| 国名 | 普欧帝国 |
| 国旗 | ![]() |
| 元首 | ヴィルヘルム3世 |
| 政体 | 立憲君主制 |
| 首都 | ケーニヒスベルク |
| 人口 | 約1億人(421年度調査) |
| 建国 | フリューゲル暦347年10月 |
目次
国情
概要
普欧帝国はフリューゲルの比較的北方に位置する国家である。フリューゲル暦340年代中ごろに植民船団BC110-Aの一部が不時着する形で入植、建国王カール1世の尽力により全滅の危機を乗り越え国家建設に成功した。現在は商工業が発達した国家となっている。
(編集者cruisより国号に関して:普欧の普は人間としての普遍性、普遍的価値観への編集者の信奉から、
欧は近現代ヨーロッパ史を専攻しヨーロッパ的価値観と哲学に大きな影響を受けたことから採用した。)
国土
帝国は南部のプレーゲル川を境にザームラントとナタンゲンに区分されている。
- ザームラント(居住区)
プレーゲル川北方の地域。帝国の全住民が居住しており、首都ケーニヒスベルク周辺は港湾施設、帝国議会などが集中する国家の中枢である。議会周辺は森林と公園で囲まれており、市民の憩いの場となっている。- 首都ケーニヒスベルク(9,7)
帝国の首都。行政機関と大企業本社の所在地であり、要人や高官のためのサービス業が発達している。 - クナイプホーフ(9,6)
ケーニヒスベルクに隣接する大都市。フリューゲル暦355年に建設された帝国初の現代都市である。 - ケーニヒスベルク港(7,8)
349年にミッドガルド帝国の支援により建設された港。帝国の対外貿易を担う要港。B&V社の造船所が設置されている。 - 帝国議会(7,6)
353年に議会王カール2世の即位と共に設立された議会。首都と並んで政治の中心となっている。 - ノイハウゼン(ケーニヒスベルク北東部)
ケーニヒスベルク北東地域。農業が盛んであり、農作物加工を行う工業都市(13,1)が存在する。 - アルナウ(ザームラント東部)
ザームラント東部地域。都市化が進んでおり、ケーニヒスベルクに次ぐ商業の拠点。 - ゴットリーネン(ザームラント南部)
ザームラント南部地域。都市化が進展する一方で、プレーゲル川の水利を利用した農業も盛ん。
- 首都ケーニヒスベルク(9,7)
- ラビアウ地方(ザームラント北東部)
ザームラント北東の特別産業区。建材工場や軍需工場、ロケット発射台が建設されている。- ラビアウ総督府(17,4)
ラビアウ地方総督の庁舎。同地は特別産業区に指定されており、政治的にも特別扱いされ総督統治が行われている。 - 第二発電所(8,13)
384年に完工した発電所。下記のカイザー発電所の運用データを参考に改良が施されている。 - ロケット発射台Nr.1(16,3)
373年に完成したロケット発射台、Nr.1はNo.1を指す。宇宙産業従事者の間では、かつてロケット打ち上げを成功させた
地球時代の科学者の名にあやかり「フォン・ブラウン発射台」とも呼ばれている。 - ラビアウ大聖堂(16,4)
356年に完成した大聖堂、国宝に指定されている。寒冷で痩せた土地に降り立ち、数多の流血を経験した先人たちは救いを求めて聖堂建設に着手し、建国前後の346年から10年がかりでこの大聖堂を完成させた。 - 国立墓地(14,1)
船団遭難や植民戦争の犠牲者のために設立された墓地。遺体のない墓も多い。 - ノイハウゼン大社(14,2)
東北地域の農民が豊作を祈願して独自に建立した神社。(15,3)の聖樹はこの神社の御神木。
- ラビアウ総督府(17,4)
- ナタンゲン(産業区)
プレーゲル川南方の地域。帝国の産業が集中しており、商工業の拠点となっている。普欧重工業や帝国機械製作所の工場が設置されている区画と農業用の区画に分かれている。- 商業区画(4,18)
ナタンゲン西部の国営市場が集中する区画。ケーニヒスベルク港で下ろされた外国の産品が艀で運ばれ消費される。 - カイザー発電所(8,13)
350年に建設された発電所。発展核融合式を採用しており、産業区と帝国南部の電力供給を一手に担っている。 - 農業区画A(18,18)
かつて東部に存在した農業区画。プレーゲル川の水供給を受け安定した穀物生産を行っていた。住宅地確保のため解体。 - 農業区画B(4,18)
かつて西部に存在した農業区画。海水浄化施設を併設し家畜用飼料の生産を行っていた。商業区画への転換のため解体。
- 商業区画(4,18)
文化
階層ごとに異なる文化が根付いている。政治家や弁護士、教育者、医者学者などの上層市民は教養を重んじており、
地球時代の古典やラテン語を諳んじるのがステイタスとされている。一方、下層市民層の文化はかなり複雑である。
普欧には他国からの移民も多く存在するため、多様な文化がモザイク状に(時に摩擦を伴って)混在しているのだ。
特に若い世代では諸文化の融合が積極的に行われる傾向があり、音楽などの“文字を介さない”分野ではその傾向が強い。
とはいえ、これは最近になって見られるようになったものであり、フリューゲルに入植した当初は厳しい環境もあって
下層市民層の間には非常に敬虔主義的なキリスト教文化が存在していた。また、多少は温暖な南部と寒冷な北部では
文化的差異があり、移民が多い中部~南部は良く言えば寛容な社会(悪く言えば奢侈放蕩な風潮がある社会)で、
北部は敬虔主義が根強く残る社会であると言える。また北部は伝統的に自治の精神が強固である。
- 政治文化
徹底した中庸主義と地方分権を特徴とする。植民戦争や対イスアード戦争の経験から中央集権体制と大衆民主主義への
懐疑が広まった結果、ヴィルヘルム2世統治期から外交、軍事などの限られた分野以外の領域を地方に委任する
動きが強まった(皮肉にも、これはヴィルヘルム2世の目指した統治のあり方とは真逆のものである)。
共産主義国家が次々に誕生した440年代には地方分権の動きは一層強まり、地域コミュニティ内での民主制が
重視されるようになっている。これは、少数派や弱者の権利擁護や幸福の追求には国家や州単位での法規や
制度の整備も大事だが、地域や市町村などのミニマムな単位での合議こそが必要であるという理念に則ったものである。
また、少数の経済的強者による多数の経済的弱者の支配を是としない風潮が強く、所有権が一応保障されてはいるものの
累進課税や寄付・喜捨の文化が根強い。なお、このような態度は企業や事業主にのみ向けられるものではなく、
低所得者層であってもクリスマスシーズンには寄付や無償での労働奉仕(例えば教会や公共施設の寄付募集や路面清掃など)
が当然のこととされている。このような地域志向は政治に限らず多くの分野で共有されている。 - 音楽
音楽は普欧における主要な文化の一つであると言える。入植時の熾烈な状況の頃から音楽は人々の心を支えており、
ある時には勇壮な軍歌、ある時には祈りと共に唱える讃美歌、またある時には死者への鎮魂歌として常に傍らにあった。
やがて帝国が安定を迎えると新たな音楽の潮流が生まれ、普欧の音楽は様々な変化を遂げつつ現代まで人気を保っている。
クラシック音楽の人気が高く、上層市民はもとより他の階層にも一定の需要がある。国立コンサートホールでの演奏会は
有名であり、中でもケーニヒスベルク・フィルハーモニー管弦楽団の名声はフリューゲル世界に名高い。
一方で街中では小規模な音楽ホールから路地裏まで含む多くの場所でアマチュアの音楽グループが多種多様な曲を奏でており、
中には店舗での演奏を依頼されたり、プロデビューする個人やグループも存在している。 - 食事
寒冷な気候であるため伝統料理には脂っこいものが多い。冷めてもおいしく食べられる工夫が凝らされている。
また沿岸部では魚介と酢を組み合わせたさっぱりした料理が食べられる。ただし保存食になると、やはり脂っこい。
畜産業が発達しているためソーセージなどの加工肉の生産・消費量は世界一。加えてビール消費量も世界一である。
なお、畜産業と異なり農業は経済的発展と商業化の進展で弱体化したものの、諸外国から輸入された数多の食材によって
普欧の食卓はより鮮やかになっている。だがそんな中でもジャガイモは食材として植民時代から根強い人気を誇っている。 - スポーツ
普欧では地域毎に異なるスポーツ文化が存在している。北部ではスポーツは共同体の行事と強く結びついており、
祝日になると近所同士、最も規模の大きい時には街区同士が対抗してフットボール大会が行われる。その様子は圧倒的である。
都市部ではスポーツよりも体操に力が入れられており、ほとんどの都市には体操協会が設立されている。
また夏季の長期休暇時に都市部の学校の子供達が山林でのキャンプを行う際には、決まってマスゲームが行われるという。
一方で中部~南部にかけては他国でもメジャーなスポーツの人気が高い。特にサッカーは競技人口が多いが、
スポーツに限らず多くの分野でアマチュアリズムが徹底している普欧人と他国からの移民の間には意識の差異がある。 - 娯楽
音楽やスポーツ以外の分野では非電源系のゲームが盛ん。トランプやチェスなどの愛好者も多いが、
最も人気があるのは人生ゲームやクリークスシュピールなどのボードゲームである。特に後者は
在郷軍人会が自分たちの所属した連隊に関するゲームを製作して販売するなど全国的に盛んである。
また、議事堂周辺の国立公園内には植物園が建てられており景観も良いため、ちょっとした散歩にも
丸一日かけてくつろぐにもうってつけの場所である。
政治
当初はカール1世が国政を取り仕切っていたが、カール2世時代より立憲君主制に移行している。
議会は上院、下院の二院制。ただし選挙が実施されるのは下院のみで、上院は各地域から選出された代表者により構成される。
下院は選挙で選出された議員により構成され、任期は4年である。納税額によって投票可能数が異なる三級選挙法が施行されて
いたが、463年に廃止された。また、440年代には州、県、各市町村に設置された地方議会の権限が大幅に拡張され、
外交や軍事などの事項を除いて地方自治が徹底されるようになった。
皇帝は上下院に教書を提出することで政治に関与することが可能だが、地方議会には関与できない。
- 帝国参議院(上院) 20議席
| 地域 | 議席 |
| ザームラント中央 | 5 |
| ザームラント北西 | 1 |
| ザームラント東部 | 6 |
| ザームラント南東 | 3 |
| ラビアウ地方 | 1 |
| ナタンゲン | 4 |
- 帝国議会(下院) 450議席(424年現在)
| 政党 | 議席 |
| 社会民主党 | 117 |
| 中央党 | 105 |
| 進歩党 | 99 |
| キリスト教民主同盟 | 90 |
| 保守党 | 20 |
| その他 | 18 |
- 政党
- 社会民主党
中道左派。党名の通り社会民主主義を奉じており急進主義的な共産主義には批判的。
結党当初こそ革命思想家たちが出入りしていたものの、ビューロー内閣時代に与党の政策に対する評価から党内対立が激化、急進派が党を離脱し(多くは独立社会民主党を経て共産党の結成に向かった)現在に至る。国際平和、福祉政策を重視。 - 中央党
中道。カトリック政党であり、帝国内では少数派であるカトリック信徒の権利擁護を掲げている。
元々農民層を支持基盤としていたが、労働者や自営業者等にも支持が広がっており商業化が進む現在も議席数を保っている。 - 進歩党
中道右派。元々は自由主義政党であったが、360年代の不況期から徐々に保守政党との結びつきを強めた。
介入主義の色彩が強く、軍拡路線と相まって左派政党から軍国主義的と非難されている。 - キリスト教民主同盟
中道右派。極端な自由主義を戒めているものの社会主義、共産主義を否定している。
支持基盤は資本家階級や商人層だが進歩党との喰い合いになっており議席数が伸び悩んでいる。 - 保守党
右派。東北部の地主や名望家を支持基盤とする保守政党。軍人との結びつきが強く、軍需産業との癒着さえ噂されている。 - 共産党
左派。党員の多くが社会民主党を離脱した急進派グループ。社会民主党の与党化により更に存在感を薄くしている。
- 社会民主党
- 歴代皇帝
| カール1世(建国王) | 在位346~353年 |
| カール2世(議会王) | 在位353~392年 |
| ヴィルヘルム2世 | 在位392~459年 |
| ヴィルヘルム3世 | 在位459~ |
- 歴代宰相
| ホーエンローエ侯爵 | 353~367年 |
| ビューロー侯爵 | 367~392年 |
| ベートマン・ホルヴェーク侯爵 | 392~411年 |
| A・ツィンメルマン | 411~428年 |
| G・キュールマン | 428~460年 |
| G・ハルテ | 460~ |
- 政策スライダー
| 民主的 | -◆----- | 独裁的 |
| 政治的左派 | --◆---- | 政治的右派 |
| 開放社会 | ---◆--- | 閉鎖社会 |
| 自由経済 | -◆----- | 中央計画経済 |
| 常備軍 | ◆------ | 徴兵軍 |
| タカ派 | -----◆- | ハト派 |
| 介入主義 | ◆------ | 孤立主義 |
経済
ウランと鉄鉱石を産出するため、電力と鋼鉄を利用した軍需品生産が盛ん。
寒冷な気候だが、天候操作可能なドーム型農業により農業生産を確保している。
また、安定した穀物生産は食品加工と牧畜を発展させた。
ケーニヒスベルク港を貿易港として各国との商取引を行っている。
対外貿易に際しては他国を経済的隷属関係に置くことを望まず、他国への富の還元を積極的に行い
「互恵関係で結ばれた自由と繁栄の経済的枠組み」の拡大を目指す。
- 農業、畜産業
主要作物は小麦とジャガイモ。ドーム型農場では野菜の他に大豆やトウモロコシなど飼料作物が生産されている。
畜産業の主力は牛であり、良質な飼料と行き届いた管理によって高品質の食肉、乳製品を生産している。
かつては消費分の食糧を自国で賄えていたが、現在は穀物や飼料作物を輸入に頼っている。- IGファルベン
複数の化学産業が合併して設立した会社。帝国の化学産業の屋台骨であり、
この会社の化学肥料が無ければ農業は成り立たない。また工業用化学物質の生産も行っている。
- IGファルベン
- 工業
かつては重工業が志向されたが、資源不足により軽工業が主流を占めている。
食品加工が盛んで、入植期から続く缶詰製造や伝統的なビール醸造、乳製品加工は高い評価を受けている。
特にビールとチーズの質は国内外で絶賛されており、食卓から地方の土産物まで帝国のあらゆる所に根付いている。- ノイハウゼン醸造所
国内最大のビール醸造所。地球時代からの伝統「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」を守っている。 - 普欧重工業
機械類、精密機器の製作を担っている。また帝国最大の軍需産業でもある。
自動車や航空機の製作も行っており、ライバル企業との競争が激しい。
- ノイハウゼン醸造所
- 商業
多くの人口を有する帝国は巨大な市場でもある。それ故、国内には巨大な商社が設立され流通や金融で大きな地位を占めている。
日用品から工業用機械まで取り扱うモノは様々であり、これらを取引する商社は経済の根幹を担っていると言っても過言ではない。- 普欧証券取引所
帝国の株式、債券取引の中枢。石造りの古めかしい建物が特徴。 - 普欧商事
半国営の商社であり、帝国唯一の総合商社。官民の区別なく国外からの商品輸入を取り扱う。
- 普欧証券取引所
外交
ノイエクルス自由国と冷戦状態にあったが、相互不可侵条約の締結により緊張緩和が果たされた。
それ以外の国との関係は良好。特に紛争も抱えていない。
大国としての矜持を重んじ、他国への開発・経済支援を先進国としての義務と捉えている。
平和主義を標榜し武力による強硬外交を控えているが、自国の面目を潰すような行動を取った国に対してはその限りではなく、
フリューゲル暦392年、国際社会への挑発を繰り返すイスアード教主国との戦争に踏み切った(イスアード戦争)。
348年にフリューゲル経済諸国同盟(FENA)に加盟、ティユリア連合王国、タピオカ連邦共和国との関係が深い。
402年に普欧・ティユリア神聖同盟を結成。世界平和と世界経済の発展のため外交に力を入れている。
- 締結した条約(失効したもの、経済協定を除く)
・普欧・華夏不可侵条約(456年)
・普欧・華夏安全保障条約(同上)
・普欧・ガトーヴィチ不可侵条約(454年)
・普欧・ブリテン不可侵条約(437年)
・普欧・タヂカラオ不可侵条約(406年)
・カレストノープル条約(402年)
・ノイエクルス・普欧不可侵条約(400年)
・普成不可侵条約(398年)
・フリューゲル経済諸国同盟条約(348年)
軍事
陸海空軍の三軍からなる。帝国徴兵法により20歳の男子は2年間の兵役義務を負う。
植民時代から陸軍の力が強く、ミサイル運用も陸軍の管轄である。
三軍、特に陸軍と空軍の対立が根深く、兵員分配から兵器開発まで多くの面で係争が絶えない。
豊富な軍需品供給能力を背景に砲兵、爆撃機戦力の増強に努めている。
陸軍
かつての植民戦争で矢面に立ち戦った(というより海空軍は当初存在していなかった)ことから強い権勢を誇っている。
しかし内部では砲兵閥と装甲閥の対立を抱えており、装備調達を担う企業も含めて暗闘を繰り広げている。
最近では自走砲と移動式ミサイル発射機の管轄を巡って激論が交わされ、自走砲とは別に直接火力支援を行う車両を発注するなど、陸軍内部に混乱を招きかねない状況となってしまった。
とはいえ、空軍との抗争に際しては各派閥とも陸軍全体の利害に沿って行動し、対外的には国軍としての体裁を終始一貫崩さない。
また最大勢力を誇る歩兵閥が軍政安定を志向しており、君主の信任も厚いため他派閥が均衡を崩すことは現状困難である。
なお、通常歩兵とは別に山岳戦を専門とする山岳猟兵部隊が設置されており、戦闘の他にスキーや登攀などの技術を磨いている。
自他共にエリートと認める山岳猟兵は帝国臣民の憧れの的であり、毎年多数の志願者が殺到するため合格が非常に厳しい。
除隊後も登山活動を続ける者は多く、各連隊では出身アルピニストの記録が誇らしげに語られるという。
- 兵科
歩兵科・・・通常歩兵、山岳猟兵、降下猟兵からなる陸軍最大の兵科
装甲科・・・戦車、駆逐戦車、装甲擲弾兵からなる兵科、砲兵科との派閥争いの結果「駆逐戦車」というものを生み出した
砲兵科・・・各種火砲、突撃砲、自走砲、各種ミサイル、野戦防空部隊からなる兵科、ミサイル運用は砲兵科の管轄である
偵察科・・・諸兵科連合の偵察部隊、特殊部隊、陸軍直協航空隊からなる兵科、普欧陸軍のドクトリンでは現場偵察部隊に大きな
権限が与えられ、偵察のみならず着弾観測や後方潜入など幅広い任務を担うことになっている
工兵科・・・戦闘工兵と建設工兵からなる兵科、他科と比べると地味な存在だが海外派兵の際には欠かせない兵科である
通信科・・・通信連絡部隊と電子戦部隊からなる兵科、偵察科との連携が近年重要視されている
整備科・・・車両整備部隊と火器管理部隊、その他機材の管理部隊からなる兵科、衛生科と並んで民間部門との技術交流が盛ん
需品科・・・燃料輸送部隊とその他物資の輸送部隊からなる兵科、普欧陸軍では個々の兵士、兵器の輸送は各科に配備される輸
送車両により行われるため需品科は物資輸送に重点を置いている
衛生科・・・医療部隊と衛生管理部隊、NBC防護部隊からなる兵科、人間はもちろん軍用犬や軍馬の健康も管理する
憲兵科・・・一般憲兵と野戦憲兵からなる兵科、軍内の秩序維持と交通整理を担っており他科から嫌われる存在
海軍
陸軍に次いで創設されたものの、372年に艦隊が建造されるまで活動が非常に低調であった。
建国当初、帝国は陸上での農業に国家の基盤を置いており、海外貿易と海軍の重要性は認められなかったのである。
他国との貿易が始まる350年になって海軍は陸軍(驚くべきことに陸軍の中に海軍の部署があったのだ)から独立するが、その戦力も組織の充実度も当初は問題にもならないレベルであった。
この状態が長く続いた要因は陸空軍の力が強かったこともあるが、最も大きい理由は商船に火砲とその要員を配しただけで十分に航海の安全が確保できたことであろう。それ故、海軍の増強は371年の海賊襲撃事件を待たねばならなかった
この事件は帝国沿岸を海賊船が荒らしたものであるが、事件後の帝国議会では悪天候により反撃が遅れた陸軍に対して轟々たる非難が浴びせられ、海軍増強を叫ぶ声が一挙に高まりを見せた。
海軍の軍拡派と工業界はこの流れを利用し、世論に艦隊建造の必要性を訴え出た。翌年、議会は艦隊建造の予算を承認する。
現在海軍は基幹戦力として戦艦1個戦隊と空母打撃群4個を整備し、あらゆる事態に即応できる態勢を整えた上で
沿岸防御に6艦隊を保有しており、他国の軍事力と比較しても領海防衛にはこれで十分との見解を示している。
- 保有艦隊
第1戦艦戦隊
第1空母打撃群「ピングイン」
第2空母打撃群「トール」
第3空母打撃群「アトランティス」
第4空母打撃群「ミヒェル」
第1艦隊(第1、第3巡洋艦戦隊、第1、第3駆逐戦隊)
第2艦隊(第2巡洋艦戦隊、第2駆逐戦隊)
予備艦隊(第4~6巡洋艦戦隊、第4~12駆逐戦隊他)
第1~6沿岸防衛艦隊
第1~12潜水戦隊
練習艦隊
空軍
三軍の中では創設が最も遅れたものの、現在は陸軍に次ぐ権勢を有する。
海軍と同じく当初は陸軍航空隊として発足しており、陸軍とは対立関係にあるが、海軍にも艦載機を巡って喧嘩を売っている。
植民戦争中、原住民の襲撃を退けた陸軍は攻撃に転じる際に航空機を投入、空からの恐怖で原住民を封じ込める作戦に出た。
この作戦は成功し、航空隊は後の原住民殲滅戦でも重要な役割を果たした。原住民側に対抗手段が無く、航空機を悪魔のように恐れたため、軍上層部は陸軍部隊を投入せずとも航空戦力だけで問題を解決できると考え、それを実行したのである。
効果は絶大であった。遠征に出る陸軍には兵站など様々な問題が付きまとうが、最早陸軍を遠出させる必要は無くなった。
冬の到来までに原住民の村の殆どは空からの攻撃を受け、原住民たちは逃げ惑った。猟犬の如く彼らを追い、隠れ家を暴いては殲滅し、村を焼き尽くすことは、彼らが“空飛ぶ悪霊”と恐れた機械にとっては容易いことである。
このように航空隊は大きな戦果を挙げたものの、植民戦争の終了後に陸軍は航空隊の処遇に困ることになる。
余りにも彼らの作戦は上手くいったため、陸軍上層部は陸軍の存在意義が失われるのではないかと疑ったのだ。
実際、戦争を通して航空隊は規模を拡大させ、次第に陸兵を嘲り我が物顔に振る舞うようになっていた。
その後、海軍が陸軍から独立すると陸軍航空隊の内部にも空軍独立論が巻き起こり、陸軍上層部は頭を抱えることになる。
いくら規模が大きいとはいえ、陸軍内の一部署に過ぎない存在を何故抑え込めないかというと、航空隊指導者層が戦争中から後の国王カール1世との関係を結んでおり、カール1世の国王就任に際しても真っ先に忠誠を誓う(この動きは陸軍上層部よりも速かった)ことで国王から特別な地位を保障されていたためである。また国王の前では航空隊の面々は常に猫を被っていた。
国王も航空隊の作戦が残忍なものであることは知っていたが、自らも指揮官として陣頭に立った植民戦争での彼らの武勲は認めざるを得なかった。何より、親衛隊の如く行動する航空隊は彼にとって実に心強い味方であった。
この点で陸軍上層部は航空隊に出し抜かれていた。植民戦争終了後に陸軍の派閥闘争は本格化するが、このタイミングは最悪である。航空隊に隙を見せ、更に悪いことに国王の不信を招いてしまった。こうなっては強硬策に出ることも厳しい。
ここで強硬策に出ることはクーデターと受け止められかねず、それは国王を敬愛する兵士の離反を招くだろう。そうなれば陸軍はおしまいである。陸軍存続のためには航空隊を切り離すしか方法は残されていなかった。
そして海軍の独立より2年後、352年に航空隊は空軍として独立することに成功する。
- 部隊編成
第1航空艦隊・・・首都ケーニヒスベルクを中心とする帝国中枢部を担当空域とする
第1~4戦闘航空団
第1~4爆撃航空団
第2航空艦隊・・・ゴットリーネンとナタンゲン東部を中心とする帝国南部を担当空域とする
第27、77戦闘航空団
第30、54爆撃航空団
第3航空艦隊・・・ケーニヒスベルク以西、ナタンゲン西部を中心とする帝国西部を担当空域とする
第6、26戦闘航空団
第6、26爆撃航空団
第4航空艦隊・・・アルナウを中心とする帝国東部を担当空域とする
第51~54戦闘航空団
第55爆撃航空団
第1~3地上攻撃航空団
第5航空艦隊・・・ノイハウゼン~ラビアウを中心とする帝国北部を担当空域とする
第5戦闘航空団
第40爆撃航空団
防空師団・・・都市や工業地帯の拠点防空を担当する、戦闘機との連携のため陸軍から移管された
歴史
帝国の歴史はケーニヒスベルク大学の歴史学部に設置された委員会と民間有志が共同で編纂している。
建国50周年を機に国史研究が盛んとなったが、依然文化史と軍事史の研究も充実している。
建国以前(347年以前)
- 植民船団BC110-Aの遭難
フリューゲル暦340年代初頭、地球を発進したBC110-A植民船団は暗礁宙域に突入、海賊や怪獣の襲撃を受け離散してしまう。
船団指揮官の乗艦は真っ先に沈められ、逃走に成功した船も混乱を極めていた。しかし、護衛艦の1隻「エムデン」が離散した船を糾合、生き残った船を率いて宙域からの離脱に成功する。この「エムデン」の艦長こそ、後の建国王カール1世であった。
生き延びた船の多くは針路を地球に向けようとするが、カール1世はそれを認めず、出鱈目な方向に舵を切った。
この判断は間違っておらず、地球やフリューゲルへの航路上で待ち伏せていた海賊たちを見事避けることに成功したのである。 - フリューゲルへの不時着
だが、その後の船団が受けた苦難は想像を絶するものであった。
満足な武装を持つ船は「エムデン」1隻のみであり、その「エムデン」も戦闘力の低いフリゲートでしかなかった。
船団は落伍や襲撃により1隻、また1隻と数を減らし、さらに通信艦を失っていたため救援を呼ぶことも出来なかったのである。
多大な出血を伴い、生き残った船も手ひどい損害を負った船団は、地球や本来の目標への航行を諦めフリューゲルへと向かう。
カール1世の卓越した指揮でも犠牲は避けられず、1隻の船が沈むたびに数千名単位の生命が失われた。
やがて船団はフリューゲル周辺まで到達するものの、多くの船は機能を喪失し、また本来の目標ではなかったためフリューゲル側も船団を観測できなかった。このため船団は着陸すら満足に行えず、漂流するかのように北の大地へ不時着したのである。 - 戦争の如き植民
不時着した船団を待ち受けていたのは過酷な自然環境と敵対的な原住民であった。
伝染病や原住民の攻撃により植民は戦争の如き状況を呈し、寒冷な気候や痩せた土地から来る食糧不足はそれに拍車をかけた。
船の食糧はこれまでの過程で多くが失われ、土地改良と農場建設には時間がかかる。
しかし原住民の村を略奪することに時間はかからなかった。そして最初の冬を越した時には、既に原住民は姿を消していた。
翌年には開墾が進められ、残された植民機材が稼働を開始したことで当面の危機は避けられたものの、この時の経験は帝国の歴史と人々の脳裏に深く刻み込まれることとなった。
建国前後(347年~347年)
- カール1世即位と国家建設
カール1世はBC110-A船団遭難から原住民との戦争まで一貫して陣頭に立ち続けた人物であった。
そのため、越冬後には自然と生き残りを取りまとめる役割を担っていた。もともと貴族出身であり、教養と立ち振る舞いは洗練され有能な部下も持っていた。さらにライバルとなる人物もいなかったのである。
346年、彼は国王に就任、国家建設を宣言する。 - 建国宣言
347年、ようやく他国との接触に成功。正式に建国を宣言する。
もはや本来の目的地への入植は不可能であり、さらに原住民を抹殺して自らが拠って立つ基盤を築いた以上、彼らがこの地を離れることはできなかったのである。また入植地を捨て他国に保護を求めるのも危険だと考えられた。
船団遭難時の状況は伝わっておらず、反乱や脱走を疑われることは有り得ない話ではなかった。つまり自分達が犯罪者扱いされない保障はどこにも無かったのである。それに自分達の国王は真っ先に疑われる対象となるだろう。
それは、これまでカール1世の下で働いていた部下にとっても植民者達にとっても許容しかねることであった。我らの王は潔白であり、我々もまた反逆を企てたことなどありはしない。それを証明するため、彼らは本来の仕事を実行することにした。
すなわち、独立を宣言し国家を建設したのである。 - 国家の基盤形成
フリューゲル暦347年10月、普欧帝国として独立した植民者たちは国家の基盤作りに取り組むことになる。
開墾こそ順調に進んだものの、各種物資の生産を始めなければ備蓄を喰い潰した後に破滅が訪れることは明白であった。
彼らは建国前に発見していた炭鉱の開発を推し進め、森林を伐採し家や製品を作り上げた。
翌年には市場が開かれ、農業生産が安定したことから食品加工を行う工場も建設される。
この帝国初の工場では缶詰などの保存食が製造され、閉鎖までに5,317,221食分の生産を記録した。
工場は既に取り壊され残っていないが、機械や工具の一部はケーニヒスベルク大学の博物館に収蔵され一般公開されている。12520期 347年 10月建国348年 2月初の市場を建設348年 4月初の工場を建設
産業育成と国家発展(348年~352年)
- 各国との経済提携と鉱業開発
348年~352年は帝国の成長著しい時代であった。
帝国は348年9月にフリューゲル経済諸国同盟(FENA)へ加盟、加盟国と関係を結ぶ。
翌349年8月にはミッドガルド帝国との間で鉄鉱山共同開発が開始され、鉄鉱採掘施設と港湾の整備が為されている。
また350年1月、ユーフォリア帝国から20兆Val、建材3億tにも及ぶ無償援助を受け、帝国はウラン鉱山の開発に乗り出した。
現在も帝国の経済を支えるウラン鉱山、鉄鉱山はこの時建設されたのである。 - 産業育成と首都ケーニヒスベルク設立
350年12月、ウラン鉱山の麓に発電所が建設され付近の工場への電力供給が為された。
カイザー発電所と呼ばれるこの発電所は特殊な核分裂と核融合を併用する発展核融合方式を採用し、384年に第二発電所が完成するまで帝国の電力需要を一手に担った。
電力供給を確保した工業界は生産を一挙に拡大し、この時期より帝国の工業において機械業が占める割合は上昇を始めた。
この工業振興と連動して商業もまた発展し、同時に進められていた領土拡張も順調に進んだことから人口増加と産業の高度化が恐るべきスピードで進行、カール1世は支配領域の拡大を受けて政治権力の集中を図り、351年に首都建設計画が実行に移される。
翌352年に首都ケーニヒスベルクは完成を迎え、カール1世は同地に居を据えた。348年 9月FENA加盟349年 8月ミッドガルド帝国との鉄鉱山共同開発開始(援助物資受領)349年 11月港建設350年 1月ユーフォリア帝国から無償援助(20兆Val、建材3億t)350年 2月ウラン鉱脈発見350年 9月ミッドガルド帝国との鉄鋼貿易開始350年 12月発電所建設352年 10月首都ケーニヒスベルク完成
民主化と高度成長の時代(353年~357年)
- カール2世即位と民主化達成
353年7月、建国以来その責務を全うしてきたカール1世が退位、皇太子カール2世が普欧国王/普欧帝国皇帝に就任した。
カール1世の統治は国家運営の全てに彼が責任を負う形となっており、年を追うごとに彼の心身は消耗していった。
皮肉なことに、国家発展と領土拡張が順調に進んだことで彼の健康は損なわれてしまったのである。
父に代わり国王に就任したカール2世はもはや国王1人による統治システムでは帝国を治めきれないと判断、
ラジオにて議会開設を宣言し、翌月に第1回帝国議会選挙が実施された。 - 現代都市建設と高度成長
354年1月、国家規模の拡大を受けて行政府内に教育とインフラ政策を担当する部門が発足、教育システムの構築が始まる。
同年7月には首都ケーニヒスベルクにケーニヒスベルク大学が設立され、重工業化と商業拡大に目処が立った。
この頃、帝国は究極繁栄賞を受賞する程に国家規模を拡大させていたが、商業規模はごく小さなものに過ぎず、
財政は燃料、鋼鉄の輸出に頼っていた。しかし、これ以上の国家発展には商業拡大が必須なのは明らかであり、
このため355年には首都機能の更なる拡張と現代都市の建設が実施された。
これを機に帝国の産業は著しい発展を遂げ、翌356年には工業都市が建設され、357年には観光都市が続いた。
また、教育制度整備に前後して畜産業振興、インフラ整備、防災都市化も同時に進行しており、
353年~357年の帝国はまさしく高度成長と繁栄の時代にあったと言えるだろう。353年 3月何かの卵2個を連続発見、学術調査が行われる353年 4月繁栄賞を受賞353年 7月カール1世退位353年 8月新王カール2世戴冠、議事堂建設、超繁栄賞を受賞353年 11月畜産場建設354年 1月首都機能拡張(Lv2)、教育投資開始354年 7月ケーニヒスベルク大学設立(教育指数30)、重工業へ転換、究極繁栄賞を受賞354年 11月公共投資開始355年 2月遊園地建設355年 5月防災都市化開始355年 7月首都機能拡張(Lv3)355年 9月現代都市(クナイプホーフ)建設355年 10月社会保障制度の整備開始356年 10月ラビアウ大聖堂(カテドラル)完工、工業都市建設357年 8月観光都市建設
災厄と停滞(358年~372年)
- 経済混乱とアルナウ大震災
しかし358年には、53年から続く好況も終焉を迎え、帝国を深刻な経済混乱が襲うのである。
この年の1月に開かれた議会では開催初日に国土開発計画の修正が迫られ、議員たちは新年早々に難題を突き付けられた。
まず第一に問題となったのが重工業政策の転換である。前年度から工業拡大に鋼鉄供給が追い付かない状況が続いており、
58年には工業生産が頭打ちとなるところまで至ってしまったのである。また、保守派議員は軍需産業への鋼鉄供給が
途絶えることを危惧し、三軍省と軍需省、商工務省から成る委員会が設立され工業政策の再検討が行われた。
長い討議の末、委員会は鋼鉄の軍需産業への集中を決定し、工業政策は軽工業への逆コースを余儀無くされたのである。
これによる工業生産高の減少により普欧の商業は少なからぬ打撃を受け、後述する観光都市計画の中断もあって
経済混乱を引き起こすこととなった。
観光都市計画とは、読んで字の如く観光都市の建設計画であり、帝国の財政基盤強化のための施策であったが、
前年度に建設された観光都市周辺では地元住民による観光都市廃絶のデモが続発、逮捕者まで出す騒擾事件となってしまう。
これを受けた議会では観光都市計画の見直しを叫ぶ声が高まり、激論の末に計画の一時中断と修正案提出が決定された。
これらの国土開発計画の挫折と好況の終焉により帝国経済は急激に失速、更に翌59年には追い討ちを掛けるように震災が
帝国を襲った。死傷者100万人を越す大惨事となったこの震災はアルナウ地方を震源とすることからアルナウ大震災
と呼ばれる。この大震災と経済失速によって帝国は実に14年に渡る長い不況の時代に突入するのである。 - 365年不況
365年、アルナウ大震災と経済失速による不況問題は、365年不況と呼ばれる頂点を迎えた。
当時、長い不況により企業倒産や労働者の解雇は年を追うごとに増加し、恐慌に対する不安は社会全体を覆っていた。
そんな中、365年4月に中小銀行のひとつが取引停止に追い込まれたという噂が市中を飛び交った。
後に噂は虚偽と判明するが、これをきっかけに預金引き下ろしの嵐があらゆる銀行を襲うこととなり、
翌月までに銀行の2割が閉業に追い込まれる事態となった。当然ながら市場は大混乱に陥り、
失業者はデモを繰り返し、最後には国外へ職を求めて出国するに至る。国外流出者数の正確な把握は困難であるが、
この時帝国は超災難賞を受賞している。358年 1月軽工業へ転換、観光都市計画中止359年 4月アルナウ大震災発生、100万人死傷、災難賞受賞365年 4月365年不況発生、超災難賞受賞367年 10月ホーエンローエ内閣解散、ビューロー内閣成立
軍拡と宇宙開発、そして経済再建(373年~385年)
- ビューロー内閣による経済再建計画
365年不況の2年後、議会開設から帝国宰相の座にあったホーエンローエ侯爵が辞職し、ビューロー侯爵が後継者となった。
ホーエンローエ侯爵の辞職の要因としては本人が高齢だったことが第一に挙げられるが、長引く不況に対して有効な手立てを
打てなかったことも見逃すことはできない。後任のビューロー侯爵はその点をよく弁えていた。
彼は就任直後から経済再建に向けて精力的に職務を遂行し、経済政策の再編により景気動向はようやく上向きに転化した。
就任から5年後、373年の一般演説で長期不況からの脱出が宣言され、普欧経済暗黒の時代は終わりを告げたのである。
その原動力となったのがビューロー内閣による経済再建計画であった。その内容は軽工業とその販路へのテコ入れと観光業
への再着手、そして軍備拡大とセットとなった宇宙開発である。 - 軍拡と宇宙開発
373年の議会に提出された予算案では科学振興の予算が例年より多くなっていた。当時これは宇宙開発を目的とするもの
であると説明されていたが、現在では提出された予算案は軍部の思惑と結びついていたことが明らかとなっている。
その思惑とは敵国からのミサイル攻撃を防ぐ防衛衛星や、敵衛星破壊用の軍事衛星、そして攻撃又は報復用途の衛星レーザー
の開発であり、国家規模の拡大とそれに伴う新たな戦争形態への対応策であった。
無論、表面上は気象衛星や観測衛星、迎撃衛星打ち上げによる自然災害のリスク軽減などが前面に押し出されており、
議会も予算案を承認したため同年中にロケット発射台の建設がスタートすることとなった。
衛星打ち上げには科学省管轄下の宇宙開発機構とケーニヒスベルク大学のナウマン博士らのチームが中核メンバーとして
参加し、4度の打ち上げ失敗の後、378年2月14日に気象衛星の打ち上げに成功した。
その4年後、382年には観測衛星も打ち上げられたが、それと並行して通常戦力の拡大も実施されている。
この時、軍高官の間では宇宙開発の進捗が思わしくなく、軍事用途の衛星打ち上げが予定より遅れるという焦りが生じており、
軍事用途の衛星打ち上げまでの間は通常戦力拡大を実施しなければならないとする方針が絶対視されたのである。
このため、381年には鋼鉄の禁輸政策(ただしティユリア連合王国とは取引が継続された)が実施されている。372年 3月宰相ビューロー、一般演説で不況脱出宣言373年 3月軍拡が本格的に開始373年 4月ロケット発射台建造377年10月建国30周年378年 2月気象衛星の打ち上げに成功381年 3月鋼鉄輸出凍結382年 2月観測衛星の打ち上げ成功384年 11月第二発電所完工
外交への注力、成功と国際情勢の波乱、戦争(386年~398年)
- 新外交の展開とその成果
ビューロー侯爵が宰相の地位にあった期間の中で、最も彼の手腕が評価されるのは386~89年である。
386年は成蘭共和国(現成蘭連邦王国)との間に普成援助・通商条約が締結され、442年現在も続いている両国間の
経済協力関係が構築された年であり、翌87年はエスタニア・クルチャ国(現エスタニア共和国)との国交樹立、
89年は帝国の対外政策のひとつの理念であるケーニヒスベルク議定書がFENA諸国間で可決された年である。
我が国の謳う搾取的貿易の放棄と共存共栄を旨とする互恵関係の理念はこの時に形となったのであり、
その成果は普欧の精神と外相を務めた経験のある宰相のリーダーシップがよく発揮されたものと高く評価されている。 - イスアード秘密外交の発覚と大政変
- イスアード秘密外交の発覚
しかし、ビューロー内閣はケーニヒスベルク議定書可決から僅か3年後には解散を迫られることになる。
その原因となったのがアースランド共和国のフィオーレ王国への移行問題と、それを巡るイスアード教主国の
秘密外交である。当時、フィオーレ王国をいち早く承認したノイエクルス連邦と不承認を決定した
ミッドガルド帝国、成蘭連邦王国、イスアード教主国との間に緊張が高まっており、実際にノ連とイスアードの
間では品位に欠けているとしか言い表しようが無い発言の応酬が繰り広げられていたが、
391年11月にフィオーレ王国が国家解体宣言と同時にイスアードより送られた秘密文書を暴露したことにより
中立を保っていた国内世論は大きく揺さぶられることとなった。同文書では、イスアードがフィオーレ王国を
承認する条件としてフィ王国が銀を格安でイスアードに提供する(当時イスアードは成蘭向けの銀輸出に依存していた)
ことを要求しており、その際にイスアードが普欧(成蘭商品を輸入)と成蘭に圧力を行使し両国にフィ王国を
承認させることを仄めかす内容が記されていた。そしてこの文章が国民の間に知れ渡ると、世論は急激に
反イスアード色を帯びることとなった。イスアードの取った行動は我が国の理念とする搾取的貿易の放棄と
互恵関係構築を真っ向から否定するものであり、更にはカール2世陛下が同国とノ連の関係改善に協力する
ことを表明した際には次のような恫喝めいた回答―「ここで我が国が融和的な態度を示せば国内の信徒が自爆テロを
起こすことも予想されますので。」―を寄こしたことで、同国に対する国民の怒りは頂点に達したのである。
- イスアード秘密外交の発覚
- 挙国一致内閣の樹立とビューロー侯爵退陣
翌12月には政府は対イスアード断交に踏み切ったが、ビューロー内閣は開戦まで進む気は無かった。
しかし、年明けには事態は悪化の一途をたどることになる。断交に対してイスアードが銀価格改定協議を材料に
取引を持ちかけ、更には我が国に「模範的な外交」を求めたことで世論はますます沸騰し、最後にはノ連が
対イスアード宣戦に踏み切ったのである。そして1月16日、この情勢の急激な変動を受けて実施された総選挙の
開票が行われ、対イスアード強硬路線を主張した進歩党が圧倒的勝利を収め、反戦を主張した社会民主党が
敗北したことにより全てが決まった。それまで政権の中心を担ってきた中央党と進歩党の力関係が逆転した
ことによりビューロー内閣は退陣を余儀無くされ、ベートマン・ホルヴェーク侯爵による挙国一致内閣が成立、
開戦に否定的だったカール2世陛下も大権行使を拒否したため、最早戦争は避けられぬ事態となったのである。
- 挙国一致内閣の樹立とビューロー侯爵退陣
- 新帝即位と対イスアード戦争
総選挙の翌日、カール2世陛下は退位を表明、1月27日に新帝としてヴィルヘルム2世が即位した。
明けてフリューゲル暦392年1月28日、帝国政府はイスアード教主国に宣戦を布告し、新帝もそれを承認、
ここに対イスアード戦争が始まった(戦闘開始は同年4月から)。即位当時29歳のヴィルヘルム2世にとって
この戦争は自身の権力基盤を固める絶好の機会であり、議会演説での熱の入れようはかなりのものであった。
一方、政府は宣戦布告に先立ち亡命者受け入れ準備を実施し、またノ連・南瓜軍に共同作戦展開を提案したが、
後者は戦後復興や第三国人の保護に関する立場の違いから実現することなく終わっており、このことが
後の普欧・ノ連間の冷戦状態への端緒となったとする学者は多い。
戦争自体は終始普欧軍とノ連・南瓜軍優位に進んだものの、ノ連軍の爆撃は観光都市にも及んでおり、
同国軍の攻撃の苛烈さはヴィルヘルム2世のみならず全国的な抗議運動をも惹起することとなった。
また、ノ連軍の攻撃開始と共にイスアードから我が国に亡命者と難民が殺到する事態も生じたが、政府の事前準備により
受け入れがスムーズに行われたことから住民とのトラブル等も予想より少なく、むしろ彼らへの同情と反戦感情が高まり
戦争終結を求める声が次第に大きくなるのである。 - 戦争終結の過程
5月に我が軍がイスアード本土への上陸に成功したことにより戦争の趨勢は決定付けられたものの、戦後処理に関する
構想は我が国の亡命ビスト人(イスアード人)による新政権成立とイスアードの再建を目指すものと、ノ連が主張する
戦勝国と国際統治委員会による分割統治構想に分かれており、戦争終結への道は平坦とは言い難いものであった。
しかし、5月下旬にその状況を一変させる出来事が起きた。教主イスカンダル氏の我が国への亡命である。
イスカンダル氏は元より戦争を望んでおらず、また4月から開始された空爆により民衆が苦しんでいることを憂慮していたが、
楽観論と敵国の残虐さを強調する側近たちが彼に勝利は近いと甘言を弄していたのである。だが、それに反して我が軍の上陸
作戦が開始されるに至ると、もはやこれ以上の犠牲は無用と考えるイスカンダル氏は降伏を決断、少数の護衛と共に我が軍の
支配地域へと脱出した。司令官と面会したイスカンダル氏は和平とビスト人の保護、カール2世陛下との面会を願い出ており、
現地軍はすぐさま普欧本土への移送を手配、翌日普欧に渡ったイスカンダル氏は亡命ビスト人政権と共に講和実現に尽力する。
一方、教主の降伏により士気を喪失したイスアード軍の抵抗は6月のサバラン攻防戦を境に著しく弱まり、8月末には
イスアード政府首脳が逃亡したことで戦闘終結が宣言された。同月、普欧本土で発足した亡命ビスト人政権と普欧政府との間で
講和条約の交渉が行われ、亡命ビスト人政権首相アフメド・カースム氏が条約に調印したことでイスアード戦争は終結した。 - イスアード戦争の影響
一年足らずで終結したとはいえ、イスアード戦争が我が国に与えた影響は大きいものであった。
戦争の勝利により新帝ヴィルヘルム2世の権勢は大いに高まり、以降皇帝は自身のリーダーシップにより強力に
国民統合を推し進めた。というのも、幼少より父親から植民期の先人達の逸話や開拓の話を聞いていた若き新帝は、
帝国を自身の理想とする国家像に適合させることに情熱を燃やしていたのである。イスアード戦争の勝利は
そんな彼の目論見にとって追い風となった。ヴィルヘルム2世はこの戦勝をかつての植民戦争と結び付け、
“世界に冠たる普欧民族は陽のあたる場所を求める”と帝国のフリューゲル世界への進出を掲げたのである。
この方針のもと、イスアード戦争後の帝国では戦勝記念碑の建設や歴史教育への注力などの政策がとられ、
それは宗教政策のような社会的なものから学校や職場における生活規範の布告といった個人の領域に至るまで
徹底的に行うことが志向された。本項目の記述も当時のような雰囲気では到底公表できなかったであろう(注
しかし、新帝の目論見は早くも躓くことになるのである。
