2014/07/19 14:41:01
[url=http://tanstafl.sakura.ne.jp/uploads/isulugi_1405748249_%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B1%8A%E4%B9%85.JPG][img align=left]http://tanstafl.sakura.ne.jp/uploads/thumbs/isulugi_1405748249_.JPG[/img][/url] (退却しようとする防衛隊将校に対し、少弐頼久)(丘州副岡市、国際部:吉田兼世)
541年1月15日、吉備秋津義勇軍との丘州会戦における惨敗の結果、大幹帝国防衛隊丘州征伐師は、ついに丘州からの撤退を決断した。最新鋭装備を有し、歩兵戦術を極めた精鋭大幹帝国防衛隊が、よもや刀で武装した集団に惨敗しようとは、誰が予測できたであろう。
また、防衛隊惨敗の要因となったのは秋津のサムライたちの活躍だけではない。武装した副岡市民の頑強な抵抗もその一因と言える。
現在の副岡は中夏系秋津人武器商人らの重要な拠点となっており、そこに住まう副岡市民は老人から子供に至るまでが日常的に重火器類で武装していたのである。
[url=http://tanstafl.sakura.ne.jp/uploads/isulugi_1405748187_88b3b6c5.jpg][img align=left]http://tanstafl.sakura.ne.jp/uploads/thumbs/isulugi_1405748187_88b3b6c5.jpg[/img][/url]
(写真:一般的な副岡市民)
こうした結果、秋津義勇軍は今回の戦闘結果を[b]「敵の首級3000に対し我が方の死者74名」[/b]という異様な数字で締めくくった。
正統吉備皇国(南朝)政府は、今回の戦闘を、現在の南朝の年号が「応叡」である事から[b]「応叡の外寇」[/b]と命名し、「是証左本朝王道之義也。祝着々々。(これは我らが王道を歩んでいる事の証左と言えよう。めでたいめでたい)」と、まるで今回の戦闘が自分たちの手柄であるかのような声明を発した。
一方の第三帝国(北朝)政府は、今回の戦闘を「丘州会戦」と呼称していたが、友軍の予想外の大敗に騒然とし、「南朝との戦いに散った偉大なる防衛隊勇士のご冥福を祈るとともに、一刻も早く人の皮を被った化物である南朝どもを征討しなければならない」との声明を発した。