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ある影を追う者

 ジャスパー市内の共和国議会議事堂から出るにあたって、彼は―あるいは彼女は―歩いて2ブロックほど離れた宿泊先のホテルに向かうことにしていた。どう考えてもこの状況では「歩いて」出ることなど考えられないはずであったが、彼―あるいは彼女―の前々からの強い要求により、内務公安委員会はホテルまでの道のりを完全に封鎖することで野次馬を排除し、「歩ける」道を強引に確保したのであった。護衛が自分のすぐ近くにいることを嫌い、少なくとも数十メートルは離れた場所から護衛することを求めたのは不用心に過ぎたかもしれなかったが、どうせ遠からずそのような護衛を受けるような身分ではなくなるのであるし、そもそも周囲に人がいない状態で歩くことができる日が次に来るのがいつなのか分りもしない以上、少々の我儘は許されてしかるべきだというのが正当化であった。議事堂の陰から抜け、真夏のα星Aの陽光が作る自らの影を追いかけるように歩を進めながら、彼は―あるいは彼女は―今日このような状況になるまでの自分の人生を思い返そうとしていた。

追憶

彼は―あるいは彼女は―自らの役割を、「与えられた役割を果たすための影」として認識していた。これは自らの名前に由来するものであった―国際共通語に訳すと自分の名前が妙な意味になることは少市民として初等教育を受け始めてすぐに知ることになったが、親に名前の由来を聞くことはしなかった。彼の―あるいは彼女の―両親はともに一介の住環境委員に過ぎず、生涯を通じてカルセドニー英語以外の言語を話す機会を持つようには見えなかったから、国際共通語でどんな意味を持つかを意識して名前を付けたとは思えなかったのである。彼が―あるいは彼女は、いや、ここからは単に彼と呼ぶことにしよう。国際共通語がTheyに相当する単数形の代名詞を欠いていることに問題があるのだ―その名前の最初の二文字を貰った方の片親は国際共通語に直すと「免許を持っていないこと」というこれまた珍妙な意味になってしまうことも、その考えを強化する一端となった。いずれにせよ、彼は自らの名前の国際共通語での意味を理解し、それが「自らがこの世界の主人公ではない」ことを確かめるために十分なものであると考えていた。

彼が親から受け継いだものは最初の二文字と、その両親の官僚という職業への意志のほかには反面教師的な物ばかりであった。国際共通語を少市民時代に学校から強要される「語学」と称する拷問の一部としてしか認識していなかった姿勢、住環境委員として街中から煙草を追い払うことを仕事にしていたのにもかかわらず本人はヘビースモーカーであって、何なら自分たちの決めたルールすら時には破って街中への煙の供給の一端を担っていたこと、「火を良く通す」ということに対する異様なこだわりから「ウェルダン」という言葉の由来が旧世界の世界大戦の戦場か何かから来ているのではないかと思わせるような焦げ臭い料理しか作らないこと、これらはすべて彼の少年期において逆向きの偏見を植え付けるには十分な”教育”であった。

結果として、彼が14歳の時に両親の住環境委員会ではなく、外交委員会を進路として選んだことは、それほど驚きを持っては受け止められなかった。国際共通語の成績が非常によかったこと、両親の仕事が「自己矛盾」に陥っていることについては両親たちも実のところ認めざるを得ないこと、食事の趣味が海外のものに寄っているように見えることはすべて彼の目指すべき進路を正当化しているように見えたのである。最後に関しては海外志向というより、両親の料理の品質と、カルセドニーにおける「自国料理」のクオリティに起因するものであったのだが。

いずれにせよ彼は外交委員会を選び、委員会傘下の通商に関わる企業への就職ではなく、外交委員会本体への入会を視野に入れた高等教育を受けるルートを選択した。これは当然厳しい選抜を通過する必要があったが、彼はそれ自体を苦行とは思わないほどには優秀だったのである。4年間の中等教育を終え、19歳になる年にカーネリアン大学の国際関係学部へ入学した。この大学はあらゆる意味で国内最難関というわけではなかったが、国内最古にあたり、諸外国との交流も活発であった。冰州連合に対する学術支援ロムレーのマノン・ナタリー・ル・シャプリエ元国連大使サンシャ独立国のワィアピ=タイマニャ=ワラカ元駐加大使といった重要人物を含んだ留学生Alumni、カルセドニー史ミルズ史といった数々の国際的影響力のある歴史資料の執筆など業績は数知れず、「海外」に目を向けるのであればこの大学を選ぶことは自然な選択であった。

やたらと声が高い常に緑色の格好をした教員からFUNの制度を学び、その科目で履修者中最高の成績を取ったことは、彼が自らに課せられた「役割」を認識させるきっかけとなった。彼は期末レポートにおいて国際社会を「現実主義」と「ロマン主義」のせめぎ合いとして定義し、平和を維持しようとする現実主義に対する乱を求めるロマン主義が存在することを論じた上で、現実主義者たちが後者を完全に無視することは一種の理想主義に陥りかねず、かえって現実主義の立場から遠ざかることを主張した。このような発想はどうやら特異なものであったらしい。緑色の教員は彼を研究室に呼び、ほとんどの学生が「平和を保持するために国際法をどのように定義するか、どのようにそれを守らせるか」という議論に終始し、「戦争を起こしたいという内在的な欲求」が国際社会の背景に隠れているという考え方を提示していなかった中、彼のレポートは異彩を放っていたことを告げた。こうして、彼は自らが「各国間関係」に関与することでその「役割」を果たすことができるだろうと認識するに至った。

緑色の教員の推薦状が効いたのかどうかは分からないが、カーネリアン大学で修士課程までを終えた時点で彼は外交委員会の国際組織に関する部門へ配属された。最初は新人向けの「低リスク」業務としてWTCOの文書の山を整理する仕事をさせられていたのであったが、早い段階で希望していたFUNにおける業務に回されることになった。客観的には、彼は野心的で、自らの地位を向上させることに執心しているからこそこのような例外的な速さでの出世を果たしているというように見えた。しかしながら、彼はあくまで「役割を果たすための影」としての存在として自らを位置付け続けていた。彼自身の「自らが果たすべき役割」への認識がやや「普通離れ」していたことを「野心」として受け取られるのはやむを得なかったかもしれないが、これは彼が単純に一般市民より優秀であることを自認していたにすぎないのである。

この頃、彼は生涯の上司であるインクォ・アゲートに出会った。彼は1020年の政変以降「三大城塞」の地位向上を憲法にビルトインしようと訴え続けている台形派の一員であり、そのような路線に対してもかなり積極的に活動していた。彼自身はインクォほど積極的に台形派のイデオロギーに共鳴したということはなかったが、台形派の外交思想である「芹光対立こそが国際社会の重要なマターである」という考え方には意識を引き付けられるものがあった。外交委員会内の主要派閥のもう一方である正方派は、「国際法の墨守」を重視する声があまりにも強く、「現実の国際社会において生じている対立」を単純な形で片づけてしまおうとしているのではないだろうかと思わされた。それに対して、現実の対立関係を基準に国際社会をSpecifyしようとする台形派の発想はより「現実的」であり、望ましい態度であるように感じられた。

こうして、彼はインクォ・アゲートの「影」となった。台形派の推し進める親セリティヌム的な外交路線を表向き支持し、それに沿う形で働き続けることで、とうとう「国際組織閥」の昇進の一種の頂点である国連大使の地位を手に入れることとなったのである。彼自身は必ずしもセリティヌムを重視すべきであると確信しているわけではなかったが、外交委員長となっていたインクォのスタンスの実施者となることが自らの役割であると考えていた以上、彼自身の思想について深く考える必要はそもそもないのであった。

このような中で発生したのが、KPO諸国によるエーゲ委任統治領への攻撃であった。KPO諸国の行動―過剰気味のミサイル攻撃、強制敗戦後の陸上部隊派遣―はお世辞にも「上等」とは言えず、客観的に見てこれを批判することは正当化されそうではあったが、ある瞬間までは彼は抑制的にふるまっていた。その瞬間は―有名な「国連の【威】」発言ではなく―ルクスマグナ代表に対してセリティヌム代表から提示された疑問への回答を求めた際に、ルクスマグナ代表がそれを無視して煙草に火をつけた瞬間であった。

彼は、煙草が嫌いであった。なぜ安全保障理事会では議場での喫煙が許容されているのかはずっと疑問に思っていたのであるが、喫煙する国連大使を派遣している国の中に友好国が多いことから積極的にそれをやめさせることはできないという社会主義評議会の方針に逆らうわけにはいかず―それは彼の「役割」ではない―容認せざるを得なかった。このことには実のところずっとフラストレーションを感じさせられてきたのであるが、ルクスマグナ代表が「議論よりも煙草を優先する」という態度を取ったとき、彼の中で一つのたがが外れる音が聞こえたのである。この瞬間から、彼は本国から「期待」されていた水準を若干逸脱してルクスマグナに対する批判的立場を取り、ルクスマグナの「憲章第5条1項に基づく処分」という、本国は交渉の過程で取り除くことを想定していた内容をそのまま通過させるために力を尽くした。そのために結果的にFUNの「有効投票数」が1票減ることになり、最終的に同盟国であるセビーリャ責任国が一般理事国の地位を失うことになったのであるが、それすらも「ルクスマグナに対する懲罰」の前では重要ではないという立場を取ったのである。

後年、彼は記者会見で「『他国の大使』の態度に対する不快感が、当時の自身の意思決定に影響したという説」について問われ、「国家の代表としての言動が、個人的感情に左右されるなどあってはなりません」と短く答えているが、ここで「あってはならない」というべき論のみを答え、実際にあったかなかったかについて回答を避けたのは、彼自身が「個人的感情に左右された」ことを否定できなかったことを示唆している。

彼はこのような「感情に流された」行動を取ったこと、それによって同盟国が一般理事国の地位を失う結果になったことの責任を取らされることを覚悟していたのであるが、実際にはそのような結果にはならなかった。エーゲ問題が片付いた後、インクォ外交委員長が退任を表明したとき、外交委員会の第二派閥である正方派は2つに分裂しており、それぞれが独自の後任候補を提案したのであるが、結果としてこれは台形派を利する結果になった。彼の「独断専行」は不問にされ、社会主義評議会体制の複雑な政争は最終的に彼を外交委員長に押し上げたのであった。

弾劾

視線の先に強い光が閃いた。α星Aは旧世界の太陽より一回り大きく、今の時期はフレアが活発なこともあり、その光が突然増大することは全くないことではなかった。もう1つの恒星であるα星Bは現在80年間の公転周期の中で最もα星Aから遠い位置にあり、惑星フリューゲルが両恒星の間にある今の季節は夜間に満月より目立つ程度の飛星として姿を現すのみであるから、α星A以外の理由は全く考えられなかった。我々の星系がプロキシマ星を含めて三重連星であることは知られているが、彼はよほど目を凝らさなければ見ることもできない小さな赤色矮星より、全天でも明るい恒星の1つに含まれる旧世界の太陽の方によほどシンパシーを感じるべきであるというのが彼の持論であった。

彼が先ほどまで共和国議会議事堂に呼び出されていたのは愉快な理由ではなかった。セニオリス連邦の拒否権が加烈別芹利5ヶ国の共同提出決議案を葬り去った直後、共和国議会は超越連盟の提出した「外交委員長と国連大使の弾劾を発議する決議」―実際には憲法第何条だかに言及したもう少し法律的な名称だったような気がするが、彼は正式名称を覚えていなかった―を採択した。超越連盟と犬猿の仲であったサンディカリスト連合の「超越派」すら、何を思ったかこの決議案には賛成票を投じた。何より彼が衝撃を受けたのは、同じ社会主義評議会内の主流派であり、ある種絶対的な味方であると信じていた正方派系の議員の3分の1ほどが投票に先立って議場から退出し、「弾劾反対」に投票することを拒否したことであった。一部の正方派委員が「A/RES/4/1がもはや遵守されないという国際社会の認識を作ってしまったことは、藪をつついて蛇を出した行為であって、国際法を後退させる最悪の結果である」と考えていることは知っていたが、その不満がまさか社会主義評議会に明確に敵対する勢力の決議案が採択されることに「貢献」するほどのものとは想像だにしていなかった。

いずれにせよ弾劾訴追は発議され、彼はクリソプレーズ市の外交委員会本部からジャスパー市まで呼び出されることになった。彼は今回の安保理におけるセレン・ヘリオトロープ国連大使の対応を擁護し、「我々は国際法秩序を守ろうとした」と冷静に訴えたが、超越連盟の諸勢力は彼の弁明を一顧だにしなかった。円環派からは「現代の国際協調の基盤であった加烈瀬の協調関係を完全に破壊した最低の行為」と断言され、最近成立した五胞派からは「フリューゲルの未来を占ううえで最も重要な新興勢力であるKPOを無意味に攻撃し、保守というより反動的な形で彼らを潰そうとしたと思われても仕方がない」という批判を浴び、議会民主派からは「国際法についての議論を安保理でやろうとしたこと自体がそもそもの誤り」という攻撃を受けた。台形派の共和国議会議員が弁護に入ってはくれたが、彼らにはほとんど発言時間が与えられなかったこと、正方派が初めから終わりまで黙っていたこともあって公聴会は一方的な攻撃となった。そういえば、角錐派も黙っていたような気がするが、それはヴェールヌイを決議案の共同提出国に組み込んだ努力を評価していたのか、そもそも彼らには騒ぎ立てるほどの勢力もないからなのかは彼にはよく分からなかった。

弾劾について、最終的な可否判断を行うのは中央処理委員会である。したがって、この「弾劾訴追」は一種の政治的バカ騒ぎに過ぎないのであって、自らの地位は守られるだろうという楽観的な予測も当初は可能であった。しかし、彼は正方派が「弾劾は認めないが、外交委員長は自主的にその地位を退く」という方向性で社会主義評議会をまとめる方向で動き始めていることを風のうわさで耳にしていた。「弾劾」という形で不名誉な地位の失い方をすることは避けられるかもしれないが、彼が数か月後には年金生活者になっていることは実際のところ既定路線であった。世間の関心ももはや彼が地位を失うかどうかではなく、その後の後任の外交委員長がどの政治勢力から輩出されるかに移り始めており、彼が「有名」である期間はあとわずかであった。

胸痛

彼は胸に痛みを覚えた。彼が政治的攻撃にさらされることにより、彼の知人友人まで悪い思いをすることになるのではないかという思いから生じるものだろうと彼は解釈した。彼が最初に思いをはせたのは、共和国の西の果て、ヘファイストス市で教鞭をとっている友人のことであった。その友人は「超越」について北部のどこぞの大学で研究していた理学系の研究者であったが、超越連盟の発足後「超越主義」に対するその地域での風当たりはいいとは言えなくなり、内務公安委員会から監視まで付くようになったことを嫌って「反体制的気風」のあるガーネット諸島の、それもさらに田舎であるグロッシュラーライト島に移住したのであった。

彼は「体制派」の一員として振舞ってきたが、その友人との個人的な交友関係は継続しており、彼から「超越的計時装置」を受け取って使っていた。彼がこのことについて記者会見で触れたのは、超越主義に対する偏見が個人に対する偏見に結びつくことのある現在の共和国の風土に対する一種の反抗でもあった。ゆで卵をe分だかπ分だかかけて茹でることに何の問題があるのか。問題なのは共和国の社会主義体制に対する攻撃なのであって、超越主義者の全員が「社会主義の敵」であるわけでもないのになぜ彼の友人は本土を追い出されなければならないのか。そういった思いが彼の胸の痛みを大きくした。

彼はセレン・ヘリオトロープ国連大使についても考えを及ばせた。セレン国連大使は「影」として振舞ってきた彼自身のさらなる「影」であり、やたらと喉が渇くのが早いこと以外は彼以上に何の特徴もない普通の外交委員であったが、今回の一件で彼とともに地位を追われることになるのだろう。セレン国連大使も台形派の一員であり、そもそも安保理における交渉担当者はセレンである以上、彼以上にその責任が重い立場ではあるのだが、いずれにせよ部下の未来を奪ってしまう結果になることは、胸の痛みをさらに大きなものにした。

……彼は、胸を押さえた。胸の痛みはますます大きくなっており、もはやこれは心的な痛みではなく、物理的な痛みなのではないかと感じるほどになっていた。彼の目の前に広がる彼自身の影は存在をますます大きくしており、「影」として生きる彼自身と入れ替わろうとしているように感じられた。彼は、胸を押さえているのとは逆の手で影に向かって手を伸ばした。

彼は影に触れた。アスファルトに投げかけられている影に実際に手が触れた時、そういえばα星Aは自身の背中から照らしているのだということに気が付いた。それでは、さっきの閃光はα星Aのフレアではなかったということなのか。そう気が付いたとき、彼はその影と完全に一体化していた。影が立ち上がり、彼に抱擁を求めているように感じられた。

彼が影が立ったのではなく自分が倒れたのだと気づいたとき、前方からようやく銃声が聞こえてきた。

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