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年表で学ぶトルキー史 かくして歴史は動いた

※本記事は貿箱アンソロジーです

トルキーの選挙報道に於いて頻出する「第四共和政」はフリューゲルにおけるトルキー史に関係した単語です。またRPとしては表に出てこないもののトルキーの政体変化構想に関し「第一共和政」「第二共和政」といった単語も使用される場合があります。これら単語の意味するところはなんでしょうか。これらが指し示しているトルキーの歴史を、年表を用いつつ紐解いていきましょう。

※注意 実際のゲーム上における行動がそのまま歴史となっているカルセドニー史と異なり、このトルキー史は後付けゲーム的には存在しておらず、後から容易に辻褄合わせ修正や追加がなされうる空虚曖昧な代物です。予めご了承ください。

フリューゲル殖民時代

旧世界からの航船出発からフリューゲルにおけるトルキー人初の国家建設までの前史は明確ではない。
当時は後世への記録継承等が一切重視されず、僅かに残されただろう資料等も軒並み後の内戦等で消失したため、研究材料事態が著しく乏しいためである。
唯一専門家の間での一致した見解は、旧世界からの航船出発時より概ね全トルキー人を包括する共同体組織が存在したこと、そしてその共同体組織において、旧世界における帝国皇帝との血縁が存在する人物が重要な役割を担い続けていたことのみである。

  • 5世紀後半:技術力の問題から最初から旧世界を「捨てる」前提で始まった殖民の全プロセスが完了したと伝えられる。
  • 500年頃:旧世界から移民期、殖民期と脈々と続く共同体組織を発展させる形で、旧世界から完全に切り離されたフリューゲルにおける国家としてのトルキー帝国が樹立。

トルキー帝政

正式名称は「トルキー帝国」
初代皇帝は旧世界での帝国帝室との血縁があるメスィフ1世。
帝国の成立時期には議論があるが、507年8月の帝国憲法成立を開始時期と採る学説が主流である。
帝国自体は皇帝やその親族が退位し内戦第一期が終わった571年まで続いているが、567年にはすでに皇帝の威信はボロボロだった。

領土には現在の西岸州独立自治区も含む。
首都はイスタンベル フリューゲルにおけるトルキー史上唯一の君主制国家。
憲法においては皇帝が主権を持つと定められ、帝国議会や内閣、裁判所は皇帝の名のもとに存在していた。
帝国議会は二院制で、上院は全議席が皇帝によって任命され、下院は皇帝の認める範囲で選挙が行われた。
裁判所は皇帝の名の下で司法権を行使し、内閣は皇帝が任命する宰相を中心に形成された。
成立後皇帝とこれらの機関がバランスを取りながら国家運営が行われてきたが、551年のイドリース1世のときに皇帝の権利が重視されて関係性は大きく変化した。

皇帝在任
1メスィフ1世507年~531年
2メスィフ2世531年~551年
3イドリース1世551年~562年
(摂政)(アッバス・アルカン・チェレビ)
4メスィフ3世566年~571年
  • 507年:メスィフ1世主導において「トルキー帝国憲法」が成立。帝国議会の設置や宰相の任命、裁判所設置などを定め国家の体制を整える。
  • 544年:社会民主党結党。様々な遷移を経ながらも帝政期から第四共和政の現在まで連続性を保ち続ける唯一の政党である。
    なお帝国議会での最大獲得議席はメスィフ2世の治世最後の選挙における3議席だった。
  • 551年11月:『立憲帝』メスィフ2世の崩御によりイドリース1世が即位。貴族との結びつきが強く、時に父であるメスィフ2世にすら批判を展開した彼の即位には当初より懸念の声があった。
  • 551年12月:イドリース1世は自由党出身の宰相の解任を断行し、保守的共同体メシェルティエトから宰相を任命。
    自由党を始めとした議会内の民主派の抗議に対し「かく、民主主義は世迷い言との証左である」と話し、帝国議会の選挙制度をさらに保守派が有利になるよう変更。以降帝国議会は著しく存在感を失う。
  • 554年1月:帝国議会は宰相や帝国議会の権限をより制限し君主権限を強化する「554年憲法」を公布。
    帝国は帝室及び貴族が一層優遇される時代となるが、イドリース1世自身の政治知識は十分なものとは言えず社会は混乱していく。
  • 559年10月:”宰相の反逆”を口実にイドリース1世は帝国憲法を停止。帝国議会は閉鎖され専制政治が試みられる。
    これは子息が帝国議会議員であった『冷酷官』エクレム・デミレル・パシャ元帥の反対により撤回されるも、帝国憲法は宰相と帝国議会権限を事実上形骸化させる「559年憲法」へと修正される。
    ストッパーを完全に失った知識の不十分な皇帝の専制政治の元、社会の混乱はより一層増すばかりとなった。
  • 562年8月:暴走し続ける皇帝に当時のルステム・アル・ベイ教育大臣の怒りが爆発。
    外遊中に持病の発作を装って公然の目の前で大逆を起こし、皇帝は意識不明の重体となる。
    大逆を行ったアル大臣はすぐさま拘束されその後「皇帝の名の下で」処刑された。(その後第一共和政にて名誉回復が宣言される)
  • 562年10月:懸命な治療がなされるも、回復することがないままに皇帝は死んだ。ち~ん(笑)
    イドリース1世には直系の息子がいなかったため後継者問題が勃発する。慎重な議論の末、次期帝位継承資格者はメスィフ・アタテュルキ・チェレビ(メスィフ3世)とアフメト・アタテュルキ・チェレビ(アフメト1世)に絞られた。
    ところがこの2人は頑固者で権力に植えた亡者だったためにお互いが一歩も譲らずに論争はエスカレートしていき、対立資格者の支持切り崩しのために自らの支持者を扇動しあうというとんでもない事態に発展。4年に渡る継承者”戦争”が発生した。
    その間皇帝の位は空位となってしまい、皇帝の役割は摂政が代行していた。
  • 566年11月:終わりが見えなかった継承者争いはアフメト・アタテュルキ・チェレビが突然死したことにより突然終結。メスィフ3世が正式に皇帝に即位した。
    しかし一連の問題の性質から国民の帝政への信頼は崩壊し、また継続するブルジョワ階級優遇の政治に社会混乱は増す一方であった。
    そこへ共和主義や社会主義などの思想の台頭も重なり、帝政打倒の運動が生まれ急速に拡大していくこととなる。
    自らの権力が多少でも失われることをよしとしないメスィフ3世はこれら運動への弾圧を決定する。
  • 567年2月:皇帝誕生日に行われたイズマルにおける皇帝退位要求デモに対し、皇帝は激怒し「全員血の海に沈めてやれ」と指示する。
    日々増え続けるデモ参加者に対して軍はこれまでとは比にならない対処を行い、多数の死者や負傷者を生み出す結果となる。
    この事件以降、反帝政派は武器を持って各地で立ち上がりはじめ、王朝打倒の動きが一気に内戦へと発展した。

トルキー内戦(第一期)

567年の帝政打倒運動から571年の皇帝退位まで4年ほど続く一連の戦闘。王朝が倒れ後に共和制国家が建設されたことから「トルキー革命」とも言われる。
帝政打倒を目指す勢力と帝政の堅持のため戦う白軍による争いであり、帝政を打倒する勢力は最終的には社会主義者や自由主義者から民族主義者や無政府主義者までも含んでいた。
場合によっては4年続いた継承者争いを第一期とする場合があるが、一般的ではない。
最終的に571年に反乱軍が宮殿を占領し、皇帝やその親族に退位を迫ったことで帝政は崩壊。反乱軍が勝利を収めた。
この時の反乱軍の指導者達が中心となりトルキー第一共和政が成立した。

  • 567年2月:イズマル県での事件を受けて反帝政派は各地で武器を持ち蜂起。これを機に帝政打倒運動は内戦の様相を見せる。
  • 567年5月:反乱軍側が「トルキー国民議会」を結成。以降反乱軍側の中心的な存在となる。
  • 567年中期:この頃皇帝はブルジョワ階級難民と共に西岸州地域ユセクタンル州へ避難するが、現地総督の意向により「皇帝の安全を確保する」との名目の下西部属藩連合州(現・開拓自治州)のトルキマーン島アクユルディズ宮殿に軟禁される。
  • 567年12月21日:西岸州での情勢悪化(第1次西岸州動乱勃発)に伴い皇帝は軟禁を解かれイスタンベルにある宮殿に一時的に戻る。
  • 567年12月28日:皇帝の帰還を受け帝国議会では僅かに議席を持っていた自由党により立憲君主制へ移行し帝政崩壊を回避しようとする「567年憲法」草案が提出される。
    草案は国民議会を禁止とする法案と抱合せのギリギリまで譲歩されたものであったが、出戻りしたばかりのメスィフ3世はこれを握りつぶし、逆に国民議会へ自由党員が参加していることを根拠に自由党の議席剥奪を決定する。
    ここで自由主義・民主主義と帝政の間の隔絶は不可逆的なものとなり、当時の二大民主主義政党であった自由党と社会民主党は本格的に帝政打倒を志向することとなる。
  • 568年5月:反乱軍側がアンカラを奪取。同時に国民議会の拠点も移され反乱軍の活動の拠点となった。
  • 569年後期:国民議会が「トルキー共和国」の憲法草案と白軍との和平案を採択。しかし帝国側はこれを認めず、和平はお流れとなった。
  • 570年後期:白軍最後の拠点となったイスタンベルの攻囲が開始。2ヶ月以上に渡る攻囲の末ついに白軍が投降し、国民議会側の勝利となった。
    同日反乱軍の監視の元、皇帝やその親族の退位が実現。こうしてトルキー帝国は滅んだ。
    元皇帝やその親族らは再び西岸州へ移動し、現在でもトルキーの帝位を請求している。

トルキー第一共和政

正式名称は「トルキー臨時政府(571年前期~中期)」「トルキー共和国(571年中期~崩壊)」。
トルキー帝国が滅んだ後に建国された民主制国家。
しかし近代的なシステムをとっていたものの、細かい部分においては地方地主の抵抗などで旧時代な制度が完全に撤廃できたわけではなかった。
またこの国家にとって運の悪いことに、4年の内戦でさらに土地が荒れた結果国民の間ではより急進的な思想が広まりつつあり、建国の時点ですでに内戦寸前の危険な水準にあった。
それでも選挙を行わなければ直ちに内戦になるだろうとの判断により、571年中期頃最初で最後の選挙を実施。
結果は社会主義勢力と右翼独裁勢力が議会を割拠する悪夢の情勢となった。
この状態で国家がまともに運営できるはずもなく572年に入る前に再び内戦が勃発。あえなくこの国は崩壊した。

首都はアンカラ 共和制国家であり、元首は大統領となっている。
議会は国民議会の流れを引き継いだ一院制のものであり、普通選挙によって議員が選ばれた。
出馬に関しては政党の縛りなどはなく、フリューゲルでのトルキー史上において最も自由度が高かったと言われる。
大統領は行政府の長とされ、大統領の任命によって内閣が組織された。
初代大統領を除いて大統領も選挙で選ばれる予定だったが、実施されぬまま内戦へと突入してしまった。
裁判所施設は帝政時代を引き継いだ。共和制移行に伴って司法権は法の下で行使される一般的システムとなった。

大統領所属政党在任
1アミル・シャヒーン自由党571年
  • 571年前期:帝国の崩壊により国民議会が中心となってトルキー臨時政府が成立。
    またトルキー共和国の憲法草案がまとめられていき、大筋においては国民議会の間で全会一致の合意を得た。
    しかし社会保障の面について有力な政党の一角だった社会民主党の強固な主張により大きく意見が分かれ、また大統領の権限の範囲などにおいては激しい論争が繰り広げられた。
    その為即座の憲法制定には至らず、公布・施行についてはおおよそ3ヶ月ほど待たねばならなかった。
  • 571年中期:社会保証面については棚上げされたものの、大統領の権限について大筋の合意を得たため、トルキー共和国憲法が公布された。
    またこれと同時に初代大統領が就任し、立法府も国民議会として成立。正式にトルキー共和国が成立した。
    来たる第一回国民議会選挙について、国内情勢の悪化から大統領権限によっていきなり議会を停止することが検討される。
    「今議会を停止したら直ちに内戦になる 避けられる可能性がある方に賭けたほうがいい」という大統領の考えに基づき第一回国民議会選挙は予定通り実施された。
    結果は上述の通り議会は左右の急進派が割拠する状況となった。
    大統領は与党自由党、中道右派の秩序党、中道左派の社会民主党での穏健連立を構成し急進派の主導権掌握の回避を試みるが、社会民主党の党内情勢や憲法制定過程に起因する右派左派の軋轢、さらに閣外の急進派両派からの激しい突き上げにより著しく不安定な政権運営となる。
  • 571年後期:不安定な政情に加え、大統領が急進派のどちらにも属さない自由主義者であったことも拍車を掛け、極左・極右の政治勢力、そして国民の不満は溜まる一方となった。
    軍部はあまりにもひどい国家の状態に業を煮やし、クーデターを実行。これによって共和国憲法が停止され第一共和政は滅んだ。
    分断を抱えたまま各地では社会主義や右翼独裁のそれぞれを支持する軍人や民兵が対立を深めていき、統一国家の形成交渉にも失敗してそのまま内戦へと突入した。

トルキー内戦(第二期)

571年後期の第一共和国崩壊から587年の第二共和国成立まで16年ほど続いた一連の戦闘。ここを持ち社会主義共和制が確立されていったとの観点より「トルキー572年革命」などと呼ぶ場合がある。
社会主義国家の建設を目指す勢力と民族自決や右翼独裁を訴える勢力による争いであり、トルキーにおける社会主義勢力の優勢と極右勢力の死亡が確定した内戦である。
16年も続いたこの内戦は最終的には社会主義勢力の勝利ではあったが、民族自決の意識は各少数民族に残り続け後にトルキー人の頭を悩ませる事となる。
長期に渡る内戦ながら、アンカラなど主要市街での戦いは少なかったことから被害は第三期内戦よりは小さかったとのイメージがなされることがある。
一方で一部の研究では内戦前後の人口推移等より被害程度はどの地域でも第三期と大きな差がない(=どちらも相応な被害が出た)とも言われ、いずれにしても国土が荒廃し大きな損害が出たことに相違はない。

  • 572年1月:共和国憲法停止による第一共和国崩壊に伴い、左派勢力・右派勢力は共に”革命”を掲げ行動する。
    社会改革党、左翼統一労働党、共産党、トルキー労働者連帯委員会、トルキー・アナーキスト連盟からなる左派勢力は「統一人民戦線」を形成。
    一方の国粋人民党、イスラム原理党、反欺瞞主義党、クルディア民主党、アルミニア独立連合からなる右派勢力は「国家結束行動」を形成した。
    穏健派の中央政府の瓦解と急進両派による国家二分の事態に最初期の情勢は非常に入り組んだ情勢となった。
    また少数民族勢力の右派合流に伴い、第一次動乱中の西岸州においては社会主義革命勢力と独立勢力により形成されていた西岸州臨時連邦政府が瓦解した。この復活は589年にまでズレ込み、西岸州では第一次動乱長期化の要因の一つだったと振り返られることがある。
  • 572年3月:それぞれの支持基盤を元に、都市部を左派勢力が掌握し、対抗する右派勢力が郊外地域及び少数民族地域を掌握する構図が概ね確定する。
  • 573年10月:社会民主党は左派派閥主導で行われてきた統一人民戦線との交渉に基づき、「民主主義の尊重」を条件として統一人民戦線への参加を表明した。
    急進左派との印象が根強く都市無産階級以外への浸透に苦しんだ統一人民戦線側、当初のままではどちらに転んでも急進的政府が発足してしまうことを恐れた社会民主党側の双方の意向が一致した格好だった。
    しかし社会民主党は党内及び支持団体の混乱が冷めやらぬままで団結力に著しく欠いた状態となっており、党として成し得た仕事は身内を宥めることのみに等しかった。
    一方この時社会民主党側が突きつけた条件は統一人民戦線の新国家構想に大きな影響を及ぼしたと言われ、これが最終的に統一人民戦線勝利に結びついたとの分析もある。
  • 575年12月:国家結束行動は基盤地域での左翼活動家弾圧を概ね完遂させ、「トルキー主権連合」及びそれらを構成する「トルキー主権国」「大クルディア民族共和国」「アルミニア民主共和国」の憲法草案を公表した。
    右翼独裁の色を強く取り入れつつも、同じく国家結束行動を構成する民族主義者への配慮として分権を行い、さらに同時期に第一次動乱下にあった西岸州における「アルミニア民主共和国」「西岸州クルディア民族共和国」の吸収も狙った内容であった。
    一方の統一人民戦線は対抗し「トルキー共和国」憲法草案を発表する。571年当初見られていた左翼独裁の方針から一転し第一共和政をベースとした方針を公表し関心を呼んだ。
    この憲法草案に対する支持によって郊外地域における国家結束行動の支持が揺らぎはじめ、以降右派勢力は劣勢となっていく。
  • 577年6月:国家結束行動基盤の一つであったコンヤにて統一人民戦線支持の労働者による一斉決起が発生。
    コンヤに依存とまで言える基盤を置いていたイスラム原理党はジハードを宣言し決起集会に強い弾圧を加えるが、穏健派聖職者らが決起側に寝返る意向を見せ始め鎮圧に失敗する。
    またイスラム原理党代表に関するスキャンダルを暴露する怪文書が出回ったことで同党は内紛状態に陥り、決起に合わせた統一人民戦線側のコンヤ侵攻に伴って党組織が消滅する結末を迎えた。
    この党の崩壊をもってトルキーの宗教勢力は以降完全に影響力を喪失し、国家結束行動は国威高揚の柱と考えた一つを失うこととなった。
  • 580年:第一次西岸州動乱における独立勢力と国家結束行動との交渉が破談する。
    西岸州においていまだ勢力を有する白軍の臨時全トルキー政府に対する共同戦線構築の要求に対して親帝政的な国粋人民党が認めず、また最終的に「トルキー人への従属(タタールの軛)」に戻りかねない新国家構想に独立勢力内部からも異論が噴出したためといわれる。
    以降西岸州動乱の独立勢力は国家結束行動を見限り、社会主義革命勢力(統一人民戦線→トルキー第二共和国)に再接近することとなる。
  • 585年後期:支持拡大に失敗し縮小していく国家結束行動に少数民族勢力が見切りをつけ独自行動を開始する。
    クルディア民主党、アルミニア独立連合は無断でそれぞれディヤルバクラ、エリジラムにおいて「大クルディア民族共和国」、「アルミニア民主共和国」の”独立宣言”を行った。
    しかしトルキー地域の一体性を重視する国粋人民党はこの独立宣言に激怒し、少数民族地域に兵を向け国家結束行動は内紛状態に突入する。
  • 586年中期:国粋人民党が戦線離脱し、第一次西岸州動乱における白軍への合流を決定する。
    国家結束行動に残る唯一の影響力あるトルキー人政党となった反欺瞞主義党は個人崇拝的な色を盛り込んだ「トルキー主権国」憲法草案を打ち出すが、これに伴い支持者をますます失う事態となった。
  • 587年前期:カリス県に置かれていた反欺瞞主義党の党組織が壊滅。
    また基盤地域内の赤色テロ及び国家結束行動での内紛に疲弊したクルディア民主党、アルミニア独立連合が軒並み降伏し、第二期内戦が終結する。
    右派支持の一部は西岸州へと移動するが、現地もまた動乱の真っ只中でありその後は明らかではない。
  • 587年中期:第二期内戦における勝者となった統一人民戦線は575年12月に公表された「トルキー共和国」憲法草案の最終調整を図る。
    概ね第一共和政をベースとしながら、選挙出馬可能な政党について制限をかける方針が確認される。
    当初の予定では選挙出馬可能な政党に直接縛りを明記する方向性が検討されたが、穏健派の提起により「共和国の信念に基づく~」のような表現に留められ、別個で信念を「労働者の地位・権威向上を追求する」と明記する方向性に変更された。
    また第一共和政において政局の急激な変化による形骸化という結果を生んだ大統領制の導入が見送られ、内閣総理大臣が元首機能を吸収することとなった。

トルキー第二共和政

正式名称は「トルキー共和国」。
内戦で勝利した社会主義勢力が587年に建設した共和国。
選挙制度や議院内閣制など第四共和政前期の政治システムの原型となった。
行政や立法の構造は第一共和政を模倣して作ることが目指されたが、大統領制導入が見送られたことで内閣総理大臣が元首機能を吸収した。
選挙は「第二共和制の追求すべき信念に照らし合わせ妥当と判断される政党」のみ出馬が認められていた。
この信念は憲法により「共和国は、労働者階級の権威及び地位向上を祈念し~」と規定され、結果としてサンディカリスト、社会主義者、共産主義者などが議会の議席を争った。

成立5年ほどはトルキーは平和そのものであったが、592年に議会で経済政策を巡りサンディカリスム勢力と社会主義勢力の間に対立が生ずると一気に情勢は不安定化する。
さらに政情不安が続く中で燻っていた少数民族の民族意識が独立宣言などの形で暴発し事態が悪化。議会解散や内閣総辞職を繰り返すなど混乱が続いた挙句594年にとうとう内戦に発展してしまった。
こうしてようやく取り戻されたかに見えた平和はあっけなく崩れ去り、また凄まじい内戦に発展するのだった。

領土には590年以降は第一次西岸州動乱終結に伴い大幅な自治を認める形で加盟を決定した西岸州も含まれたが、594年の第三次内戦勃発に伴い同地域も第二次動乱に突入し再び別行動となっている。
首都はアンカラ 共和制であり、元首は内閣総理大臣である。
議会は国民議会であり、一院制である。内閣総理大臣は議会の任命によって選ばれ、議会の信任に基づき内閣を組閣する。
裁判所は施設や構造等第一共和政から多くの物を引き継いだ。イスタンベルに最高裁判所が置かれた最後の時代である。

内閣総理大臣所属政党在任
1ハムゼ・エルゲン社会改革党587年~590年
2ハシム・バラミール革新党590年~592年
3イスメト・チェリク革新党592年
4イドリース・デミレル労働組合党592年~593年
5ファルク・デュラン革新党593年
6ハーミト・セネル革新党593年
7アリ・セキ社会民主党594年
  • 587年中期:トルキー共和国憲法が公布され、トルキー第二共和国が成立する。
    また裁判所や議会も復帰し、統一人民戦線はその役割を終えたとして解体した。
    第1回議会選挙は社会主義の社会改革党が比較第一党、サンディカリスムのトルキー労働者連帯委員会が比較第二党、事実上最穏健派の立場となった社会民主党が比較第三党となる結果だった。
  • (以下、誠心誠意後付執筆中…)

トルキー内戦(第三期)

594年の第二共和国崩壊から600年の第三共和国成立まで6年ほど続いた一連の戦闘。
サンディカリスト勢力と社会主義勢力、さらに少数民族による泥沼の争いであり、最終的にアッバス・アタイズィによる独裁政治が成立した。
当初は20年以上に渡る激戦が予想されていたが、サンディカリスト勢力から社会主義勢力への離反が相次いだ結果トルキー人同士の争いは比較的早期に終結した。
しかし少数民族との争いでは相次ぐゲリラ戦闘が社会主義勢力を悩ませ続けた。
さらに最終的に横暴な独裁者が権力を掌握してしまった結果、この時の社会主義勢力からも更に民主主義を要求する勢力と左翼独裁を志向する勢力が枝分かれしてしまい、後の火種が増えてしまった。

  • (以下、誠心誠意後付執筆中…)

トルキー第三共和政

正式名称は「トルキー社会共和国」。
内戦で勝利した社会主義勢力が当時のリーダーであるアッバス・アタイズィを筆頭にした独裁政治を敷いたもの。
この体制は現在でも強く批判されており、成立したばかりの第四共和政でもアタイズィ体制が公然と批判される場面があったなど失敗として見られている。
独裁政治となっているのは第二共和政の失敗の理由が限定的とはいえ民主主義を導入していたからとされたからである。
この共和国は604年まで4年ほど存続していたが、街では明らかに人道に反する方法で公然と粛清が行われるなど国内は著しく重苦しい雰囲気が漂っていた。
最終的にアッバス・アタイズィがアルミニア人によって暗殺されたことによって強引にまとめられていた国家が再度分裂し滅んだ。

首都はアンカラ 共和制であり、元首は大統領である。
行政府は大統領補佐団、立法府は人民議事堂百十数名の政治委員(社会党員)からなる国家評議委員会、司法府は裁判所である。
第三共和政の特徴として、元首が行政府の長のみならず、立法府である国家評議委員会に対し議席配分の決定など非常に強い権限を持ち、
更に司法府である裁判所に対しても全裁判官の任命権など非常に強い影響力を持ち、政治犯に関しては超法規的措置も厭わない特別人民裁判所で処遇を決定していたことがある。
これによって大統領は非常に強力な権限を持つこととなり、国家の混乱に際してもすぐに対処ができる体制となった。
しかしあまりに強力な権限はそのままあまりに強力な制圧体制へと繋がり、却って国家を深刻に疲弊させることとなってしまった。
また国家評議委員会についても形式上は大統領補佐団と別れてはいるが、実際には大統領補佐団の提案や意向をそのまま可決させるほとんど意味のない組織と化していた。
アタイズィの決定に対する反対意見は一切出ない状況であったが、アタイズィの元で働いていた人員の全てがアタイズィに心からの賛意を表していたわけではない。
事実アタイズィ暗殺の報を受けた際には多くの関係者が寝返りを見せた。これにはアタイズィ自身の疑い深い性格によって対外関係が希薄であり、多くの人物は「敵視されない」ために動いていたことが一因として挙げられている。

大統領所属政党在任
1アッバス・アタイズィ社会党600年~604年
  • (以下、誠心誠意後付執筆中…)

トルキー内戦(第四期)

「もし609年にメフメト・セキが居たならば、第四次内戦は5年で終わっていただろう。」
―――セリーム・オナト第18代社会民主党党首(591 – 652)

「歴史に『もし』はない。我々に出来ることは繰り返さないことだけだ。」
―――イブラヒーム・アイクル第2代トルキー第四共和国内閣総理大臣(613 – 691)

604年のアタイズィ体制崩壊から631年の第四共和国成立まで27年ほど続いた一連の戦闘。
概ね第三共和国での権力者狩りの情勢を呈した前期、社会主義勢力と社会民主主義勢力と少数民族の三すくみの戦いとなった後期に分かれる。
後期における社会主義勢力は「労働者評議会」、社会民主主義勢力は「民主主義連合」に再編されている。
国内は相次いだ粛清の嵐によって大混乱に陥っており、各勢力ともに統制が乱れる状況が続き内戦の長期化の一因となった。
繰り返された内戦の中では犠牲者がトップクラスであり、この間に国政を担っていた重要な各施設や貴重な文化財が破壊されるなど損失も大きい。
最終的にクルディア人が労働者評議会側と協力体制を築き上げ、泥沼の情勢を打破し労働者評議会の勝利で内戦が終結した。
しかし最終的には労働評議会の勝利で終わったものの、その後建築された第四共和政はメフメト・セキの決断により民主主義連合との折半案のような体制になっており、主に第三共和政が完全に滅んだ609年からの22年間の戦いを指し「何もなかった22年間」と揶揄されることもある。

  • 604年3月12日:アッバス・アタイズィ暗殺の報を受けて最初に動き出したのは軍部の人間であった。報を受けたムスタファー・テミルジ元帥は大統領補佐団から発せられる戒厳令を待たずして直ちに戒厳体制を敷き、国内でのあらゆる動きに目を光らせようとした。
    しかしこの独断の戒厳体制の電報を受けた将官らの一部はアタイズィへの何らかの不慮だと察知。特にフスレウ・チャクル大将はこの電報を握りつぶし、共にしていた十数名の部下を引き連れ電撃的に人民議事堂を占領した。これにより暗殺の報を知らされていなかった国家評議委員会に出席中の政治委員らもアタイズィへの不慮を察知した。
  • 604年3月13日:少し遅れ大統領補佐団が原因を伏せる形で戒厳令を発令する。しかしあまりに不自然な形での戒厳令に国民の多くが政治の何らかの形での大混乱が起こったと察知。特にアンカラでは戒厳体制にも関わらず「悪魔は去った」といった怪文書が出回り、暴徒と化した市民らが人民議事堂を包囲するという大混乱が起きた。
    これを受け内部で立てこもっていたフスレウ・チャクル大将は数名のアタイズィ体制に批判的な政治委員を引き連れ独断でアタイズィの死去と国家評議委員会の解散を宣言。これを聞いた市民らは更に盛り上がり、一部には人民議事堂へ立ち入ろうとするものも出るほどだった。
  • 604年3月14日:アンカラ市街での大混乱に大統領補佐団は危険を回避するためイスタンベルに移動し、大粛清の担い手だったルトフィー・バジェオウル国家保安大臣を臨時の大統領代行に任命。またムスタファー・テミルジ元帥を呼び寄せ事態の鎮圧、また暗殺事件後も何事もなく第三共和国を存続できるよう作戦を練った。一方同時刻にはアッバス・アタイズィ暗殺を知った体制に批判的な市民や政治家、軍人らが続々と人民議事堂付近に集結しはじめ、最終的には宣言から僅かな時間にも関わらず50万人以上の人員が集結した。
  • 604年3月15日:この日より少数民族の活動が活性化した。アルミニア民族公正組合は第三共和制の終わりを告げるビラを配布し地方議会前でのデモ行進を展開した。また大クルディア民主党はクルディア人へ独立闘争再開を呼びかけた。
  • 604年3月16日:少数民族による地方の危機を尻目に大統領補佐団は14日より練られていた鎮圧作戦を決行。人民議事堂にて大規模な銃撃戦が勃発し、双方合わせ15万人以上の死傷者が生じる大惨事となった。(アンカラ血の海事件)しかし銃撃戦の過程において鎮圧部隊の寝返りが生じたことにより鎮圧は失敗する。この事件は強力な報道規制にも関わらずまたたく間に広がっていき、各地で暴動や反第三共和政デモが起こりはじめた。戒厳令の中であったが、現地で警戒する兵士らはそれを黙認、或いは参加した場合もあった。
  • 604年3月20日:銃撃戦により血の海と化したアンカラでは反乱勢力の再編が進められ、生き残った社会党員らは現地で急遽党大会を開催し、社会主義の闇鍋状態だった社会党の解党を宣言した。また人民議事堂では第三共和政崩壊後の新政府を見据えた「共和国評議団」の結成が行われ、その初代代表としてフスレウ・チャクル大将が選出された。これ以降第三共和政の残滓との戦いにおいて主導的な立場を担うこととなる。
  • 604年4月:アンカラ郊外へと避難していた大統領補佐団の居場所が国民に露見し、暴徒と化した市民らが一斉に襲撃。警備にあたっていた兵士と戦闘となり、100人超もの死傷者が発生する。大統領補佐団は更に離れた農村へと装甲車などを用いて避難した。
  • 604年6月:この頃ようやくアッバス・アタイズィ暗殺の一報が報道されるが、政府幹部からのリークもありもはや国民にとって周知の事実となっていた。時を同じくして大統領補佐団は大統領代行として実質的なリーダーとなっていたルトフィー・バジェオウルを次期大統領に選出することを試みるが、事態が悪化の一途を辿っていることを理由にムスタファー・テミルジ元帥が反対し中止された。
  • 604年6月:この頃ようやくアッバス・アタイズィ暗殺の一報が報道されるが、政府幹部からの流出もありもはや国民にとって周知の事実となっていた。時を同じくして大統領補佐団は大統領代行として実質的なリーダーとなっていたルトフィー・バジェオウルを次期大統領に選出することを試みるが、事態が悪化の一途を辿っていることを理由にムスタファー・テミルジ元帥が反対し中止された。
  • 604年7月:クルディア人・アルミニア人双方の独立闘争が本格的に開始される。第一目標として第三共和政の完全破壊が掲げられた。
  • 606年11月:大統領補佐団の警備にあたっていた兵士のリークにより大統領補佐団の居場所が再び露見する。このリークを元に共和国評議団による襲撃が行われ、ムスタファー・テミルジ元帥と数名の大臣が拘束された。残ったルトフィー・バジェオウルらは親第三共和政の師団を頼り山岳部へと逃亡した。
  • 607年2月:共和国評議団内部において新たな第四共和国の憲法草案が話し合われる。しかしアタイズィ体制の反省を汲みつつもある程度の独裁体制を維持しようとした社会主義勢力と第一共和政をベースとした民主主義の導入を求めた社会民主主義勢力の間で大きな溝が生じ、話し合いは決裂する。
  • 609年3月:大統領補佐団が逃亡した地域の掃討が完了し、ルトフィー・バジェオウルら残った大統領補佐団のメンバーが拘束される。これによって第三共和政は完全に滅んだ。
    その後六度目となった新憲法草案の話し合いが試みられるが、議論は初回から変わらず完全に平行線のまま幕を閉じる。お互いがお互いを罵倒する悪夢のような議論の末に社会主義勢力、社会民主主義勢力共に武力での解決以外解決策は無いと認識し、闘争が開始された。
    また少数民族の活動家らは第三共和政滅亡の一報を受け、第四共和国の憲法草案を話し合っていた共和国評議団に対する闘争を開始した。
    完全な分裂によって共和国評議団は有名無実化し、第四共和国の建国は大きく遠ざかることとなった。
  • 609年4月:武力を持って立ち上がった双方にとって、共和国評議団の本拠地が置かれていたアンカラの領有は勢力の正当性を強めるという意味で重要であった。当初アンカラで起こっていた戦いは奇跡的に人民議事堂前に詰めていた市民らの乱闘騒ぎ程度に収まっていたが、月が変わってアンカラ市外から社会主義勢力、社会民主主義勢力双方の武装した支持者らが集まるとアンカラは再び悪夢のような光景に変貌した。双方がアンカラの領有を譲らず兵力を続々と投入したために長期化したこの戦いは3年に渡って続き、最終的に社会主義勢力がこの地を領有した。(アンカラ黒の3年間)この戦いによって廃墟と化したアンカラの復興は15年以上にも及んだ。
  • 613年:社会民主主義勢力が領有したイスタンベルを社会主義勢力が攻撃を仕掛けるも、イスタンベル特有の防衛に優れる地形によって膠着。イスタンベルを流れるボスポラダ川を堺に5年以上に渡って睨み合いを続けることとなった。
  • 615年:社会主義勢力に属した複数の政党が社会主義勢力の中心団体として「労働者評議会」を結成。それに対抗する形で社会民主主義勢力も合同し「民主主義連合」を結成した。これよりようやく双方の戦いも統制が取れたものになり始めた。
  • 620年:クルディア人の独立運動を主導していた大クルディア民主党が分裂し、敵対派閥への自爆テロを伴った過激な政治闘争が繰り広げられる。またかねてより大クルディア民主党の右翼独裁思想を嫌っていたクルディア安定党他3つのクルディア系民主主義政党もこの闘争を受けて立ち上がり、クルディア人同士の戦いが勃発した。
  • 622年:アンカラとイスタンベルという国内二大都市が陥落したことにより労働者評議会と民主主義連合の一回目の和平交渉が行われる。しかし民主主義連合側は労働者評議会が民主主義を慮らない憲法草案を掲げていることを理由に最後まで戦うと声明した。
  • 623年:労働者評議会の議長として当時20歳で機関紙『アナトリアの誇り』の編集長だったメフメト・セキが就任。まだ若く政治経験の浅かった彼が議長として選ばれたことには彼の父ジャフェル・セキが優秀な将軍であったこともあるが、当時の労働者評議会議長がほとんど名誉職であると見られており、政治の場に立つのは書記長であると考えられていたことが最も大きかった。しかし彼の持ち前の政治とクルディア語の知識は後の内戦の推移に大きく関わっていくこととなる。
  • 625年3月:アルミニア系民族主義者により当時のダーマード・アヴジ労働者評議会書記長が襲撃を受け、重傷となる。これを受け復帰までの間職務を代行する者が探されたが複数の派閥の思惑が絡み失敗。半ば押し付けに近い形でメフメト・セキ議長が職務を執行することとなった。
  • 625年4月:民主主義を守るために戦う民主主義連合の戦いぶりを見続けた右派派閥より憲法草案に民主主義を盛り込む改訂案が提示される。しかし左派は明確に反対し中道派は態度を明らかにしなかった。
  • 625年5月:労働者評議会にて機関紙編集者らによるヘルトジブリール、ヴェールヌイへの非公式訪問の報告が成され、特に右派が大きく反応する。
  • 625年7月:ヴェールヌイより持ち帰られたいくつかの社会主義論について書かれた本の翻訳が完了し、労働者評議会にも持ち込まれる。左派は他国のこととして切り捨てたが、右派はこの本を価値あるものとして重要視した。
  • 626年:地獄絵図と化したクルディア人同士の戦いを見たメフメト・セキは独自にクルディア系民主主義政党に支援と引き換えに労働者評議会との停戦を行う和平案を提示した。当初クルディア系民主主義政党は労働者評議会が非民主主義的な憲法草案を掲げてるとして和平を渋ったが、メフメト・セキは労働者評議会が掲げている物とは異なる現在の第四共和政に近い独自の”セキ草案”を提示した。これにより労働者評議会に民主主義的な改革が行われると信じたクルディア系民主主義政党が和平を受け入れ、以降労働者評議会と協力体制を築くこととなった。クルディア系民主主義政党がこの際に将来の自治の約束を持ち出さなかった理由は異説もあるが、民族自立と右翼独裁が一体であるかのように扱った大クルディア民主党への反動だったと言われる。
  • 628年:労働者評議会とクルディア系民主主義政党の共同戦線となった対大クルディア民主党の戦いが終了し、クルディア人同士の戦いが終わる。
  • 630年7月:民主主義連合が継戦能力を失ったことを理由に労働者評議会との和平交渉に応じ始める。当初民主主義を守れと勢いづいていた支持者も長い戦いの末に次第に拳を降ろし始めていた。
  • 631年5月31日:民主主義連合との交渉にメフメト・セキが直接当たり、停戦合意が成立する。これによって27年に及んだ第四次内戦が終結した。しかし停戦合意の中には具体的な第四共和政の体制は和平条例において改めて定めるとする奇妙な項目が含まれていた。和平交渉の過程は非公式ではあったが、この交渉においてもメフメト・セキは独自の”セキ草案”を持ち出し、近い将来における労働者評議会の変貌を民主主義連合に向けて話したのではないかと言われている。
  • 631年6月3日:この奇妙な行動に当然労働者評議会は紛糾し、責任の追求にも及んだ。これに対しメフメト・セキはようやく公式の場に”セキ草案”を持ち出し、会場には非常に大きなどよめきが起こった。紛糾した労働者評議会を収めるためその場は一旦閉会とされ、翌日以降に持ち越されることとなった。
  • 631年6月5日:一旦棚上げにされた”セキ草案”についての話し合いが行われ、左派は明確に反対、中道派は曖昧な返答、右派は賛意を表明した。これ以降現状での憲法草案に疑問を持っていた右派とメフメト・セキが会談し、新たな憲法草案が作られていくこととなった。
  • 631年6月6日:予定通り労働者評議会は新たな第四共和政のための憲法草案の話し合いに入った。しかし当初の予定ではこれまで掲げていた憲法草案をそのまま通す事になっていた所を、独自の”セキ草案”の登場により議論の必要が生じ、631年8月での第四共和国建国が間に合わないという可能性が生じた。そのため631年8月時点では「トルキー臨時社会主義連合」を建設し、来たる宣言に備えることがひとまず全会一致で決定された。
  • 631年7月:トルキー臨時社会主義連合の建国に向けて着々と準備が進められ、これまでの憲法草案と”セキ草案”との共通項を元に臨時社会主義連合の”憲法草案”もまとめられた。『第四共和国』の憲法草案についての議論が長引いていることとは対照的にこの『臨時社会主義連合』については非常に順調に進んだ。最終的に7月中にこれらの準備は終了し、8月の臨時社会主義連合建国を迎えた。

トルキー第四共和政

「私の行動がトルキー第四共和国の民主化に繋がったとは思いません。遅かれ早かれ、トルキーはこのような体制になったことでしょう。」
―――メフメト・セキ初代トルキー第四共和国内閣総理大臣(603 – 713)

630年前後に労働者評議会が建国した現在のトルキーを統治する国家。
初期は「トルキー臨時社会主義連合」で後に「トルキー社会主義共和国」となった。
臨時社会主義連合結成当初は憲法は大枠のみが定まっていた状態であり、建国後も第四共和政の取るべき道について議論が続いていた。
建国当初は左派を中心に主張されたアタイズィ体制の反省を汲みつつも国の混乱を巻き起こしそうな芽は摘むという制圧体制を敷く案が優勢であった。
しかし第四次内戦の終結に”セキ草案”が大きく寄与していた事実はこれまで態度を明白にしなかった中道派に確実に影響を及ぼしており、右派主導でヘルトジブリール、ヴェールヌイでの社会主義形態が研究される内についに中道派も民主主義を新憲法に取り入れることに前向きな姿勢を示した。
労働者評議会内で民主主義導入が多数派となったことで憲法議論は少しずつ前に進むようになり、既に民主主義連合の賛同が得られていた”セキ草案”を基盤に636年11月に現在の第四共和政の初期憲法が完成した。同月棚上げになっていた民主主義連合との講話条例も結ばれ、労働者評議会を含めた政治勢力の再編が進んだ。
一方でこの進展に反対した左派の一部は離反し共産党や労働農民党を結成した。特に急進的だった労働農民党は当初選挙出馬を認められず、743年の憲法改正後に共産党へ合流しようやく国政復帰となった。

その他詳細は「トルキー社会主義共和国」にて。

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