細川経政公、石動ご訪問。秋石友好修好条約締結さる。
953年(正明17年)5月18日、細川経政公は予てより望まれていた石動国へ遂に訪問。宮中へ参内し児島宮太上皇帝、扇宮皇帝両陛下に謁見したのち、公方府庁舎へ訪問。公方府庁舎六階第一応接室「屏風虎の間」で大石動帝国征夷大将軍、足利輝子殿下と会談を行った。
当初は幕府が保護していた山城宮殿下と「在秋石動国政府」の存在や5世紀頃の文民政府が行った石動と石動の友好国、大幹帝国に対する非礼な振る舞いから招いた歴史的なヘイトから我が国は石動政府より警戒を受けていたが、幕府・朝廷をあげた懇切丁寧な説明努力と外交交渉により今回の訪問は相成ったのである。
我が幕府は、そもそも石動の足利幕府を範とした体制であることから政体の類似性、父娘の年齢に近い経政公と輝子公の親近感から会談は終始和やかに進み、会談後には公方府庁舎内の剣道場にて一進一退の試合を演じる一幕もあった。
この席上において、秋石友好修好条約が締結された。
石秋友好修好条約
大石動帝国と大秋津国は古来より友諠深厚なるを以て、今般一層旧好を修め愈々相互の邦交を固くせんと欲し、本条約を締結せんと企画せり。これがため両国は左の全権委員を指名せり。
大石動帝国
正二位征夷大将軍
足利輝子
大秋津国
従一位上将軍
細川経政
右全権委員は各々が示したる全権委任状が妥当なる事を相互に確認し、上諭の旨に遵い議論を尽くし本友好修好条約を議定し、以て双方信守し未来永劫此れに悖らざる事を期す。其の議定せし各条左の如し。
第一条 両国は大石動帝国が石動第三帝国の正統後継政府たる事、大秋津国が秋津皇国の正統後継政府たる事を相互に承認し、相互両国の立場を尊重す。
第二条 大石動帝国は嘗て大秋津国内に於いて石動皇帝を名乗りし山城宮を、石動皇族たる王と認む。又山城宮の一族は石動皇族宮家たる後明日香宮家と遇す。これを以て後明日香宮家は大石動帝国へ帰国す。
第三条 両国は大秋津国内に滞在し大石動帝国への帰国を希求せし石動人をして、段階的に大石動帝国へ帰国せしめんが為、双方最大限の便宜を図る事を約す。
第四条 両国は本条約以前に両国間に存在せし条約・義務・請求権の一切を継承せず、新たなる友好関係を築く事を約す。
第五条 両国は旧世界日本国の民族・文化を継承せし東方の友好国として、経済・文化両面に於いて協力・友好関係を深め、以てフリューゲル東方地域の安定化に寄与することを約す。
第一項 これが為、両国は両国国民の出入国に於いて、相互に査証は此れを免除す。
第二項 これが為、両国は国内大学に学生の交換留学と姉妹校締結を奨励す。
第六条 両国は相互に両国法律に抵触する所の犯罪者の相互引き渡しを認む。
第七条 両国議定せし本条約は両国の友好修好を約し互恵発展を期すものなり。因って両国全権は是が証拠の為本条約に連署し、両国憲法ないし不文憲法に定められたる手続きを経て此れを批准の上、御名御璽を拝したる批准書の相互に交換せし後初めて此れ効力を発す。
須晴二年五月十八日
正明十七年五月十八日
本条約は6月12日、宮中にて行われた御前会議で批准され、6月16日に大石動帝国山岡府室満京市で批准通知書の交換が行われた。
山城宮様、石動帰国者第一陣と共に帰国される
秋石友好修好条約の発効を受け、「在秋石動帝国」皇帝であられた山城宮様の帰国が相成った。
山城宮様は812年に石動本州の覇権を握った三好政権によって嘉川道から追いやられ、秋津国佰愿諸島へ逃れていた、石動南朝皇帝家の末裔である常盤宮王の後裔にあたり、北朝を正統とする石動朝廷とは代々の因縁があったことも事実である。
しかし、山城宮様は南朝皇帝の誇りよりも石動皇族として石動本州の再建へ尽くしたいとお考えであった。
そして、953年7月1日山城宮様ら南朝皇族、公家の一行は140年振りに石動本土の土を踏まれたのである。殊に山城宮様は石動朝廷より「後明日香宮家」に封じられたことに「後明日香宮帝は南北朝動乱の引き金を引き、孝寧院陛下*により廃帝の宣告を受けました。その後明日香宮の名をお認め下さった扇宮皇帝陛下には感謝に堪えません。私は石動皇室の藩屏として皇帝陛下に忠節を尽くし、石動再興に努めたいと思います。」と感嘆の意を述べられました。
*孝寧院 石動第四代皇帝神凪宮陛下の皇配で幹国皇族の出身、孝寧君朴慶成殿下
山城宮様一行は、ある程度富裕でその資産をもって石動再建に貢献したい志を持つ在秋石動人帰国者の第一陣と共に帰国された。