文化自由連盟が単独過半数/非労働党政権へ
983年1月人民議会選挙は、国際連合脱退と、その要因ともなったセニオリスクーデターに対する介入やサンサルバシオン条約機構との関係性をめぐる一連の外交政策に対する評価、そして多くの新興国が産声をあげる中、今後激動が予想される国際情勢に、共和国がいかに相対するかを選択する極めて重大な選挙であった。
結果、文化自由連盟(以下連盟)は35増の103議席で単独過半数を獲得。労働党は議席を30減らし、現国政制度施行以来はじめて90議席を割って政権党から転落した。まさに歴史的勝利と敗北である。
セニオリスクーデター介入に対する国内世論の反発は、政府のSSpact、もっと言えばヘルトジブリール追従姿勢に、人民大衆が待ったをかけた格好のものであった。多国間安全保障そのものが安保上のリスクになっているとする立場をとっていた連盟は、派遣艦艇の撤収を強く求めるなどして存在感を高め、世論の波に乗った。
その後、作戦の終了を待たずに(あくまで補給を理由としているが)艦艇は撤収された。
978年の議会選では、労働党は議席数を従来の133から15減らし118議席、連盟は47から21増やし68議席と躍進していたが、続く国連安保理における処分決議案執行手順の問題で、労働党には引き続き厳しい視線が向けられることになった。ヘルトジブリールが共和国の説明を代行していたとする一部理事国の論調が伝えられたことは、SSpact追従とする批判に対して反論を続けてきた労働党には致命的であった。強硬姿勢のアピールも空しく、国連脱退という最悪の結末を迎えてもなお支持率の回復はままならないものであった。
ザラフィアンツ首相は労働党書記長を辞任、伴って次期議会選の結果によらず首相交代を決断している。
経済転換の成功や国際的地位の回復、全方位融和外交で高い支持率を維持してきたザラフィアンツ政権。しかしこの歴代最長政権の最後は、最友好国との関係後退と、世界最大の国際機関からの脱退という皮肉なものとなった。
そして迎えた983年人民議会選において、労働党は改めて外交政策への理解と評価を求めた。すなわち、労働党は一貫して国家主権を防衛しており、SSpactを軸とした同盟関係がそれを阻害するものではないとした。また増加する新興国との関係強化や、激変するであろう国際情勢に対応していく上でも、なおさら同盟関係は重要な意味を持ち、崩してはならないと主張した。
一方の連盟は、SSpact追従姿勢がなければ、決議違反があったとしても国連脱退に至ることはなかったとして、共和国の地位を不安定たらしめた原因はあくまで「数だけの軸なき安保の枠組み」にあると痛烈に批判した。また将来の国際情勢の中で、共和国の存立を確保する為には、既存の大国や新興国といった区分によらず、対等な友好関係を押し広げていくことが重要であり、軍事同盟への加盟そのものを今一度忌避するべきだとした。
こうした連盟の主張は、建国からSSpact結成以前までの「元来の外交方針」への回帰として、原始純粋社会主義としてのノルシュテイン主義(国家建設最終案)を想起させるものであった。そして、セニオリスクーデター以来、共和国の先行きに不安を感じていた人民大衆、各企業の関心を集めることに成功したのである。
1月20日、人民議会は連盟のアレクサンドル・コズイレフ代表を首班指名。
これにより同氏は7代目閣僚評議会議長(国家元首としては8代目)に就任した。
アレクサンドル・コズイレフ首相
「我が連盟の勝利は、純粋社会主義共和国の人民民主主義そのものの勝利であり、ノルシュテイン同志や人民が夢見てきた理想の国家社会への偉大な前進である。我々は政権党としての能力を有しており、意欲に満ち満ちている。硬直した制度を改革し、自由と文化を強化発展させ、国家人民の幸福を増進させることを誓う」
サンサルバシオン条約破棄/SSpact脱退へ
983年3月、政府はサンサルバシオン条約機構(以下SSpact)の条約委員会に対し、サンサルバシオン条約の破棄を通告。同条約第十条の規程に沿って、共和国はSSpactから脱退することになった。
共和国はSSpact設立(641年)からの原加盟国であり、839年9月の国家機能停止を挟んで942年6月に復帰、967年4月には政治代表派遣国に指定されていた。
政府による破棄通告を受け、SSpact政府代表部は既に撤収している。
外務省筋の情報では、撤収に先立ち、全権大使が各国代表に挨拶を行い「同盟各国は変わらずヴェールヌイ人民の友人である」「激動が予想される国際情勢の中で、SSpactが確かな役割を果たすことを望んでいる」と述べ、天超瀬国などからは脱退を惜しむ発言があったという。
大きな政策転換を即時実行した連盟コズイレフ政権だが、官僚との関係に少なからずゆがみを生じさせているのかもしれない。
安全保障政策の主軸であったSSpactからの脱退は、軍事同盟への加盟(SSpact)自体が安保リスクとする連盟主張の是非はともかく、共和国の国防政策そのものの転換を意味する。
共和国はSSpact設立まで、二国間安保条約も締結してこなかった。有事における一対多という悲観的な想定のもと国防政策を策定してきたが、その一方でFENAへの準加盟、ENEC設立に関与してのOS参加など、国際組織参加を一定の抑止力として活用してきた歴史がある。
しかし、国連脱退に次いでSSpactから脱退しようという現状は、一時に抑止力を喪失することを意味している。
連盟はSSpact脱退を半ば公約としていはいたものの「ここまで性急に実施するとは思わなかった」(外務省筋)とされ、政府と各行政機関との調整が不十分であったことが窺える。この事が、前述の官僚との関係のゆがみにつながっているのではないだろうか。
ベルクマリ条約発効/BCATに共和国も加盟
983年3月26日、普蘭合衆国首都ベルクマリにおいて、ベルクマリ包括的協力機構条約の調印式が行われ、共和国、セリティヌム共和政、ベロガトーヴィチ大公国、ラ・フローリド共和国、神聖ガトーヴィチ帝国、普蘭合衆国の六ヶ国が調印した。これにより同条約を根拠とするベルクマリ包括的協力機構(以下BCAT)が設立されることとなった。
コズイレフ首相は調印式後の記者会見で、本機構設立の意義について以下のように述べた。
「新興国はもちろん、これまで明確な協力関係が存在しなかった複数の国々と、新たに関係を構築する為の枠組みが合意に達し、本日こうして調印式を迎えることが出来た。BCATは、包括的協力というその名の通り、加盟各国が相互信頼、相互利益、相互対等、相互協議といった精神のもとで、分野に囚われない広範な協力を行うことを目的とするものであり、経済協力がその主軸となる。たしかに安全保障条項もあるが、参戦義務に関連する部分において、防衛的性格が強くなっており、組織として自発的な共同軍事行動を想定するものではない。こうした枠組みは、新たに軍事同盟の縛りを脱し、いかなる国とも平和友好関係を築いていこうという、共和国のこれれからの外交方針に合致するものといえる」
本紙解説員
「これが連盟の腹案だったのか、といった印象。BCATは、抑止力を持たせながらも、独自外交の自由度も確保しようという狙いがあり、たしかに連盟の掲げている政策と、SSpact脱退後の安保上の懸念への回答になっているように見えます。近年、経済支援を通じて友好促進と相互理解が進んでいるフローリドや、有望な新興国として注目されていたセリティヌムとの明確な形での関係強化は望ましいことでしょう。しかし既存の大国であるガトーヴィチや普蘭と、共通の立場や利益を見出すことができるのかは、これまでの歴史的経緯や、既存友好国との関係を考慮すれば、未知数であると言わざるを得ず、非常にチャレンジングな試みです。またガトーヴィチ、ベロガトーヴィチの二ヵ国と、共和国が同じ協力組織内に入っているという事実は、注目すべき事象のひとつでしょう。連盟コズイレフ政権の外交手腕に注目していきたいと思います」
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