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『楽園から理想郷への逃避行』

まずは、カルセドニー先生、ラ・フローリド先生、そして何よりイスタシア先生におかれては本SSの公開を許可いただき感謝申し上げます。
このSSは、なぜロムレー人がイスタシアで無政府主義を提唱したのかということについての一つの回答を与えるものです。
とはいえ、アンソロジーですので、実際のイスタシアがこうだったのかどうかはわかりませんが。
ともあれ、これ以上細かい講釈は不要、すべて本文に盛り込んだつもりなので、どうぞお付き合いください。


ロムレーはいいところだった。
必要なものはなんでもあり、ほしいものはなんでも選べた。
選べないものが世界にはあることを知ることすらできた。
人々は穏やかで、内省的で、真摯だった。
実践的な技術的知識と批判的な分析的知性は共存していた。往々にして、個々人のなかで。
ラプノーは初等教育から中等教育までを通して今のロムレーでももはや珍しいカルヴァン主義の学校で過ごし、神のもとにすべてに誠実であることを学んだ。
そこには違和感もあったが、この時点では違和感を語れなかったし、神父は違和感の種を先回りして言語化して、そのうえで神を説いてきた。
だから、このときは沈黙することにした。

さて、高等教育を選ぶ段となった。
ロムレーでは高等教育とはモラトリアムではない。
むしろ、高等教育を選ぶ前に、いったん働いてからどこに進むのかを考えるというパターンも多い。
この場合、アーリーキャリアこそがモラトリアムなのだ。
ラプノーは選ぶ側であって、アンゼロット記念大学やロムレー大学を受けるのに十分な力があった。
ただ、ラプノーには選ぶ理由があった。外国を見てみたかった。
だから学術協定機構に進んだ。カルセドニーの地へと渡ったのだ。

カルセドニーもいいところだった。
ここにも必要なものはなんでもあった。
人々はロムレーで見た類の執着、専門的に実践しながら広い視野で内省しなければならないという二重の使命に囚われてはいなかった。
今にして思えば、カルセドニー人はカルセドニー人で、別の類の執着があるのだが。
人々は委員会に分属され、専門に潜っていく。
大所高所を俯瞰できるようにする訓練は、委員会の本当に上層に上がって、高いところに立たされてから始めればよいらしかった。
人々は与えられた役目を誠実に、かつ全力で遂行していた。
社会は実に優美に、完全に機能していて、そこには抜け漏れの余地はなかった。
ラプノーは学術協定機構で経済学を学び、市場に対する政府の望ましい介入のあり方について最大の意欲を持って研究している人々が、結局何もしないよりも望ましい介入を実現することを諦めたことを知った。
なにか前提が抜けているのではないかという違和感もあったが、体系は整合的だった。
だから、このときも沈黙することにした。

卒業後の就職先としては、クレディ・ロムレー銀行のエコノミストを選んだ。
それは、世界のもっといろいろな場所を回りたかったから。
そして、最初にラ・フローリドに配属された。

ラ・フローリドもいいところだった。
ここでもほしいものはなんでも選べた。
ロムレーやカルセドニーでは、人々は必要だから仕方なく取引コストを払う。
ラ・フローリドでは、売ること、買うこと、それを通じて他者と関わることは情熱の対象、いや、情熱そのものだ。
市場は常にまだ見ぬものを求め、完全性と完璧性に安住することはなかった。
ラプノーはクレディ・ロムレー銀行のフローリド法人で、フローリドの実体経済の現場を学び、これまで見てきた「数字」と「概念」がどこから来るのかを学んだ。
そのなかで、これまでの違和感は、すべてではないものの、次第に収まってきた。

フローリドに続いて、カルセドニーと並ぶ超大国・レゴリスなど各国で数年勤務したあと、ラプノーは独り立ちすることにした。
どこに行くのかを会社に決められるよりも、自分で決められるのがよい。
その営業拠点の候補地の一つが、租税回避地として知られるノイエクルス直轄領のイスタシアだった。

ノイエクルス直轄領イスタシアはひどいところだった。
ここには必要なものはなんでもあるとは限らなかったし、ほしいものが選べるとも限らなかった。
ノイエクルス当局は積極的にイスタシア人を不便に晒そうとはしなかったが、ノイエクルス市場そのものが完全には開かれていなかった。
だから、今選べないだけなのか、本来選びえないだけなのか、知る方法はなかった。
内省はなかった。制度はなかった。市場は不完全だった。
人々が「推し活」なるものに向かうのも無理はないことだ。
劇場だけが手に入る解決策であって、それはどうやらイスタシア全土がそうであるらしかった。
内省と制度の種子すらないなら、せめて市場を育てるしかない。
それは少なくとも面白い実験に違いなかった。
ラプノーは拠点をノイエクルス直轄領イスタシアに置くことに決めた。
そこでの仕事はラプノーにとっては趣味と実益が共存するものだった。
世界各国で稼いで、得たものをイスタシアに持ち込むとき、ノイエクルス官僚に袖の下を握らせれば、あとは誰も邪魔をしてこない。
生活するには不便だ。毎回外に出て全部調達するのは疲れる。だから、自分を結節点として、ネットワークをイスタシアに持ち込むことにした。
イスタシア人も得をし、自分も得をする。それは、情熱を向けるに足ることだ。

イスタシアはいいところになり得た。
おそらく内省は導入できなかった。イスタシアの生活はアイドル公演であって、小説ではなかったから。
おそらく制度は限界があった。精巧な制度を運用できるなら、そもそも精巧な制度ができていたはずだ。
市場の発展ならば可能性はある。
市場不在は恐れられている。
劇場は欲されている。
欲することが市場の原動力だ。
まだ住民投票は始まってもいなかった。
だがラプノーにはイスタシアが進むべき、少なくとも忘れてはいけない、忘れられないものが幻視できていた。
書く機会が与えられなければ沈黙していればよかった。
与えられて沈黙していることは、あってはならなかった。

イスタシアがいいところになるにせよ悪いところになるにせよ、その前に血が流される。
私の案、「自由契約共同体」憲章は、独立に伴う住民投票で採択されてしまった。
ノイエクルスから独立したイスタシアは、数年ほどは熱狂に浮かれた。
封建主義者は蓄えた富を持ってイスタシアから逃げ去るか、過去を捨てて武器を携え防衛隊に入った。
市場はトータエをはじめとするカルーガ諸国への食料輸出を続け、イスタシア経済は繁栄を続けると思われた。
そして、やがて熱狂が冷めたとき、すべてが逆回転を始めた。
結果論としては、諸侯軍の者が武器を持ち続けることは確かに認めるべきではなかった。
統制されない輸出と封建主義者が持ち去った富が、やがて農業経済を破綻させた。
農機具と、肥料と、燃料と。農業を営むために必要な資産が持ち去られたあと、農業は飢餓輸出をはじめた。
そして、カルーガ諸国はイスタシアを穀倉地帯でありつづけるよう求めた。
過去を捨てたはずの封建主義者は、防衛隊という装いも捨て、自由契約共同体へのテロリストとなった。
だが、かつて封建主義者であったからといって認めないことは、決して許されない。
共同体防衛隊の制服に諸侯軍の標章をつけた兵が私のオフィスに入ってくる。
このオフィスは、直轄領時代の治安を基準に建てられ、厳重なセキュリティがある。
一度は撃退できたが、次はおそらくもたないだろう。
小銃を手に取る。 弾も飯も残りわずかだ。
そしてなにより、イスタシアの同胞諸君の命を奪うのは忍びないことだ。
だが、戦わず生け捕りになるわけにはいかない。
自由を奪う者に分け隔てなく血の報いあれ。
鬨の声はもちろん決まっている。
さあ、諸君も共に叫ぼう、
自由に生きるか、死か!


あとがき

ジャコブ・アベル・プエルテ=ラプノーという人の評価は棺が蓋われた今も定まっていない。
彼が何をしたのかはよく知られている。
本人は亡くなる直前にロムレーに向けて資料を寄贈しているし、自由契約共同体地域代表会での発言録も残されている。
死因は食料配給を拒絶しての餓死であったとも封建主義者の襲撃に抵抗しての銃撃戦によるともされており定かではないが、その最期の言葉が「自由に生きるか、死か」であったとの挿話が、確証は得られないがイスタシア人のなかではまことしやかに語られている。
だが、本人が何を考えていたのかについての記録はあまり残されていない。
自由契約共同体で彼を知る人は彼の蔵書の書き込みにそれが表れていたと証言するが、寄贈されなかった彼の蔵書は彼の身体と共に焼失した。
彼自身の手によるまとまった内省的記述は、寄贈された資料に付せられた以下の走り書きがほぼすべてである。

最近、寝るたびに同じ悪夢を見る。
自由契約共同体は、国際的に承認されたイスタシアの唯一正統な統治主体だ。
多国籍連合軍が、共同体会議に圧力をかけて介入を始める。
そこでは連合軍と共に共同体防衛隊は「警察活動」を続けている。
私の自由契約共同体は、内面の自由なき契約の自由を強いる抑圧者に堕してしまう。
私には死ぬまで共同体の創設メンバーとしての使命を降りることは許されない。
だからどうか、これが私が死んだ後に読まれますように、と書き記す。
その堪え難さをかみしめ、いつもそこで私は目が覚める。

だが、目が覚めて向き合う現実はそれより幾分かマシなだけだ。
イスタシアに無政府主義の熱狂を持ち込んで一年。
熱狂がある限り、その熱気は自由契約共同体というドームを膨らませる。
熱が冷めたあとには、しぼんだ天幕はイスタシアのすべてを覆う。
直轄領外を支えていた制度を、熱狂で代替した報いが訪れたのだ。
もちろん、共同体と私の同志は全力で支えようとしてきた。
だが、抽象的なものを「推し」に指名する限界はもう訪れている。
「君主」を僭称する者たちと、その手足として働く「諸侯軍」は、今や共同体を終わらせつつある。
私自身がまもなく社会的生命を失い、生物的生命も早晩失うことは、当然の報いであろうとは思う。
せめて、私が記すべきものが残り、読まれたのであれば、私がなしたことの意味は完結する。
私の役割はこれで終わり、あとは共同体と同時に閉幕するだけだ。

「自由に生きるか、死か」という熱情的な表現と、この文のどこか諦観した雰囲気は、どこか嚙み合わないところがある。
その鍵は、彼はオノレ・ジュスタン・ロラン・ロルがしたようにロムレーに帰って語りつくすことをしなかったというところにあるのではないかと思う。
このテキストは、彼の経歴と記録から、彼が自由契約共同体をなぜ作り、なぜそれに殉じたのかを推測したものである。
これが歴史の真実だなどと主張するつもりはないが、これを通して彼の目指した無政府主義とはなんだったのかへの関心が深まれば、望外の喜びである。

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