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トレン外交委員長辞意表明

848年1月1日付〈中央通信〉

 12月25日、トレン・シトリン外交委員長が847年末時点をもって辞任することを発表した。トレン外交委員長は840年次選挙で連合党が大勝した際に現職のユハル・ツァボライトを破って外交委員長に選出されていたが、843年8月中旬に勃発した普蘭合衆国によるライン共和国に対する宣戦布告事件に対する対応が後手後手に回り、結果的に同国の重大な国際法違反に対する責任をほとんど追及することができなかった。事件そのものは普蘭合衆国の鎖国体制移行をもって事実上終幕となったが、最後までカルセドニーを含む有志諸国が要求していた説明責任の履行は果たされなかった。この事実上「逃げ」を許したような結果に対して国内ではトレン外交委員長のリーダーシップの欠如が原因とする批判が強まり、今回の辞意表明に至った形だ。

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労働党内部対立激化

 労働党内部の対立が激しさを増している。845年6月の議事堂への隕石落下で共和国議会議員をはじめとした党内の中堅ポストがことごとく空席となったため、<国際主義派>と呼ばれるユハル外交を支持する派閥と、<孤立主義派>と呼ばれるユハル外交を批判し、直接的な経済関係を有さない国家間の活動に対して基本的に不干渉とする派閥が後任ポストを奪い合っている構図だ。<国際主義派>は労働党籍の外交委員のほぼ8割の支持を固めており、外交委員会内部での<国際主義派>優位は揺るがないが、<孤立主義派>はカルセドニー政府の中枢である中央処理委員会、内務公安委員会、軍部委員会をその基盤にしており、この3委員会は労働党の「三大城塞」であることからその発言力は極めて大きく、労働党全体としては<孤立主義派>が優勢な状況である。<国際主義派>はその他の5委員会に対して勢力拡張を図っているが、連合党優勢の政界において、これらの委員会での労働党籍者の地位は高くないため、さほどの成果は得られていない。
 争点が外交政策であるため、単に党内で<孤立主義派>が優勢であることが、労働党の外交方針の変化につながるとは限らず、<国際主義派>は外交委員会の権限の独立性を盾に<孤立主義派>の批判を跳ね返しているが、隕石落下時に生じたインフラ障害以降、軍部委員会出身者が外交委員会に数多く移籍していることから、外交委員会内部の結束も確実とは言い難い。

「南の風」代表、組織制度の大幅改革を示唆

 チャド・リーヴズ「南の風」代表は12月28日、「南の風」の組織制度を大幅な改革を示唆した。リーヴズ代表は先のインフラ障害に際してガーネット州内に目立った被害はなかったことから「南の風」への評価が州内のみならず本土においても広がったことを受けて、これまで避けてきた本土諸州へのその業務区域拡大を検討していることをその背景として述べた。しかし、この組織改革は「南の風」役員が「海外の勢力の支援を受けており、それぞれが背景組織に便宜を図るために活動している」という広く知られる噂への対抗策であるとささやかれている。初代代表であるロニアが引退した前後から、失脚した役員の自宅から海外と通信を行うことのできる通信機器が発見されるケースが相次いでいることがこの噂の背景であり、「チャド・リーヴズ代表自身も外国から指示を受けていたが、その「ボス」が消滅してしまったからフリーハンドを得たのだ」などとする説もある。
 噂話はともかく、チャド・リーヴズ代表は改憲後のロニア代表やオリヴァー・フォード前代表と比べるとはるかに若く、中央政界進出の野望も捨ててはいないとされる。中央政界は近年ライン宣戦事件などで荒れており、インフラ障害への対応やヴェニス社への超巨大規模投資で名を上げた「南の風」にとってはチャンスかもしれない。

※PL連絡:「南の風」イベントは一時中断します。新掲示板にて形式を変えて再開する可能性があります。

ライン宣戦事変に対するトレン外交の功罪

 本件勃発当初、労働党がその機関紙<赤光>国際版を用いて普蘭合衆国を痛烈に批判したのに対し、連合党政権の共和国政府は日和見主義的な対応を取った。平和友好条約を締結している普蘭合衆国との急速な関係悪化を恐れた連合党政府は早急に明確な態度表明を行うことを避け、単に「中立義務」としての石油輸出の停止通告を行うのみの対応を取った。しかしながら、普蘭合衆国はこの石油輸出停止に反発、最終的には「有事の際に貿易を中断する国家とのおつきあいはお断りする」と宣言して共和国との外交関係を一方的に断絶した。このような、国際秩序を無視した蛮行に対して連合党指導下の外交委員会は重い腰を上げ、845年2月初旬にようやく11ヶ国共同で「普蘭合衆国の一連の行為を受けた共同声明」を発表するに至ったが、この声明に対する普蘭側のリアクションは返って来なかった。
 トレンが事件勃発時点で何らの行動もとらず、しばらく事態を傍観していたことが、このような逃げを許した結末の原因の一端であることはほぼ間違いない。普蘭側との関係改善の可能性を模索して中途半端な姿勢を取るのではなく、「国際秩序に反した暴挙」をより早急に糾弾すれば、普蘭側に何らかの対応を迫ることができたであろう。ただし、このような対応はユハル前外交委員長の「国際正義」外交の姿であり、連合党の外交方針とはやや方向性が異なるとも言える。
 一方で、連合党外交が功を奏した点もある。外交委員会はSSPactとの協調を重視し、共同声明にもすべてのSSPact加盟国が名を連ねているが、ヘルトジブリール社会主義共和国を筆頭とするSSPact諸国に対して立場の共有に成功したことは、普蘭合衆国の同盟国であるレゴリス帝国やロムレー湖畔共和国が対立ではなく協議による解決を選んだ最大の要因だったと言えよう。845年7月5日に公表された烈路による共同声明では、「事態が戦争に至った場合、宣戦布告された側に立って参戦する」と宣言、普蘭との相互安全保障条約を事実上無視するとしている。普蘭が有事に際して烈路の軍事力をアテにしていたことは明らかであるから、事態のエスカレートを防ぐ一撃としてこの声明の意義は大きい。このような烈路両国の妥協を引き出したのは、連合党の「社会主義世界との協調」外交の成果であると言うことはできる。トレン外交は普蘭に「逃げ」を許したという点で失敗であるが、「逃げ」以外の選択肢を残さなかったという意味では成功であると言うことができるであろう。

 

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