とあるリント大学教授
はじめに
本稿は、「連合帝国憲法案」と題された憲法草案に対し、君主主義的立場から批判を加えるものである。この草案は、一見すると国家機能の制度的枠組みを整え、国民の権利保障を拡充するかのように見えるが、その内実は極めて危ういと言わざるを得ない。すなわち、本憲法案は、君主の存在を象徴的にまで貶め、統治秩序の頂点としての権威を完全に剥奪し、大衆の一時的な情動と嗜好に支配された「扇動的政治体制」へと国家を陥れる設計となっている。本稿では、特に第48条から第55条までの条文を中心に、その欠陥と破綻を明らかにし、君主制国家の理念からいかに逸脱しているかを論証する。
1.君主の権威なき「改正制度」
国家秩序の破壊装置である第55条は、憲法改正について元老院両院の3分の2以上の賛成および国民投票による承認という二重の要件を課しているが、問題はその最終決定権を皇帝に与えていない点にある。皇帝は単に公布を担う存在とされており、拒否権すら持たない。これは、君主が統治の精神的核として国家の憲法秩序を最終的に承認、守護する機能を奪われた状態であり、もはや「君主制」とは呼べない。国民感情に迎合した一過性の熱狂が憲法を変容させることを防ぐ知恵としての制度的根拠を無視しており、事実上の衆愚的共和制への転落である。
2.国家理念を侮辱する文化条項
第50条の大衆文化礼賛第50条は「すべての国民は、アイドル等を鑑賞および応援する権利を最大限保障する」と規定し、政府に対して公演施設の整備義務を課しているように読める。これは、法的文書としての憲法の品格を著しく損なうものであり、国家の憲法にポピュラーカルチャーを明記するという驚愕の軽薄さを晒している。さらに深刻なのは、これが「文化的生活」や「精神的自由」などの抽象的な権利を装いながら、実態としては大衆的趣味を国家政策に昇華する制度化された衆愚政治であることだ。提案者はいずれ伝統になるとでも言うのかもしれないが今現在そうではないし特にルーンレシアでは考えられないことである。
3.「公共の福祉」概念の濫用と恣意的制限の構造
第48条及び49条では「公共の福祉」に基づく自由の制限を認めているが、問題はこの公共の福祉が極めて曖昧で抽象的なまま放置されていることである。この状況において、「公共の福祉」は時の政治勢力による恣意的な解釈と運用の道具となり、臣民の自由を広範囲に制限する口実となる。君主が存在することによって担保される法の安定性や価値の持続性が、制度上まったく考慮されていない。
4.君主の「機械化」と象徴主義
憲法全体を通して見ても、皇帝の役割はほとんど儀式的・象徴的なものに終始している。国家の元首としての責任、判断、介入、監視といった権能を一切与えられていない。これは、君主を「国家が国家たり得るための存在」ではなく、国家運営において無関係な「飾り物」へと堕落させる暴挙である。君主とは本来、人民の上に立つ支配者であり、政治の安定と伝統の継承を体現する存在である。これを単なる公布役とする本憲法案は、君主という制度の意義を全否定する暴力的破壊に等しい。
結論
「連合帝国憲法案」は、外見上は秩序だった憲法を装っているが、その実態は君主制の精神的基盤を破壊し、国家の品格と統治の持続性を根底から崩壊させる反君主的暴挙である。皇帝を象徴化し、文化政策を大衆迎合化し、統治の重心を流動的多数の手に委ねる構造は、君主国家の自己否定であり、国家そのものを愚衆の気まぐれに委ねる無責任体制である。このような憲法案は、君主主義者の立場からは断固として否定されるべきであり、その公表自体が国家に対する冒涜であるとさえ言えよう。