセフによる単著で、ヴォルネスクの当時の状況通じて、ガトーヴィチやヴェールヌイの民族問題を整理し警鐘を鳴らす内容。100年前の書籍ではあるが、登場する列強国家に対する視点や外交観、政治課題について、現在でも通用する内容が多いとされ、ヴェールヌイでは政治外交に関する入門本としてロングセラーを記録している。

 本書の意義(メタ)として、不明点の多い近現代ヴォルネスク史の補足資料としての価値が認められていることがある。これは一次資料にない設定、つまり過去の報道記事やwikiなどに記載がない内容でも、本書が公式設定になるとしてヴォルネスクの中の人(現タンファ)により認められている為。もちろん、これが一つの公式設定だとしても、立場や視点により事実が変化することには留意が必要である。


【著者略歴】
ダニーラ・ムクセフ(Дани́ла Мукусев / Danila Mukusev)
ヴェールヌイ人。元外交官。ユーリ・ノルシュテイン総合大学法学部卒業後、外務省入省。外務省FENA局烈方面課長、外務省国際情報組織参事官、在成蘭王国公使、在ガトーヴィチ特命全権大使、在ロムレー大使を経て、在ベロガトーヴィチ大使を務め、1045年に帰国。ブルースター紙への寄稿を中心に、ヴォルネスク史や国際外交の専門家として活動。著書に『ヴォルネスク~果てなき混迷~』『世界帝国~レゴリスは何故沈まないか~』『ガラスの同盟』等。
【参考文献】
ヴォルネスク独立戦争/ヴォルネスク紛争に関する停戦協定/北ヴォルネスク共和国/南西ヴォルネスク/ヴォルネスク併合条約/ヴォルネスク特別行政区/マーガベル共和国建国に伴う諸事項について/ヴォルネスク・スラヴ共和国/ヴェールヌイ人はどうしてガトーヴィチが好きなのか?/ガトーヴィチ・ベルーサ人/ヤドラスコ出版『薄明の中で』(虚構世界のベロガトーヴィチ)/神聖ガトーヴィチ帝国/ヴェールヌイ社会主義共和国/ノイエクルス連邦(ヴォルネスク特別行政区設置法,マーガベル統治法)/その他現存する各国設定記事

はじめに

 720年6月10日、ガトーヴィチ帝国はノイエクルス連邦に対し宣戦を布告した。ヴォルネスク独立戦争のはじまりである。
 今日、この戦争は、ガトーヴィチ帝国がノイエクルス連邦ヴォルネスク特別行政区の分離派を扇動して引き起こした干渉戦争であるとされ、多くの国でそのような認識が採られている。
 いかなる理屈を並び立てようと、正当化の難しい侵略戦争であった。

 フリューゲルにおける国家間戦争は、よほど物量に差がない限り、一国を敗戦に追い込むことが難しく、経済的、政治的合理性等を天秤にかけ、妥協的勝利と敗北に決するのが常である。その妥協的決着を引き出す為に必要な軍事的優位も、勝利側は敗北側の数倍を要する。

 ヴォルネスク独立戦争は、大義名分に欠けるのみならず、軍事的合理性の観点からも疑問があった。この合理性をガトーヴィチに提供したのが、ガトーヴィチ側として参戦した本邦、ヴェールヌイであった。これは軽武装・重福祉国家の道を掲げているはずの本邦が、構造的矛盾を抱えている事実を象徴する事例である。

 そもそもガトーヴィチとヴェールヌイは、ヴォルネスクで何をしようとしているのか。
 500年代から700年代にかけ、この2カ国は非同盟関係であり国際関係上も密接なものはなく、むしろ利害対立のほうが目立つ間柄にあった。
 本書が出される1000年代初頭から中盤にかけ、両国関係は急速に接近し、北ヴォルネスクにベロガトーヴィチという枠組みを設定し、それを通して各々に、または共同のイニシアチブを復活させている。こうした光景は、これらの国々と多少なりとも関係をもった多くの国々に様々な思いを呼び起こさせたのではないだろうか。そしてその思いの源泉は、ヴォルネスク独立戦争が象徴する所謂「スラヴ主義」の問題であろう。

 スラヴ主義の問題とは、いかなるものであるのか。
 ガトーヴィチが意図して用いた「大スラーヴ主義」は、政治的には正式に撤回されており、ヴェールヌイにおいても非難の対象となった。一方で、民族研究はそれぞれの政治及び関係に未だ影響を与え、ヴォルネスク独立戦争当時よりも、ヴェールヌイ人(ベルーサ人)=ガトーヴィチ人という定義と共に民族的一体性が取り沙汰される機会が増加し、それに比例してヴォルネスク人をはじめとする東スラヴ系民族との区別が先鋭化している。
 これは、一言に民族といった言葉で説明できるものなのであろうか。あるいは、ガトーヴィチやヴェールヌイに固有の要因があるのだろうか。

 筆者は、イヴァングラートに4度、計約10年間にわたって在ガトーヴィチ・ヴェールヌイ大使館に勤務し、その後在ロムレー大使を経て、在ベロガトーヴィチ大使として3年弱、首都ベログラードに勤務した。本邦ではガトーヴィチ・ベロガトーヴィチ関係、WTCO・SLCN、安全保障及び情報関連の仕事を多く手掛けた。本書は二つの問題意識に対し、これまでに得てきた知識や経験に基づき、筆者なりの答えを提示しようとしたものである。

 本書は次のような構成をとっている。
 まず、多くの読者にとって、ヴォルネスクは馴染みの薄い国であろうから、ヴォルネスクの中でも特に北ヴォルネスクを版図とするベロガトーヴィチがどういう国であるかにつき、歴史を振り返りつつ記述した。ただし通史としてではなく、本書の問題意識に沿って、ヴォルネスク人のアイデンティティがいかに形成されてきたのかという観点から、ガトーヴィチやヴェールヌイとの関係に焦点を当てた記述としている。
 スラヴ主義を背景としたスラヴ人国家観の本質は、各国のアイデンティティの否定又は放棄であり、まさにこの点にガトーヴィチとヴェールヌイ接近のハードルを低くさせ、ヴォルネスクを巡る対外戦争にまで至った心理的な要因があったと筆者は考えている。その上で、最初の疑問に関連して、ガトーヴィチはいかなる発想で、どのような戦略を描いてきたか、その中でヴェールヌイやベロガトーヴィチをどのように位置づけてきたかを述べる。
 全ての目に見える事象は、論理的にはそのような全般的な戦略の延長線上にあるものと解すべきであるが、対外的に示される大義や目的は必ずしも明確ではなく、加えてその目的と手段との間に合理的な関係を見出すことが困難である場合もある。
 続いて、我々自身の問題として、そうしたガトーヴィチの戦略を受け、ヴェールヌイはいかに巻かれ又は対抗してきたのか、そこに一貫した国際戦略があるのかについて扱うこととする。
 そして最後に、ガトーヴィチ・ヴェールヌイ・ベロガトーヴィチ関係が我々に突きつけている本質的な問題は何なのか考えた上で、今日の国際外交がいかにあるべきか、筆者の考えを述べることとしたい。

 ヴォルネスクを巡る歴史と現状は、国際関係を考える上で本質的な問題は何であるかを鮮やかに浮かび上がらせ、改めて気づかせてくれた。それはフリューゲルにおいて、政治には政治で、経済には経済で、力には力で対処するしかない、という単純な事実である。

 本書は、1050年5月に執筆され、それまでの事実関係をベースに書かれている。国際社会は刻々と変化を続けており、本書執筆時点以降に生じた重要な出来事が反映されていない、あるいはその時点では見通せなかった動きがあり得ることはご了承いただきたいと思う。

 民族という枠組みは、ある日突如として、我々の予想を超えた影響を発生させ、多くの苦しみや犠牲を払うことにつながる危険性がある。これを抑止できるかは、政治やそれに寄り添う国民が、断固たる決意をもって抗うことができるかにかかっている。

 ヴォルネスク独立戦争終結から300年が経った今、戦いはまだ続いている。

独立記念式典が示したもの

 ガトーヴィチ帝国がノイエクルス連邦からのヴォルネスク分離工作の帰結として、軍事力の行使を決定した判断には、合理的な推論のみによっては理解しがたい面があるが、そのような背景には、当時のガトーヴィチ政権与党である帝国発展党の、固有の民族観・スラヴ観があると思われている。

 一般にも良く知られているように、ガトーヴィチは長きにわたって君帝制を保持する君主制国家である。帝国発展党の掲げた「大スラーヴ主義」は、その名の通りスラヴ民族の単一性や優越性を挙げて、その連帯を目指したものだが、その中心には「君帝を保持する帝国」がある。「大スラーヴ主義」は、民族主義運動というよりも、帝国の国粋主義や権威主義に連なる、帝国主義的拡大戦略の名目上の役割を担う目的で考え出されたものと理解する必要がある。単に民族主義運動だと表現してしまえば、民族アイデンティティの確立を支援するものであるかのように解してしまうが、拡大戦略として見れば、フリューゲルの地域単位における自主性、アイデンティの完全な否定であり、すり替えなのである。このすり替えこそが、ガトーヴィチ・ヴェールヌイによるヴォルネスク分離に繋がり、今日のベロガトーヴィチの現状を形作る要因の一つとなった。

 今日、「ガトーヴィチ人とベルーサ人は完全同一民族である」として、その遺伝子学的根拠を示しつつ、ガトーヴィチ人とヴェールヌイ人の共通性や、ベロガトーヴィチ内のガトーヴィチ人との一体性を論じている書物や報道を目にする機会が増えている。これは筆者の考えからすれば「ヴェールヌイやベロガトーヴィチは、あたかも独立した国家であるかのような体をなしているが、実際にはガトーヴィチの一部である」と主張するに等しいものだ。

 結論を先取りすれば、ヴェールヌイやヴォルネスクのアイデンティティは、それぞれに脆弱なまま放置されてきた。後にその輪郭を形成し、支えることになったのがスラヴ民族観であり、それにもっとも貢献したのが、不幸にもガトーヴィチの大スラーヴ主義であった。


 104x年x月、ベロガトーヴィチ独立記念式典が、独立記念碑前広場で行われた。このとき筆者は澄み渡る青空の下で、ウラジーミル・ミハイロヴィッチ・ベロ=リーソフ公爵殿下や政府主席をはじめとする大公国要人、各国大使等とともに壇上に着席、式典を観閲していた。殿下による挨拶や勲章授与などが終わったところで、ベロガトーヴィチの歴史を振り返る動画が、会場の大型スクリーンに映し出された。そこに描かれたベロガトーヴィチの歴史は、6世紀後半のヴォルネスク・スラーヴ人労働者党が結成されるところから始まっていた。

 さらに、記念式典前日には「舌別瓦協力プラットフォーム」を開催し、ヴェールヌイによる開発主導の継続をガトーヴィチ政府に確認させると共に、反対にガトーヴィチからは、帝室とベロリーソフ家の権威序列関係があらためて示され、ヴェールヌイ政府がこれを確認させられた。筆者もヴェールヌイ政府を代表して出席したが、大公国成立以来、ガトーヴィチとヴェールヌイに焦点を当ててベロガトーヴィチが会議を開催するのはこれが初めてであった。その実、現在のベロガトーヴィチ政府に強い影響力を行使することが可能になったヴェールヌイ政府がお膳立てし、ガトーヴィチ政府の要望がそこにねじ込まれたものであり、主催であるはずのベロガトーヴィチ政府独自の存在感は極めて薄いものだった。

 これら一連の行事でベロガトーヴィチが内外に発することになったメッセージは、①今日のベロガトーヴィチは、ヴォルネスク・スラーヴ人労働者党結成という大スラーヴ主義による分離独立の上に成り立っていること、②ヴォルネスク地域、ヴォルネスク人による唯一の現存する国家として大公国がそれらを代表する正当性の誇示、そして、③ベロガトーヴィチの政治・経済・外交の基本はガトーヴィチとヴェールヌイのみに向かっており、決して独自路線に向かわない、ということであった。

 これらのうち、①の点がまさに、ベロガトーヴィチの国家としてのアイデンティティを象徴したものである。

 ヴォルネスク・スラーヴ人労働者党とは、ヴォルネスク内で結成されたヴォルネスク人による民族主義、親ガトーヴィチの反政府(=ノ連邦特別行政区)組織で、後にガトーヴィチが主導したスラヴ連合に名を連ねた。ノイエクルス連邦によるヴォルネスク統治の実態やヴォルネスク人の思いはともかく、ヴォルネスク・スラーヴ人労働者党はガトーヴィチにより支援された組織として、連邦からの分離独立派を代表した。

 現在の独立国家ベロガトーヴィチ大公国の成立過程を振り返るなら、組織の結成はその始発点かもしれないが、これはヴォルネスク史の一部でしかなく、ヴォルネスク人の長大な混乱と犠牲の歴史を表すには足らない。

 北ヴォルネスク共和国(ヴォルネスク社会主義共和国)や、ノイエクルス併合を良しとしなかった軍閥や独立政府を目指した北東ヴォルネスク(マーガベル共和国)、各国利害に翻弄された南西ヴォルネスク、それぞれの時代で血を流し続けてきたヴォルネスク人の歴史が顧みられていないのである。

スリョーズィナヴォールゲ

 1042年12月の夕刻、筆者はベロガトーヴィチ政府高官、ガトーヴィチ大使、3カ国の各種人権団体関係者等とともに、首都ベログラードの「スリョーズィナヴォールゲ・ジェノサイド博物館」前の野外で、ウラジーミル・ミハイロヴィッチ・ベロ=リーソフ公爵殿下の到着を待っていた。毎年、この場所でスリョーズィナヴォールゲ追悼式典が行われるのだ。

 スリョーズィナヴォールゲ(ヴォルガの涙)とは、ノイエクルス連邦施政下の北ヴォルネスクで発生した大飢饉及び伝染病蔓延等で多くの犠牲者が発生した事象を総称したものである。スリョーズィナヴォールゲについては実態や背景について議論があるが、少なくとも10年にかけて500万人以上の命が犠牲になったとされる。これはヴォルネスク独立戦争におけるヴォルネスク人犠牲者の数を優に超える。

 追悼式典は、スリョーズィナヴォールゲの責任が当時の支配者であるノイエクルス連邦にあり、重大な国家犯罪、ジェノサイドだとする立場にたって行われている。これはスラヴ連合が独立を扇動する際に、ノイエクルス連邦による圧政や迫害を主張したことに連続するものでもある。

 ノイエクルス連邦は、北ヴォルネスクの併合以後数年間、共和国時代に荒廃した国土復興を最重要課題とし、工業化のための物資供給を実施し、連邦軍を進駐させて治安回復を図ったが、自治政府はこれを適切に運用できず成長率は僅かなものに留まった。左派軍閥である救国軍人戦線が母体となり要職を占有した自治政府は、生まれながらに腐敗していたのだ。ノイエクルス連邦による北ヴォルネスク統治は、その本来の目的は別として、南西ヴォルネスクをはじめとする列国の介入事案と比較し、地域単位の自治を尊重した穏やかなものであった一方で、高度自治権の美名のもと地域の政治問題の根本から目を背けるものでもあった。

 スリョーズィナヴォールゲについては、その責任の所在のみならず、ジェノサイドとすること自体にも多くの議論がある。そもそも、ジェノサイドとは「特定の国民、民族、人種あるいは宗教上の集団を絶滅させる」ことを意図する行為であると定義される。当時のノイエクルス連邦や自治政府が、ヴォルネスク民族を殲滅させようとしたわけではない。

 しかしながら、ヴォルネスク人にとって、その責任が誰にあり、ジェノサイドと定義付けられるのか否かは問題ではなく、政治的混乱と不合理な収奪により、何十年にも渡って何百万人ものヴォルネスク人が犠牲になり続けていたという事実が重要なのである。

 上述の追悼式典において、ウラジーミル公爵殿下は短い演説の中で、スリョーズィナヴォールゲについてはその原因や被害の程度を巡って議論があることを認めた上で、いずれにせよ、どの研究も「何のためにという、たった一つの問いかけに対して答えを出していない」と述べていた。

 いくつもの病死者、餓死者の遺体が路上に放置されている中を、もはや驚きの表情さえ見せずに人々が通り過ぎている写真がいくつも公開されている。「何のためなのか」あるいは「なぜヴォルネスク人がこのような目に遭い続けなければならないのか」という問いは、ヴォルネスク全土で歴史を通して発せられたものでもある。同じ問いを「ガトーヴィチ配下としてのベロガトーヴィチ」を象徴するベロリーソフ家公爵から聞けた事に、筆者は深い感慨を覚えた。

ヴォルネスクの基礎 民族と領土

 ヴォルネスク地域の歴史は、ノイエクルス連邦への併合、ヴォルネスク・スラヴ共和国としての分離独立、ベロガトーヴィチ大公国成立といった5世紀後半から現在にかけての歴史より以前、4世紀の時点から常に分裂解体の危機にあり続けてきた。

 混迷極めたヴォルネスク全土の中でも、比較的国家機能が保たれたのがアンナ・セミョロヴナ・ラスコーリニコワが首班となって建国された北ヴォルネスク共和国であり、今日のベロガトーヴィチは北ヴォルネスクと概ね同一の領域を版図とする。

 ヴォルネスクは東スラヴ系の移民船団に起源をもち、移民直後のコミュニティとしての一体性は正教により担保されていたものの、主として派閥政争に由来する政治的不安定が地域における統一国家の成立を阻害した結果、4世紀末から5世紀にかけて北ブロックと南西ブロックに分裂している。しかし国家として一定の形が保たれていた北ヴォルネスクでさえ、政治不安定による貧困の連鎖を、ノイエクルス連邦併合による主権喪失まで、ただの一度も改善することはできなかった。

 当初北ヴォルネスクでは、正教主義政党が国権を握っていたが、重度の貧困問題から左派政治勢力が次第に台頭し、5世紀には社会主義共和国へ移行する。しかし、一時は統一政治ブロックを形成した左派勢力内での権力闘争とそれによる分裂が表面化するや、一部の暴力主義的軍閥の活動も相成り、経済状況は改善どころか悪化の一途を辿っている。歴史を通じて常に最貧国であった北ヴォルネスクは、社会主義国間の闘争においても地位を得ることができずに断続的な干渉を受ける立場となった。

 最終的に、左派軍閥のひとつであった救国軍人戦線が、ノイエクルス連邦を引き入れることによって地域内における権力を固めた。安定した政治権力の対価として外交主権を手放すほどに、派閥間抗争は凄惨を極めていたうえ、国民にそれを押し留める力はなかった。

 こうしたことから、統一国家はおろか地方単位でも安定した独自の統治主体を持てなかったヴォルネスク人とって、「領土」という地理的要素や「国民」という人的要素の双方について、そのアイデンティティの基礎たりえないという問題が生じている。今日の独立国ベロガトーヴィチの国家アイデンティティが、ヴォルネスク・スラーヴ人労働者党からはじまるのは、こうした問題によるところが大きい。

 筆者がベロガトーヴィチ在勤中、ヴェールヌイから来られた方からしばしば受ける質問の一つが、「我々とヴォルネスク人にはどのような違いがあるか」というものであった。質問者の言う「我々」はガトーヴィチ人とヴェールヌイ人であり、同じ東スラヴ人であるにも関わらず区別されたものとしてヴォルネスク人の定義を問うたものである。

 遺伝子学的に、ヴェールヌイ人とガトーヴィチ人は完全同一民族と括られてはいるものの、人類学的な分類としては、ヴォルネスク人は、ヴェールヌイ人、ガトーヴィチ人、ロシジュア人等とともに東スラヴ人に属し、言語的にはスラブ語圏に属している。さらに言えば、実際問題として、たとえばヴォルネスク人とガトーヴィチ人が生物学的あるいは人類学的にどう異なるかは、ほとんど問題にならないはずである。

 両者の区別は結局のところ自己認識、要するに人口動態的な調査において「あなたは自分を何人と認識しているか」という問いに対して、何と答えるかによって決まることだ。人類学的にどうあれ、自分がヴォルネスク人と認識するものはヴォルネスク人であり、ガトーヴィチ人と認識する者はガトーヴィチ人なのである。しかし、ガトーヴィチ人やヴェールヌイ人は、この定義を認めることが難しくなっている。彼らが遺伝子レベルの微細を問題にして、自らに東スラヴ人からさらに狭義の民族区分を設けるその根本は、その他の東スラヴ人との区別にこそ目的があるからだ。


 ベロガトーヴィチ大公国が成立して以後の北ヴォルネスクでは、政府機関による全国的な人口動態調査が行われていないので比較が困難なのであるが、こうしたことに勘定高いヴェールヌイ政府は、1006年3月の別舌協力条約の締結に前後して非公式ながら調査を実施している。その結果は人民議会の外交国防委員会で一部が披露されているのだが、99x年の第三次公国の復活時点でヴォルネスク人が57%、協力条約やガトーヴィチとヴェールヌイによるベロガトーヴィチ復興政策を巡る外相会談を経た1007年には62%となり、自身をヴォルネスク人と認識する者の比率が総じて高くなる結果が示されている。

 このことはガトーヴィチ人とヴェールヌイ人による介入が強まれば強まるほど、自身をヴォルネスク人と認識する人の比率が増えてきたこと、すなわちヴォルネスク人としてのアイデンティティを自覚する者が相対的に増えてきたことを示している。この現象の中に、ヴォルネスク人のアイデンティティが長い混乱の歴史、外国勢力の介入を経験する中ではじめて形成されてきたことの一端を見ることができるのである。

 ヴォルネスクは歴史上、現在のガトーヴィチやヴェールヌイだけでなく、ノイエクルス、レゴリス、ミッドガルド、シベリアなどいくつもの国々による直接又は間接的な介入を経験し、時にはその支配に服した。そしてそのいずれの支配に対しても少なからず抵抗してきたのであって、ヴォルネスク人のアイデンティティの形成と強化の過程は本来、こうした外国との抵抗の歴史で説明されるべきもので、ガトーヴィチやヴェールヌイ、つまりスラヴ関係によってのみ説明できるわけではない。しかしながら、特に近現代においてはガトーヴィチの支配力が圧倒的であったことから、今日のヴォルネスク人について言えば、逆説的ではあるが、そのアイデンティティの形成にもっとも重要な役割を果たしたのはガトーヴィチによる大スラーヴ主義の伝播と独立戦争、ベロガトーヴィチ成立と臣民化政策ということになるのである。

臣民化政策

 ベロガトーヴィチ大公国(第一次公国)成立以後、歴代のガトーヴィチ帝国政府は、言語を始めとするヴォルネスク固有の文化を否定する政策を一貫してとってきた。ノイエクルス連邦への併合からスラヴ国としての独立まで存続してきた自治組織は廃止され、ガトーヴィチ語が小学校の必須科目となり、北ヴォルネスクの正教会組織は自主管理協会として新コンスタンティノーポリ・イヴァングラート総主教庁下の一教区の位置付けとなった。そして公国化そのもの、すなわちヴォルネスク人によるベロリーソフ家をガトーヴィチのリーソフ家の分家として設定し、君帝制度の中での序列を決定づけて自らの君帝を最上位に置くことにより、あからさまな主従関係を確立した。これ以降、ガトーヴィチ人とヴォルネスク人は名実ともに対等の存在ではなくなったのである。

 これはガトーヴィチ側の視点にたてば、戦争という難産によって成立させたヴォルネスク・スラヴ共和国ですら政治経済的に改善することがなかった教訓を踏まえた処置であった。つまりノイエクルス連邦ヴォルネスク特別行政区にせよヴォルネスク・スラヴ共和国にせよ、ヴォルネスク人主体の直接自治は歴史上一度も成功しておらず、その原因が地域や政治主張ごとに分裂し抗争を続ける根深い派閥・軍閥文化にあることを直視した上で、典型的な対植民地向けの同化政策に舵を切ったのである。

 この臣民化政策は、様々な要因により成功を収めた。第一に、法律上は儀礼的なものであるにせよ、直接の国家元首をガトーヴィチ人すなわち君帝とし、ヴォルネスク人公爵家を通じての一貫した権力構造を構築したこと。これまでのヴォルネスクにおける政体は共和制を志向しており、またヴォルネスク人を頂点として高度な自治権が付与される等していた為、派閥・軍閥間闘争が国を荒廃させていたが、構造的に一掃された。第二に、そうした権力構造をヴォルネスク人が混乱なく受け入れる素地として、君帝が正教の最高指導者を兼ねていたこと。ヴォルネスクは、東スラヴのキリスト教(正教)信仰が歴史を通じて一定程度根付いていた。ヴォルネスク人独自の主権国家としては最も古い北ヴォルネスク共和国も、正教を軸とする宗教的一体性で国体が纏まった経緯があり、事実建国初期には正教主義政党が与党であった。5世紀末以降、正教組織として唯一安定して存在したガトーヴィチ正教会はフリューゲルにおける正教の主流を占めた。935年には正教的相互扶助を掲げて”神聖”ガトーヴィチ帝国に政治的にも制度移行するに至って、正教界での地位を高めている。正教の本国ともいうべきガトーヴィチの宗教的最高指導者を国家の長とすることが、ヴォルネスク人の抵抗感を大いに緩和したことは疑いようもない。

 もともと正教会においては国家と協会との関係が緊密で、各国の協会組織は独立していると考えられるのが普通である。ヴォルネスクにはもともとヴォルネスク正教会(自治独立正教会)が存在しており、これはノイエクルス連邦施政下でも変わることがなかったが、ヴォルネスク・スラヴ共和国として独立する頃、イヴァングラート総主教庁に事実上従属する立場となった。そしてヴォルネスク・スラヴ共和国がベロガトーヴィチ大公国へ移行するに併せヴォルネスク正教会はトモス(独立を認める証書)をイヴァングラート総主教庁に差し出すことで、名実ともに独立正教会としての地位を喪失した。
 以上により、ヴォルネスクは言語と宗教の両方において独立性を失った。


 第三次公国としてのベロガトーヴィチは、政治的に安定して今日まで至っている。第一次公国と第二次公国が立て続けに経済開発に失敗しても致命的な混乱は起きていない。また第三次公国を発足させるにあたっては、ベロガトーヴィチ内部から共和制回帰を模索する動きも見られたが、これを抑制したのは第三次公国を主導するヴェールヌイであった。ヴェールヌイの立場に照らせば、ベロガトーヴィチの共和制移行は、ガトーヴィチの影響力を大きく減じる事につながるはずであり、ガトーヴィチ政府もこれを大いに警戒していたが、現実にはヴェールヌイが進んで公国制維持を支持した。君帝制や臣民化政策といったヴォルネスク統治手法は歴史的に見て唯一の成功例であり、ヴェールヌイにしても泥沼化のリスクが付き纏うヴォルネスク政治を新たに構築する事は難しいと判断していたことが伺える。

 余談だが、第三次公国では正式に独自の国歌が制定された。第一次と第二次では正式な定めがないものの、儀礼的に君帝行進曲(Марш Императора)が演奏されていた。独自国歌の制定はヴェールヌイ主導のプロパガンダによく見られるものだ。新たな歌詞では血筋や神といった語句が用いられ、君帝家や公爵家そして正教を意識させる反面、メロディはヴォルネスク社会主義共和国国歌を復活させたものであった。意図に含みのあるこの国歌制定は、ヴェールヌイの求める第三次公国を端的に表しているといえるだろう。

拡大戦略

 現在のベロガトーヴィチの状況は極めて単純で、要するにガトーヴィチおよびヴェールヌイによる裁可の上で成り立っている統治である。

 事実上、内政を司る官庁がヴェールヌイ政府の直接指導下に置かれている第三次公国は、地域始まって以来の経済成長を続けており、貧困率は過去最低を記録した。両国関係のあり方の是非はともかく、このことは純然たる事実であり、ヴォルネスク人は生活面においても平穏な時代をはじめて経験している。筆者が在ベロガトーヴィチ大使を務めた期間に限れば、ベロガトーヴィチ政府との交渉(指示監督と言ったほうが正確だろう)は、大使館を介することがなく、こうした仕事は専ら工商計画省から派遣されてきた担当局長らのものだった。筆者らはこの担当局長のベロガトーヴィチでの生活を工面したり、儀礼上の業務を担当するばかりで、細かな詳細についてはわかっていないことを断っておきたい。しかしヴェールヌイの国際戦略という視点で見た場合、ベロガトーヴィチが重要な意味をもっていることは間違いのないところであろう。


 ヴェールヌイの国際戦略の基礎について少し触れておこう。

 特に安全保障という観点で見た場合、ヴェールヌイは一貫してSLCNに対抗し、その拡大抑止に心血を注いできた。体制黎明期にあったヴェールヌイは、その5世紀中盤において、エーラーンやエルツといった国々との海外資源獲得競争や、対既存社会主義・共産主義戦、対帝国主義戦、対宗教戦の流れから、SLCNへの対抗はヴェールヌイの安保戦略の基軸となった。そうしたヴェールヌイの立場に照らせば、ガトーヴィチは仮想敵国の一つである。BCATで限定的な安保関係を結んだ現在においても、この認識は大きく変わることがなく「ヴェールヌイにとってガトーヴィチは準仮想敵国である」という意識は、労働党や外務省内には歴然と存在している。

 またレゴリスやガトーヴィチ、普蘭などの列強大国に及ぶものではないが、ヴェールヌイは歴史的に見て常に拡大政策を実行してきた事は疑いようもない。内需偏重の経済モデルを維持する事で相対的に失われる国際に及ぼす経済的影響力を、支配的な影響が及ぶ他国を介して発揮しようとすることが、すなわち覇権主義的性格を帯びる事につながっている。フランドル地域やレゲロ地域に対するものはその代表例であろう。

 900年代に入り徐々に隆盛を取り戻しつつあったヴェールヌイは、956年になってから、ヴォルネスク独立戦争への介入が過ちであったと認定し、大スラーヴ主義を「偏狭なナショナリズムであり過去も未来も支持しない」という趣旨の声明を人民議会で採択している。ヴォルネスク独立戦争と大スラーヴ主義の当事者であったガトーヴィチを暗に批判しながら、同時に民族名であるベルーサ呼称や正教関連の規制撤廃を実施した。裏を返せば、ヴェールヌイが民族政策を強化するにあたり、その健全性をアピールする目的で、大スラーヴ主義批判を展開したということである。

 民族政策強化の目的がヴォルネスク(ベロガトーヴィチ)への再介入であることは論をまたない。ヴェールヌイはガトーヴィチよりも有能な指導国であることを常に示し、ヴォルネスク人の民意にのって主導権を得ようと腐心しているように見受けられるが、その土台はガトーヴィチの臣民化政策である。つまりヴォルネスク人を治める君帝家(ガトーヴィチ人)はベルーサ人であるから、ベロガトーヴィチにおいてベルーサ人はガトーヴィチ人と同じ支配人種であるという暗黙の前提を築いているのである。これはヴォルネスク独立戦争当事国としての自負もあろうが、石動のことわざ「人の褌で相撲を取る」ものであろう。

 中堅国として、それ以上の単体国力の増強を望めない本邦の現実に即した国際戦略は、常に悲壮なものにならざるをえない事実を、当事者として職務にあたっていた筆者としては認識しており、政府や党をことさらに批判する意図はない。政策が覇権主義的性格を帯びていると述べたが、その目的は覇権国になるためというより、むしろ列強大国から一定の庇護を受けつつも主権を維持する能力確保の為であり、このことは議会はもとより外務省や工商計画省の公開文書上でも度々言及されている。歴史上一貫してレゴリスやヘルトジブリールへの厚意を表明して憚らないのはこのためである。
 しかし、民族の同一性や序列を背景とした影響領域の拡大は、地域覇権獲得を目的とした政治思想としての大スラーヴ主義と本質を同じくするものであることは指摘しておかなければならない。建国以来の外交指針「相互対等」は綺麗事ではあるが、その堅持によって責任ある地位を築くことが国益確保の近道であり、本邦はそれを実践する為の人民の精神性と国力を十分に備えていると、筆者は固く信じている。

核心利益と被害者意識

 ヴェールヌイが対SLCNを安保基軸としていると同様に、ガトーヴィチの安全保障戦略の基軸はSSpact拡大への対抗である。ガトーヴィチが自国に有利な展開を考えたとき、WTCO内で大国としての地位を維持することでSLCNとの協力関係を繋ぎ止めることが大切になっている。この関係が閉じてしまえば、対SSpactという観点では大きく抑止力を失うことになる。そうした国際関係性の中で、近年のガトーヴィチを政治的にも物質的にも大国であり続ける事を助けているのがベロガトーヴィチであり、次にそのベロガトーヴィチを抑えつつあるヴェールヌイである。ところがヴェールヌイはガトーヴィチと友好関係にあることは間違いないものの、SSpact、特にはヘルトジブリールと一定の関係を維持し、BCATやベロガトーヴィチにおけるガトーヴィチ主導を減じてきた。特に重要な事象として、1028年の別舌地位協定発効によりベロガトーヴィチ領内にヴェールヌイ軍が駐留を開始したことで、ガトーヴィチがベロガトーヴィチを兵站として利用することが困難になった。経済的のみならず、軍事的にもガトーヴィチとベロガトーヴィチの分離が現実に進行しているのである。

 ガトーヴィチにとっての問題は、ヴェールヌイが例えば有事でSSpactやレゴリス帝国を支持し、さらにはBCATでロビー活動を展開して、政治的・軍事的なステイタス・クオ(現状)が覆されることである。したがってBCATが同盟理事国枠拡大決議に向けてリソースを割いていた近年までは抑制されてきたが、今後はガトーヴィチがヴェールヌイやベロガトーヴィチの双方に政治的圧力を加えることで「反ガトーヴィチ的」政策を変更させ、また軍事的にもSSpact側に通づる事を防ぐ必要性を感じて行動することは考えられる。

 ただし客観的に見て、ヴェールヌイの軍事力は一カ国を完全に支配下に置くには不十分であり、これを実現させる方向で軍拡又は諸外国との安保関係を拡大強化するという動きも意思もなく、ましてやSSpactに再加盟するという見通しは全く立っていない。またベロガトーヴィチの各行政機関の意思決定にヴェールヌイが関与できても、最高評議会ベロに対する君帝の権威に勝ることは難しく、ガトーヴィチが強硬策に出れば太刀打ちできるものではない。

 つまり実のところ、現状においてヴェールヌイはガトーヴィチの脅威ではない。したがってガトーヴィチとしては、ヴェールヌイに対し時間をかけて政治的圧力を加えつつ文化自由連盟のような非拡大路線の勢力を少しづつ増やし、チャンスが到来すればベロガトーヴィチにおける経済的イニシアチブを奪還するという段階的アプローチをとる選択肢もある。いずれにせよ、双方が表立って非難の応酬を行ったり、ましてや局地紛争に陥る可能性は極めて低く、ヴェールヌイもそれをよく理解している。


 ガトーヴィチ帝国は過去も現在も世界有数の工業規模を誇る大国であるが、ベルサリエーレ戦争やヴォルネスク独立戦争によりヴォルネスクを配下に収め、エルドラード条約機構結成を通して「反社会主義の盟主」として着実にその地位を固めつつあった600年代から800年代にかけて、実に巨大な存在であり、その拡張主義がしばしば話題になった。

 しかしガトーヴィチから見れば、拡張主義はむしろヘルトジブリールをはじめとする社会主義勢力と、それを事実上後援しているレゴリス安保勢力であって、自身の国際外交や軍事力は完全に防衛的ということになり、ガトーヴィチ自身はこれを確信していたに違いない。ガトーヴィチの主観的認識という意味において、当時も今も、これは正しいと筆者は思っている。

 つまり今日のガトーヴィチの国際戦略を推し量るには、ガトーヴィチにおいて歴史的に形成された被害者意識と背中合わせの強固な防衛意識があり、それがガトーヴィチをしてベロガトーヴィチを統制し、ヘルトジブリール等に攻撃的な態度をとらせる上での心理的なハードルを低くさせていると思われる。

 常に自分たちは外部から攻撃を受けるリスクに晒されていて、自身に優位な安保環境を整備しなければこちらがやられてしまう、という防衛意識と被害者意識は、813年戦争における決定的敗北でヴォルネスクを含む膨大な利権を失い、以降の国際秩序の中でヘルトジブリールやレゴリスに大きく後れを取ることになった現実の歴史に裏打ちされている面があり、仮に今後政権交代が進んでいっても、この認識が大きく変わるとは考えにくい。ガトーヴィチ指導部のほとんどの者が多かれ少なかれ同様の認識をもってることは想像に難くない。国際ジョークとして多用される「イヴァ核」も、彼らにとっては確信の証明に他ならないのである。

 900年代後半から1000年代にかけてのベロガトーヴィチ復興やBCATの同盟理事国枠獲得などは、ガトーヴィチにとっては本来有していたはずのもの、失地回復であって拡張ではないということである。先に述べた、ヴェールヌイがヴォルネスク独立戦争について、加害者としての認識を、意図的に利用していることとは対照的であるといえよう。

おわりに

 ヴォルネスクの歴史は、誰もが心の底では理解しながら口に出して言うには躊躇を感じる、いくつかの冷淡な事実を改めて認識させることになった。

 それはつまるところ、大国の植民地や衛星国としてしか存在を許されない地域や民族が存在するということ。大国と大国あるいは国家ブロックの狭間に位置する国の主権は、いかに確保されるのかという問題である。

 今日までガトーヴィチがベロガトーヴィチに対して突きつけている要求は、まさにガトーヴィチの経済に供し緩衝地帯にする、換言すれば支配下におくという戦略目標の達成であり、ヴェールヌイはガトーヴィチと同族国家である事を利用して自国の影響領域を拡大しようとする構図である。既成事実の積み重ねによって、ガトーヴィチやヴェールヌイは、それぞれに戦略目標を達成しつつある状況だといえる。これは今日の国家ブロック間の国力差を考えれば、相対的な安定を強固にすることにつながっているだろう。ただそれは、ヴォルネスクはじめ大国の衛星国という立場に甘んずる国家の犠牲の上に成り立つ安定ということに他ならない。

 結局のところ「力には力で対処できる」だけの政治的安定性と外交能力といったソフトパワーを備えているか否か、ということに尽きるのであり、自らがそうした「強国」になるか、あるいはその強国を含む集団体制の中に組み込まれるしかない。そして、現在の国際秩序を形作る、安保理を筆頭とした国連のシステムは、こうした動きに関与したり、解決したりする機能がないどころか、そうした強国自身又はその影響下にある理事国を通じて、一層助長されるに至った。国連システムの背後にある強国以外の「妥協」は、国々に不公正感を抱かせ、これは時を経るにつれて確実に蓄積されていく。不公正感は抑えても抑えても、溶岩のように流れ出すだろう。

 我々はこのようなプロセスを許し続けるのだろうか。国際の平和安定を学術的に論じるとき、衛星国や経済植民地と呼ばれた地域にも主権をもつ国々があり、そこには大国と同じ人間が住んでいて、自由を享受すること、家族をもって毎日を幸せに過ごすことを願うごく普通の人たちが暮らしていることを忘れてはならない。

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