《新報オンライン》1175年 5月7日
1174年に発足した「カリヌナ解放戦線」。我々は彼らの活動目的に酷く感銘を受けた。
我々は建国当初より祖国の真実を読者に伝え続け、不当な報道権剥奪を受けてもなお、今日まで自由と幸福のために戦い続けた。
イカシパフ氏は、本誌の読者であるということで、我々の活動が自由のためのデモへと繋がったことは、大いに祝福すべきだ。
さて、今回我々は、イカシパフ氏にインタビューすることに成功した。
ここからはインタビューの内容を元に、カリヌナ解放戦線はどこから来たのか、どこへ向かうのか、徹底的に調査していこうと思う。
カリヌナ解放戦線は、主にイカシパフ氏を中心とするカリヌナ島出身者によって構成される機構だ。
彼らは反社会主義、反スラヴ主義、反権威主義を掲げ、現地住民によって構成される、民主的な政府によって国家は統治されるべきだと訴える。
「スラヴ人はいつもそうだった。政治顧問団とか、世界平和とか、適当な理由をでっち上げて他国に干渉しようとする。少なくとも我々はスラヴ人ではないのだから、スラヴ人によって行われる政治によって統治されるべきではない。民族自決の原則はフリューゲルにおいても同様で、決して破られるべきではない。」
イカシパフ氏は極めて公正で正しい意見を述べた。
また、一連の政府の対応についても、このように批判している。
「1100年代後半になっても、こんなにもたついた政府が存在するとはまさか思わなかった。これは我々の圧倒的な軍事力も起因するところではあるが、対応が遅れたことにより、神聖ガトーヴィチ帝国は在邦人を守るよう要請した他、同国とルクスマグナ共和合衆皇国は連名で政府に対して共和国内での軍事力の行使を示唆するような公開質問状を受け取るに至っている。これは政府が友好国によって全くと言っていいほど信頼されていないことの現れで、これこそがスラヴ外交の失敗点である。」
イカシパフ氏は、腐敗したスラブ政治の始まりはエカチェリータ氏による独裁政治だったと語る。
建国当初、エカチェリータ氏は国内情勢を安定させ、急速に経済を成長させるために、自身の代のみ終身大統領となるような改憲を強行した。
実際に、それは上手くいき、10年で急激な成長を見せた。
計画が完遂し、肥沃な経済を得た祖国を見たとき、筆者は言い表せないほど感激したのを強く覚えている。
それはイカシパフ氏も同様だったようで、初めはエカチェリータ主義者ですらあったという。
だが、それは誤りだった。
エカチェリータの死後、トータエは行政院による政治に移行し、その大半をノエシタ人か、ノエシタ系の政治家が占めた。
エカチェリータが行った政治顧問団の招集により、国内政治の主要人物は既にノエシタ人だったのだ。
それは彼女の死後顕著化し、スラブ政治を引き起こすに至った。
最後に、イカシパフ氏は以下のように語った。
「我々はエカチェリータ氏の功績ばかりに感動し、神聖視していたが、今はそれが間違いだったとはっきり分かる。そもそも、彼女の功績に相当するものは、民主的な政治によって行われるべきだったのだ。功績のある独裁者がいたとしても、独裁者は結局悪い存在だ。ある時代に独裁者が存在した時点で、それが退任したとしても、その国では独裁が容易に可能になるようにレールは敷かれている。行政院になって人数が増えたように見えるだけで、それを操る正体は結局スラヴ人という一つの存在である。彼女が、元凶なのである。彼女が、スラヴ人を呼び込んでトータエの政治を支配させたのだ。たしかに、「もう独裁は必要ない」という台詞は画期的であった。たしかにあのとき、トータエに独裁は必要なかった。だが終わらなかった。これは、エカチェリータというカリスマ的な詐欺師を支持した我々に対する報いなのだと思う。あのとき、エカチェリータ氏を退任させなかった我々に責任があるのだ。だから我々は立ち上がる。初めにエカチェリータ氏を支持した我々が、彼女によって引き起こされたスラヴ独裁を終わらせるのだ。この目標は数年以内に達成されるだろう。同志、いいや、同胞の皆は、我々の活動を本誌を通して見守るか、KLFの戦闘員となることによって我々を支持していただきたい。」