メニュー 閉じる

超越という概念について

みなさんこんにちは、ロシジュアです。私の初アンソロジーとなる本稿におけるテーマは、ずばり「超越」。最近は私がぼーはこに参加してから復帰された方や、新規参加の方なども随分と増えてきましたゆえ、ここでロシジュアの代名詞ともなりつつある超越に関して、私なりの見解を述べていきたいと思います。

超越君主制の概要

 いきなり抽象的な字面ばかりを追いかけてもイメージが湧きにくいと思うので、フリューゲル史上初めて「超越」の概念が適用された例である、ロシジュアの『超越君主制』について論じたいと思います。

 全ての国の政治体制は、二種の体制に大別されます。君主制共和制です。国王や皇帝など、世襲の君主がいるなら君主制。逆に君主がいないなら、その時点で共和制に分類されます。フリューゲル諸国で例えるならば、神聖ガトーヴィチ帝国や大石動帝国などは君主制、ヘルトジブリール社会主義共和国やヴェールヌイ社会主義共和国は共和制ですね。では、本題の『超越君主制』とは何ぞや、ということで、まずはその成立経緯からみていきましょう。

 ロシジュアはもともと、多数の軍閥を平和的に統合した皇帝の下にある帝国でした。当然ながら、先ほどの議論に照らし合わせれば、この時点のロシジュアは君主制であるということになります。しかし850年8月、ロシジュアの首都で大火事が発生し、皇帝一家は行方不明になってしまいました。直ちに樹立された臨時政府は、帝国の今後の運営方針について判断を迫られます。ここで通常ならば、空位となった帝位を誰か別の人物が継承するか、もしくは帝位自体が廃止されて共和制に移行する、このどちらかの事象が起こると考えられます。

 ところが、皇帝が大好きだったロシジュアの民は、軍閥割拠の地獄絵図を終わらせ、ロシジュアの地に平和と笑顔を振りまいた皇帝が、もういないという事実を受け入れられませんでした。その結果、民衆は帝位継承も共和制移行も認めず、行方不明の皇帝がそのまま帝位に据え置かれたのです。その後も、ロシジュアでは行方不明のままの皇帝が制度的には生き続け、帝位を維持してきました。ここらへんの歴史詳細は、ロシジュアの歴史のページを見ていただけると分かりやすいと思います。

 では、問題です。ロシジュアの体制は、君主制でしょうか?それとも共和制でしょうか?もちろん君主は物理的に不存在ですから、その実質は共和制でしょう。皇帝の存在はあくまでも形式的なもので、政治は下部機関のソシアート(≒行政議会)が全て担っていますし…。しかしロシジュアの民は、間違いなく現行の体制を君主制だと信じているはずです。

 このように、ロシジュアの体制は君主制と共和制のどちらにも当てはまるような当てはまらないような、非常に特殊な体制であることが分かります。一応、純粋な君主制から進化したという点、法律で帝位の維持が規定されている点、ロシジュアの民が皇帝の在位を認識している点から、この体制が君主制に分類されると仮定して『超越君主制』と定義づけるのが、学会では一般的になっています。『君主がいない君主制』と形容されることもあります。そして、そのどちらの呼び方にも疑義を呈する専門家もいます。

 ロシジュア以外で超越的な政治体制を採用した国(?)には、代表的なものとして極圏超越主義連合があります。この国は提督が指導者の地位にある北海連邦(現在は既に滅亡)でクーデターが起きた際に誕生した亡命政権で、クーデターで命を落とした那賀野提督をなおも指導者として推していました。故人に指導者としての永遠の生を与えるという点では、ロシジュアの超越君主制に近いといえるかもしれません。また現在は解散済みですが、セニオリス超越的協同共和国は、社会主義と資本主義という相容れぬ統治思想の合弁を図るという、まさしく超越的パラダイムシフトと呼ぶにふさわしい主張をしていました。現在、セニオリス本国にて発足された超越同盟が、この考え方を継承しています。

超越君主制の位置づけ

 前述した超越君主制の立ち位置を図式化すると、上図のようになります。

 選挙君主制は難しい立場です。これは貴族による選挙で君主を選ぶという、君主制と共和制の掛け合わせのような体制です。地球史上だと、ポーランド=リトアニアなどが選挙君主制でした。君主は世襲するから君主なのであって、世襲でなく選挙で選ばれる指導者は君主ではありません(この原則を下手に崩すと、全世界の国が君主制ということになってしまいます)。原則に反して、世襲しない君主を持つ選挙君主制、これも超越的な君主制といえるのでしょうか。個人的な考えを述べると、選挙君主制というのは云わば君主制と共和制の折衷案に近いと思います。君主が世襲して権力を振るうのは嫌だけど、君主がいない共和制は正統性がなくてもっとイヤ。そんな思いから生まれ、存続した体制、それが選挙君主制ではないでしょうか。

 個人的には、超越を冠する体制には、何らかの理想に向かって突き進む推進力が欲しいところです。ロシジュアの超越君主制は、皇帝にいなくなって欲しくない、これからもずっと皇帝に傍らにいてほしいという、民衆の強い理想から生まれたものでした。これは貴族が自己保身のために利用するだけの選挙君主制とは全く違います。ある体制の支持者たちが、既存の観念の枠を超えた本当の理想を達成するために、跳躍を試みた。その成功例こそが「超越」なのではないか、と思うのでした。まる。

(退廃的な超越思想、というのもディストピア的でいいのかもしれない。ここらへんはより深い研究が必要ですね)

 超越君主制に関して一通りの説明が終了しました。この説明を通して、超越という概念が「既存の観念を超えた全く新しい理想、あるいはその実現を目指す体制や理論」を指すということが、薄々と理解できたかなと思います。

「超越」の語源

 そもそも、超越という概念が形成された経緯はどんな感じなのでしょう。超越という名称自体は、先に紹介したロシジュアの特殊な体制が確立した際に、一新された国名「ロシジュア超越的帝政ソシアート共同体(Transcendental Imperial Sociatic Commune of Ruszuah, ロシジュアTISC)」に含まれていた「超越」という文言に由来します。あれっ?さっきの図では「ロシジュア平和連邦」になってたじゃん!と思った方は、なかなか観察眼が良い。実は、あまりにも国名が長すぎて覚えられない、という苦情が相次いだため、すぐに簡略化されたという事情があったのです。

(PL的な話をすると、国名を変えてから「超越!?」とSlackがお祭り状態になり、私もなんだか恥ずかしくなってきたので、国名を差し戻したといういきさつがありました。しかし、まさかこの痛い国名が超越主義の源流になるとは…当時のSlackの皆様には、ある意味で感謝ですね)

 話がそれたので元に戻しますが、最初にロシジュアの特殊な体制ができた際、国名改新を由来にして、その体制を『超越君主制』と形容する表現が生まれたということです。そして、超越君主制に関心を抱いた知識人たちの間では、超越君主制から「既存の観念を超えた存在」という要素を抽出して、他の分野の思想概念にも適用させる動きが広まりました。その結果、一般化された考えとして生まれたのが「超越主義」。この主義が何を目的とするかは、今まで話してきたとおりです。では、超越主義の成立過程を俯瞰したところで、その多様性に着目してみましょう。

超越主義の多様性

 超越主義という思想は既存の思想と違い、特定のシンボルを有しません。例えば、上の図で挙げた共産主義のシンボル(鎌と槌)は、ソ連以外にも世界中の共産主義団体のシンボルとして通じています。鎌と槌といえば共産主義、というような反射的思考が可能なわけですね。なぜ共産主義のシンボルが世界的に使われたかと言えば、生産手段の公有化による万民平等という共産主義の理念が、世界中で一致していたからでしょう。もちろんレーニン主義と毛沢東思想は違いますが、基礎理念は共有しているので、同じシンボルを用いることができるわけです(中国共産党の党旗には、鎌と槌が用いられています)

 しかし、超越主義は違います。なぜかと言えば、ひとくくりに超越主義団体と言っても、各団体で超越のベクトルが違いすぎて対応できないからです。ヨウムのように何度も繰り返しますが、既存の観念を超えた理想を掲げていれば「超越主義」とみなされるので、超越主義はとにかく守備範囲が広いのです。

 例えば科学分野では、超越揺らぎの概念が提唱されています。これはゆで卵を電子レンジで温めると爆発するというような、既に知られている現象について再定義するもので、従来型の科学の常識に縛られない理論的捉えなおしを図る学説です。(簡単に言うと、ニュートン力学というバイアスを相対性理論が塗り替えたみたいな感じですかね…たぶん!) 実際に力学などの分野では新発見をもたらしているようで、今後に期待ですね。

 経済分野においては、ロシジュア国内有数のシンクタンク「超越総研」があります。上に示したのは超越総研のロゴマークです。シンクタンクというのは、様々な分野での研究を行って、必要な施策などを提言する機関のことですね。超越総研は既存の概念を超えた思考体系をモットーとし、制度の革新などの「超越的な政策提案」を行うことを至上命題としています。

 もちろん超越主義の出発点である政治分野においても、多くの超越主義的な体制構想が流布しています。また、ロシジュアの中務ソシアート第5代目代表のエレオノラ・コンポージナ氏はバナナとモロヘイヤを混ぜただけなのに滅茶苦茶おいしい「超越スムージー」を考案していますから、食分野においても超越主義の進出が顕著であるわけです。このように、超越主義は分野の分け隔てなくどこにでも出現する可能性を秘めており、その遍在さゆえに、特定のシンボルで表現することが困難なのです。

 逆に言えば固定化されたシンボルや教条・思想がないので、超越主義国家や団体はかなり弾力的な主義思想を採用することができます。もちろんシンボルも自由奔放といってよく、例えば先に挙げた極圏超越主義連合は以下のような謎のシンボルを用いています。(自分で描いといて何ですけど、なんなんだこれ…) 

 (このように、超越主義を標榜すると国旗などのデザインに幅が生まれるのでトライしてみよう!別に超越君主制を採用しなくても、別のベクトルで超越的な政治体制を築けば、それだけで超越主義国家の仲間入りだ!)

まとめ

 ここまで長々と話してきましたが、ぶっちゃけ私も超越についてはよく分かりませんし(!)、ここで示したのはあくまでも私の個人的見解に過ぎません。百人いれば百の超越があるのであって、超越の解釈には人それぞれ違いがあって良いと思います。このアンソロジーを読み、超越主義について何となくイメージを膨らませた後は、ぜひあなたなりの超越の在り方を探ってみてください。なんだかうまくまとまりませんでしたが、フリューゲルの皆様におかれましては、今後も健やかな超越ライフをお送りくださいませ。以上、ロシジュアでした。

関連投稿