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北端社会主義連盟(亡命政府)


北端社会主義連盟旗

北端社会主義連盟は、8世紀に建国され887年にクーデターにより崩壊した、フリューゲルで最も高緯度にあった旧北海連邦の市民らが構成していた自称亡命政府。規定上の首都はラティハヴ。現在の政府所在地は規定上の首都と一致しないが、安全上の理由より非公表とされていた。
889年5月に構成していた全4名が大北圈連帶聯邦に強制送還され崩壊した。

国家概要

国名北端社会主義連盟
正式名称北端社会主義連盟
首都ラティハヴ
政府所在地非公表
最高指導者ヒルマ・ラウリ
政治体制人民民主主義
通貨非公表
主な産業非公表

報道上・公式発表上における概要

887年、北海連邦において突然にクーデターは勃発し、総督や気象庁長官らは残忍にも射殺され、「大北圈連帶聯邦」の建国は宣言された。
地域の社会主義者らは事実上の”総督独裁”体制が打倒されたことを当初諸手を挙げて歓迎したが、新たな体制はその幻想をすぐさま打ち砕いた。
社会革命党党首の甥、ヒルマ・ラウリは事実上の”軍事独裁”である新体制に見限りを付け、自身に賛同する複数名の社会主義同志らを引き連れトルキー社会主義共和国へ亡命。
そして旧北海連邦地域における唯一の民主的正統政府である「北端社会主義連盟」を構成し、ガトーヴィチ民主帝国内にて正統政府を僭称する旧体制「北海連邦」、また彼らの故郷を占拠する「大北圈連帶聯邦」に対抗していくこととなった。

実際の概要

887年のクーデターに際した経済的混乱は基盤が不安定であった貧困層に対し打撃となった。「社会革命党党首の甥」と同姓同名であった農民、ヒルマ・ラウリは同じく苦境に陥っていた3名を身分を偽って誘い込み、商農国であるトルキー社会主義共和国に食い扶持を求めて亡命した。事由は「経済的困窮」であり、強制送還を求められた場合には応じるとの条件の元であった。
しかし亡命後、4名の集団は同国内に存在する複数の社会主義教本に感化され始め、本国の「大北圈連帶聯邦」、そして旧来の体制継承を主張するガトーヴィチ民主帝国内の「北海連邦」に疑問を持ち始めた。
ラウリは自らの身分を偽っていたこともあり、他の3名から政治の専門家であるがごとく担ぎ上げられることとなる。勢いづいた彼らは本国、そして既設の亡命政府とも異なり、社会主義の実現を訴える「北端社会主義連盟」の成立を宣言するに至った。
勢いだけで設立された組織は行動も勢いのままに進んでいく。彼らは4名のみで寂しい組織状況を鑑みてトルキーの報道機関である「赤き五芒星」を通じ旧北海連邦の関係者や市民、更には国際社会に対し自身への賛同を呼びかける。本国から離れた環境のもと彼らは半ば狂乱状態となっていたが、一方で賛同する者が見られぬことに次第に冷静さを取り戻していき、活動は急速に縮んでいった。
889年5月、本国、大北圈連帶聯邦の要請を受けたトルキー社会主義共和国政府により、関与した4名が強制送還されて崩壊した。

組織

規定上の組織

行政府の「革命執行委員会臨時幹部会」を中心とする体制である。
革命執行委員会臨時幹部会は一院制の「連邦人民評議会」の間接選挙により選出され、国政を分野ごとに分けた担当委員と、事実上の国家元首となる革命執行委員会臨時幹部会長により構成される。
現在は革命執行委員会臨時幹部会長の他、外務人民委員、民族人民委員、内務人民委員、労働人民委員、教育人民委員、財務人民委員、司法人民委員が設置されている。
立法府の役割を担う連邦人民評議会は単純小選挙区制の直接選挙により選出される。

実態

「社会革命党党首の甥」と身分を偽っていた一農民であるヒルマ・ラウリが革命執行委員会臨時幹部会として担ぎ上げられ、他3名に上述のその他役職を振り分ける格好で任命されていた。小規模組織であることから、実態としては北端社会主義連盟として活動するための役割分担の程度の効果に収まっていた。
「連邦人民評議会」及びその関連の規定は「臨時体制である」などといった理由をつけて無視されていたが、実際はあまりに小規模であるためそれを機能させようがなかったというのが理由であった。
役職名にはかつて西岸州独立連合共和国において執筆され、トルキー社会主義共和国において現在でも著名なフィクション小説となっている「ヴォストクリエシア」の影響が大いに見受けられており、上述の規定は亡命政府らしく振る舞うために適当にでっち上げられたものだとも推察されている。

外交関係

その設立から崩壊まで、この政府を承認する国や地域は現れないままだった。
ガトーヴィチ民主帝国に所在する「北海連邦」政府に対してはラウリは「瓦による詐欺」などと非常に強く反発していたが、連盟構成者の亡命事情を反映してか、本国である大北圈連帶聯邦に対しての批判はラウリの個人的発言として伝えられた「体制変えた方がいい」程度と非常に控えめであった。
「極圏超越主義連合」、「北端自由連合」に対しては全く言及されることが無かったが、これは歯牙にも掛けなかったというよりは、それが何なのかよく理解していなかったのだろうと推察されている。