主上、勅語賜る
事件発覚以来、解決に尽力してきた朝廷、幕府であったが国連安全保障理事会では大秋津国の責任問題が紛糾していた。
事態を見守っておられた主上におかれては、制裁措置を破ったことに対する遺憾の意、秋津弁護に努める友好国への謝意と贖罪、また秋津を含めた日本系民族の名誉を守る意を込めた勅語を発せられた。
朕󠄁惟フニ、瀬国ニ対スル国際的制裁ノ禁ヲ破リ諸国ノ協調ヲ乱シタルハ遺憾ノ極ミナリ
掛ル不祥事ノ始末ニ尽力サル友邦各国ニハ深ク感謝ト痛惜ノ念ヲ禁ジ得ズ、特ニ日本系諸民族ヲ代表シテ国際的信義ト名誉ヲ守ラントスル大石動帝国ニ謝シ奉ル
朕ガ忠良ナル文武諸官ニ置イテハ、失態ヲ省ミ過チヲ繰エ返サン事ヲ厳ニ命ズ
西園寺元大丞自害、関白近衛公辞職
天朝では、先帝安久皇王の勅令により死刑が廃止されて久しく、「終身の遠島」が最高刑であったが、西園寺元大丞に対する「より厳しい罰」を求める声が高かまっていた。関白近衛信裕公は「極刑やむ無しの意見も尤もである、然しここは一つ公卿としての面目を立ててやりたい」と自ら配所先の対島に赴き自害を言い渡した。西園寺卿は謹んて受け入れ古式に則り自害した。
近衛公は帰京後、「聖慮を煩わせた責任、日系民族そして石動の藤氏にまで名誉を貶めた責任を秋津の藤氏長者として取る。」と関白左大臣の職を辞し自ら蟄居された。
島津治部大輔切腹
治部省の島津治部大輔義治が佐妻藩邸において切腹したことが分かった。遺書には自らの監督不行き届きと勤皇家らしく皇王勅語が発せられる事態にまで進んだ責任を取る旨が記されていた。
治部省のトップである九条治部卿は辞職と出家を主上に願い出て認められた。
朝幕二重権力構造の是非
多くの諸外国を巻き込み、内外に波紋を広げた事件であったが特に海外からは大秋津国の政治構造を問う向きが多かった。
実際、国際図書館における情報開示も遅々として進まない現状を見れば秋津の政治体制は謎深く見えるだろう。
その統一の過程において、朝廷の権威、公家衆の人脈と交渉力が果たした役割に大きさから幕府は伝統的に公家衆を重んじ朝廷の行政機関に幕府の機構を合わせる政策を取ってきた。
その一つが、各省の長官と次官の関係である。
省の長官である卿は公家、次官の大輔は武家に任ずるという不文律が存在した。殆どの場合、公家の卿が自ら実務に当ることは少なく、武家の大輔が実際のトップを務めることが多い。しかし、時に自ら実務に当る政治力のある卿が着任した場合、方針が対立することがある。
今回の治部省の場合、幸いにして九条卿と島津大輔は協調して政務に当たっていたが、事件発生時、九条卿は香麗国宮廷で懇談中、留守を預かる島津大輔はインフルエンザに罹患して療養中であった。九条卿と島津大輔が責任を強く感じたのも頷ける。
今後、朝幕二重権力構造を如何に一元化していくか、そして部分的にとどまる臣民の登用、政治の民本主義(民主主義)化が大きな課題となるだろう。