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ガトーヴィチ・ベルサリエーレ戦争

ガトーヴィチ・ベルサリエーレ戦争

写真:ガトーヴィチ帝国の巡洋艦から発射されるミサイル

写真:ベルサリエーレ王国の通商破壊

開戦日 635年11月23日
停戦日  
終戦日 637年8月3日
結果 ガトーヴィチ帝国の勝利、ベルサリエーレ王国の滅亡
交戦勢力

ガトーヴィチ帝国旗

ガトーヴィチ帝国

成蘭連邦王国

レゴリス帝国

ベルサリエーレ王国

呼称

国名 呼称
ガトーヴィチ帝国 瓦辺戦争
ベルサリエーレ王国 抗大スラヴ戦争

開戦まで

背景

632年4月中旬、ベルサリエーレ王国が東レベルギウス州の農村及びニュータウンへミサイル10発を発射。
これが、同国憲兵組織による国民虐殺という疑惑が浮上、ノホ・へレコ連邦中心に調査が行われた。
(出典ベルサリエーレ王国における同国民へのミサイル発射事案に関する報告書 )

開戦理由

参戦国

戦争推移

開戦前の動き

ガトーヴィチ帝国から、ベルサリエーレ王国への宣戦布告が行われ開戦までの期間に、ベルサリエーレ王国から特別演習艦隊と呼ばれる艦隊が出撃した。
ロマーナ・デ・コラート上級大将を指揮官とした、この艦隊は大規模演習の名目でガトーヴィチ沖へ進出し開戦からレゴリス海軍が同海域へ進出するまでの間、ベルサリエーレ王国側の最高戦力として猛威を振るうこととなる。

戦争序盤

 開戦当初、戦争初期は国力差、さらにレゴリス、成蘭などの主要先進国の宣戦もあって各国ともガトーヴィチの圧勝で、しかも短期間に終了するだろうと予想していた。あるガトーヴィチ政府高官は「憲政記念日(4月1日)までには勝利する」と豪語した。
 開戦と共に行われた両軍のミサイルによる攻撃は、質量共に優越するガトーヴィチ軍が成功させる一方、ベルサリエーレ軍は非常に微小な戦果と引き換えに国内のミサイルをほぼ全て撃ち尽くしたことから、この予想は正しいと考えられていた。

通商破壊作戦の開始

ベルサリエーレ海軍によるガトーヴィチ商船を対象にした大規模な通商破壊作戦が実行され戦争の趨勢は一気に長期戦へと傾いた。635年12月1日から翌年3月12日まで行われた「Sincero Esercitazione militare、誠実軍事演習」と呼ばれる一連の作戦は空母1隻、巡洋艦6隻、駆逐艦16隻が投入される非常に大規模なもので、作戦終了までに商船27隻撃沈、54隻拿捕を報じている。
この被害を受け、ガトーヴィチ軍は上陸支援の為に待機していた艦艇を海上護衛へと投入せざる得ず、このことは後々のベルサリエーレ上陸作戦が何度も失敗した遠因と言われている。
写真:ミサイルの直撃を受け炎上するコンテナ船(後に沈没)

戦争中期

 ガトーヴィチ軍は2月から6月にかけて「Opération Quoits、輪投げ作戦」(偽装防衛施設と偽装基地が存在する森林を破壊し強制武装解除を目指す作戦。点在する森林を各個破壊していく様子を輪投げになぞらえた。)を実行したが、決定打に欠けていた。
 7月31日にはレゴリス帝国と成蘭連邦王国が本格的に交戦状態に突入。無差別爆撃で軍事施設や産業施設を徹底的に破壊するなど激しい空爆を加え、ベルサリエーレの軍需物資生産に大打撃を与える。ガトーヴィチ軍は7月から10月にかけて「Opération Pelle、スコップ作戦」(戦艦と防衛艦隊を破壊し揚陸艦を派遣する様子を砂遊びになぞらえた。)を実行し、戦艦1隻の擱座と巡洋艦1隻の撃沈、駆逐艦3隻の撃沈は成功したけれども、なかなか揚陸をする時宜を摑めずにいた。

他方、戦役が長期化した大きな要因としてガトーヴィチ以外の参戦国、すなわち成蘭とレゴリスの消極的な行動が指摘されている。
成蘭連邦王国は宣戦布告理由においてガトーヴィチの布告理由を「肯定しない」と明記するなど今次戦役に対し否定的な見方でとらえていた。宣戦布告理由へのスタンスに加え、国内の厭戦ムードに対応するように、ミサイル攻撃の目標は海上や軍事施設に限られ、ミサイルの発射数もベルサリエーレ軍の攻撃動向を踏まえ調整していたとされる。
また、連邦軍上層部で計画されていた地上軍派遣や衛星レーダーによる政府施設破壊等についても戦役の泥沼化を懸念した政府の指示で無期限凍結されていたことが軍幹部(当時)への取材でわかった。

戦争終期

 636年12月、ガトーヴィチ軍はベルサリエーレ王国の両銀鉱を衛星レーザーとSPPミサイルで破壊した。これを受けたベルサリエーレ王国は、砲弾の払底と軍事工場の壊滅に鑑み、降伏した。
 その後、637年6月12日にガトーヴィチ帝国との間にシリブロフスク講和条約を、6月23日に成蘭連邦王国との間に館山条約を、8月3日にレゴリス帝国との間にスパラト条約を締結し、戦争は終結した。