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セニオリス連邦

国名セニオリス連邦
正式名称セニオリス連邦
セニオリス語:Komonvelt Šenioridska
英語:Commonwealth of Seniorious
国旗
標語Za Šenioridsku, za sva vremena(セニオリスのために、時代と共に)
首都イグナイト
最大都市イグナイト
最高指導者アイラ・グルバッチ大統領
政治体制共和制
公用語セニオリス語
通貨ロンド
主な産業

概要

セニオリス連邦とは、フリューゲル歴1002年3月に、セニオリス社会共和国における「1068年国旗国号変更法」の発効により成立した共和制国家である。国家の価値観は「民主的かつ社会的な、全ての価値観および自由を尊重するコモンウェルス」とされている。
地球時代の南欧地域を出自とするセニオリス人と、滅亡したかつてのクラリス連邦の住民の子孫(ハルクステン人、ランガル人、カルス人)で構成されている。

868年以前の旧クラリス連邦構成国のセニオリス連邦、及び915年7月に成立したセニオリス共和国の継承国である。

国家の系統

年月セニオリス地域クラリス地域
(~721年12月)(セニオリス王国)
721年12月~833年3月セニオリス共和国
833年3月~833年8月ラングラード臨時政府
833年8月~838年1月クラリス共和国
838年1月~868年11月セニオリス連邦クラリス連邦
868年11月~915年7月(無政府)(国土崩壊)
915年7月~972年8月セニオリス共和国
972年8月~976年3月セニオリス・スラヴ国
976年3月~1002年3月セニオリス共和国
1002年3月~1068年7月セニオリス社会共和国
1068年7月~セニオリス連邦

政治体制

セニオリス連邦の政体は、989年11月以降のセニオリス共和国のものを引き継いでいる。
989年11月以前の詳細はこちらを参照。

行政府

共和国政府の行政権は大統領と内閣に付与されており、行政府は大統領と内閣の半大統領制によって構成されている。
また大統領の承認のもと設置された各省の総称として行政各部が存在する。

大統領

大統領の任期は12年であり、同じ人物が2度を超えて選出されていることは認められていない。(3選禁止)
議会選挙と並行して行われる直接選挙により任命される。
権限としては外交権、免責特権及び恩赦の付与、立法に対する拒否権、行政委任立法としての大統領令の制定、そしてセニオリス共和国軍の最高司令官としての指揮権を有している。

議会の解散権は、首相の不在時においてか、首相の助言があったときに行使する事のできる儀礼的な権限となっている。また大統領令は、議会において過半による無効決議が行われた場合に失効する。

大統領の執務不能時には、議会議長がその代行を務め、新たな大統領選出のための再選挙を行うことが定められている。

名前所属政党在任
ヤコヴ・ファーランセニオリス自由党(自由派)915年7月~919年5月政府代表
1ヤコヴ・ファーランセニオリス自由党(自由派)919年5月~931年5月
2サマンタ・プロシネチキ社会民主党(右派)931年5月~937年5月
ダリオ・ヴィドヴィチセニオリス自由党(進歩派)
→セニオリス自由党
937年5月~943年5月大統領代行
3マリオ・バルバリッチ社会民主党(左派)943年5月~955年5月
4バーバラ・オリーン無所属955年5月~967年5月
5ミラ・イェリッチ社会民主党(左派)967年5月~971年4月
アンドリア・コソル軍人971年4月~972年8月救国評議会議長
セニオリス・スラヴ国972年8月~976年3月
5ミラ・イェリッチセニオリス社会党(社民派)976年3月~979年5月
6オリーヴィア・ヴラトコヴィチ自由民主党(共和派)979年5月~991年5月
7アンドレイ・ヴィドヴィチセニオリス社会党(社民派)991年5月~1003年5月
8ミア・ゴトヴァツ超越同盟1003年5月~1015年5月
9イワン・プロシネチキセニオリス社会党(社民派)1015年5月~1039年5月
10ヒルダ・キタロヴィッチ超越同盟1039年5月~1051年5月
11マリン・フリードリーン社会民主党1051年5月~1075年5月
12ミリヴォイ・メシッチ社会民主党1075年5月~1087年5月
13ステファン・ホルワート制度的超越党(至上派)1087年5月~1099年5月
14ペトラ・カティッチ制度的超越党(至上派)1099年5月~1111年5月
15イヴァナ・マリッチセニオリス社会党1111年5月~1123年5月
16アイラ・グルバッチ社会民主党1123年5月~

首相

首相は、行政府の部分を担う内閣の首長であり、議会によって指名され大統領に任命される。989年11月の憲法改正によって新設された。

内閣の人員の任免権を有し、共和国の内政の大部分を担っている。なお、スラヴ国期に設置されていた「首相」との連続性は否定されている。

名前所属政党在任時の大統領
1ゴラン・リンドロート社会民主党989年11月~991年5月オリーヴィア・ヴラトコヴィチ
2ミラ・イェリッチセニオリス社会党(無派閥)991年5月~1003年5月(1)アンドレイ・ヴィドヴィチ
1003年5月~1015年5月(2)ミア・ゴトヴァツ
3ダヴォール・ゴトヴィナセニオリス社会党(無派閥)1015年5月~1027年5月(1)イワン・プロシネチキ
1027年5月~1039年5月(2)
4ゾラン・シューケル超越同盟1039年5月~1051年5月ヒルダ・キタロヴィッチ
5セナ・プレンコビッチ社会民主党1051年5月~1063年5月(1)マリン・フリードリーン
1063年5月~1069年11月(2)在任中に死去
キャロリーナ・ファブリス超越同盟1069年11月~1071年1月首相代理
6イバナ・ブロズセニオリス社会党(社民派)1071年1月~1075年5月
7キャロリーナ・ファブリス超越同盟
→無所属
1075年5月~1087年5月ミリヴォイ・メシッチ
8イワン・コソルコモンウェルス共和党1087年5月~1099年5月ステファン・ホルワート
9ベルナルダ・トムリャノビッチ社会民主党1099年5月~1111年5月(1)ペトラ・カティッチ
1111年5月~1123年5月(2)イヴァナ・マリッチ
1123年5月~(3)アイラ・グルバッチ

内閣・行政各部

内閣は、各省の長たる長官にて構成される組織であり、その首長は首相である。必要に応じ、3名まで省庁に属さない長官を任命することが認められている。989年11月以前の「大統領補佐団」を引き継ぐ組織である。
長官職は県知事や地方議会議員との兼務が禁止されているため、任命時にはそれらの職を辞す必要がある。共和国議会議員との兼職は、989年11月の憲法改正と共に認められるようになった。
法律により、上位者の執務不能時に首相の職務を代行する継承順位が割り振られている。

行政各部は首相の指揮下の元、形式的には大統領の認可によって設置される各行政機関の総称であり、各省が含まれる。

現在は以下の省庁・長官が設置されている。

継承順位省庁担当長官
1外務省外務長官
2防衛省防衛長官
3法務省法務長官
4財務省財務長官
5内務省内務長官
6国土開発省国土開発長官
7教育科学省教育科学長官
8経済産業省経済産業長官
9資源・エネルギー省資源・エネルギー長官
10運輸衛生省運輸衛生長官
11農務環境省農務環境長官
12労働省労働長官
13厚生省厚生長官
14行政改革長官
15
16
  • 沿革
    • 915年7月
      • 継承順位第14位として労働長官(無任所)
      • 継承順位第15位として国土荒廃対応長官(無任所)
    • 931年5月 
      • 国土荒廃対応長官が廃止
    • 937年5月
      • 継承順位第15位として行政改革長官(無任所)
    • 948年10月
      • 労働長官管轄下に労働省を設置
        • 継承順位の最大は第17位に拡大
    • 953年5月
      • 継承順位第15位として厚生長官(厚生省)
        • 継承順位の最大は第18位に拡大
      • 行政改革長官が継承順位第16位に繰り下げ

立法府

憲法により、議会が唯一の立法機関であると定められる。
議会任期は12年である。
選挙は大統領選挙と並行して行われる他、大統領令により解散が行われた場合にも実施される。
議会は一院制である。立法府としての権限が与えられており、予算案の可決や司法府行政府に対する弾劾裁判、下級裁判所の設置、首相の指名が可能である。
議会の解散を除く大統領令について、過半の決議により無効とすることが出来る。また発動された拒否権に対しても5分の3以上の多数の投票により無効とすることが出来る。
議長は比較第一党から任命される。副議長の所属政党は、必ずしも比較第二党からではない場合がある。

  • 第19回議会構成(1123年5月~)
    • 与党
      • 社会民主党 131議席
    • 野党
      • 進歩自由党 35議席
      • セニオリス社会党 16議席
      • コモンウェルス共和党 8議席
      • 制度的超越党 6議席
        • (加速派) 4
        • (至上派) 2
      • 立憲民主党 4議席

司法府

最高裁判所及び法律を定めるところによる下級裁判所が司法権を担っており、通常の裁判は三審制により行われる。最高裁判長は大統領が任命するが、その他の諸制度は原則として司法の専門たることが求められている。

大統領令や立法に対する憲法審査制度としては、憲法裁判所が設置されている。違憲と判断された各種法令は直ちに効力を失う他、具体的な訴訟事件を離れた抽象的に違憲審査を行うことも出来る。
憲法裁判所の裁判官は大統領が6名、議会が7名、最高裁判所が2名任命し、合計15名である。任期は12年であり、連続任期や再任、定年について特に制限はない。欠員は欠けた人員を任命していた機関が再度指名し補充される。

憲法改正

共和国憲法の改正の発議は、議会の過半による議決及び大統領の署名によるものか、議会の3分の2以上による議決によって行われる。発議された改正案は国民投票に掛けられ、過半の賛成を得た場合に改正が成立する。

年表

971年4月~976年3月の詳細はセニオリス・スラヴ国を参照。

概要
915年7月建国
915年10月有志連合、共和国へのハルクステン条約不適用を確認
917年4月ヘルトジブリール社会主義共和国間との2協定が発効
919年5月議会設置に伴い、第1回大統領・議会選挙が施行。
931年5月第2回大統領・議会選挙が施行
937年5月第2回議会中間選挙が施行
942年4月共和国初の人工衛星打ち上げに成功
943年5月第3回大統領・議会選挙が施行
951年11月フリューゲル国際連合憲章を批准
953年3月サンサルバシオン条約機構における準加盟国地位が承認
955年5月第4回大統領・議会選挙が施行
961年5月第4回議会中間選挙が施行
963年4月国家の価値観変更等の憲法改正(963年憲法)が成立
965年9月サンサルバシオン条約機構における正規加盟国地位が承認
967年5月第5回大統領・議会選挙が施行
971年4月クーデターが勃発 憲法停止が宣言される
972年8月セニオリス・スラヴ国憲法(972年憲法)成立
975年1月ヘルトジブリール社会主義共和国、ヴェールヌイ社会主義共和国より宣戦布告
976年3月スラヴ国体制が崩壊 共和国憲法が復活する
978年9月A/RES/S-1/1に基づくフリューゲル国際連合セニオリス監視団が入国
979年5月第6回大統領・議会選挙が実施
989年11月半大統領制導入等の憲法改正(989年憲法)が成立
991年5月第7回大統領・議会選挙が実施
991年6月サンサルバシオン条約機構の政治代表派遣国に任命
1002年3月国家の価値観変更等の憲法改正(1002年憲法)が成立
「社会共和国法」が発効、国旗国号が変更
1003年5月第8回大統領・議会選挙が実施
1015年5月第9回大統領・議会選挙が実施
1027年5月第10回大統領・議会選挙が実施
1039年5月第11回大統領・議会選挙が実施
1051年5月第12回大統領・議会選挙が実施
1063年5月第13回大統領・議会選挙が実施
1068年7月国家の価値観変更等の憲法改正(1068年憲法)が成立
「1068年国旗国号変更法」が発効、国旗国号が変更
1069年11月セナ・プレンコビッチ首相が暗殺 キャロリーナ・ファブリス外務長官が首相代理に
1071年1月第14回議会選挙が実施
1075年5月第14回大統領選挙・第15回議会選挙が実施
1087年5月第15回大統領選挙・第16回議会選挙が実施
1099年5月第16回大統領選挙・第17回議会選挙が実施
1111年5月第17回大統領選挙・第18回議会選挙が実施
1123年5月第18回大統領選挙・第19回議会選挙が実施

政治首脳陣及び閣僚  

  • 第三次ベルナルダ・トムリャノビッチ内閣(1123年5月~)
役職名前セニオリス語表記所属政党備考
大統領アイラ・グルバッチAjla Grbac社会民主党
首相ベルナルダ・トムリャノビッチBernarda Tomljanović社会民主党第9代
外務長官カタリナ・サナデルKatarina Sanader社会民主党
防衛長官マーヤ・ゴトヴィナMaja Gotovina社会民主党
法務長官ミルコ・パヴロヴィッチMirko Pavlović社会民主党
財務長官ブランコ・プレンコビッチBranko Plenković社会民主党
内務長官ゴラン・ファブリスGoran Fabris社会民主党
国土開発長官アロイジエ・コニュAlojzije Konjuh
教育科学長官クリスタ・モホロビチッチKrista Mohorovičić社会民主党
経済産業長官ロヴロ・ペルコビッチLovro Perković社会民主党
資源・エネルギー長官カルラ・ラニロヴィッチKarla Ranilović社会民主党
運輸衛生長官ステファン・ホルワートStefan Horvat社会民主党
農務環境長官ドラジャン・クラリツDražan Klarić社会民主党
労働長官アンドレイ・マルティッチAndrej Martić社会民主党
厚生長官ブランコ・マティアヴィッチBranko Matijevic社会民主党
行政改革長官ヒルダ・モホロビチッチHilda Mohorovičić社会民主党
役職名前セニオリス語表記所属政党備考
議会議長アイラ・クトゥラAjla Čutura社会民主党3期目
議会副議長ゴラン・メシッチGoran Mesić進歩自由党
国連大使ズヴォニミル・ガレシッチZvonimir Galesić社会民主党第8代

政治政党  

  • セニオリス社会党(Šenioridska socijalistička partija / ŠSP
    左派政党。975年12月に結党、1079年1月に派閥廃止し現体制。議会を通じた社会主義理念の実現を掲げる。階級闘争、暴力革命を否定し、社会主義実現は民主的手法によってのみ行われるとしている。
  • 社会民主党(Socijaldemokratska partija / SDP
    社会民主主義を掲げる中道左派政党。混合経済による社会保障の充実と労働者の権利向上を掲げる。
  • 進歩自由党(Progresivna stranka liberalizma / PSL
    社会自由主義、進歩主義を掲げる中道左派政党。947年7月に現在の党名に改称。自由主義に基づく政治や経済の改革を掲げ、個人の権利向上による深化した自由社会の実現を目指す。
  • コモンウェルス共和党(Komonvelta republikanska stranka / KRS
    中道政党。1079年10月結党。民主主義・自由主義に基づく穏健な統治体制を支持し、中道理念による安定的政治を掲げている。
  • 立憲民主党(Ustavno-demokratska stranka / UDS
    立憲主義、市場自由主義を掲げる中道右派政党。1080年1月結党。民主主義憲法の強化と共に、自由市場による国家の活性化を主張する。
  • セニオリス民主同盟(Šenioridska demokratska zajednica/ ŠDZ
    右派政党。1080年2月結党。保守主義を掲げ、市場原理の擁護・国家的価値観の促進による、安定した国家の形成を目指す。
  • 制度的超越党(Institucionalna transcendentalna partija / ITP
    1084年9月結党。超越理念に基づく急進的な統治体制の実現を党是とし、現行の体制・社会に反対する。
    • 加速派
      超越的統治体制による絶対的な平等を追求する派閥。共産主義を源流に持つ政治理念の加速主義を提唱する。
    • 至上派
      超越至上主義に基づく派閥。超越的改革実現のための妥協を否定し、超越のみに特化した体制を求める。
    • 色彩派
      従前の民族主義政党の流れを受け継ぐ派閥。多様な文化・宗教を超越した、超越的文化を国家・社会の中心に据えることを目指す。

過去の政党

党としては存続しながらも、大規模な体制変革を経験した政党の解説も含む。

10世紀まで

  • セニオリス自由党(Šenioridska stranka liberalizma / ŠSL)(~940年10月)
    自由主義を掲げる中道政党。傾向の異なる諸派閥をまとめた国民政党としてセニオリスの最大政党となっていたが、自由派、共和派、立憲派の3派閥が離脱し事実上崩壊。進歩派のみが党を引き継ぐこととなった。
    その後947年7月には党名を進歩自由党に変更し、32年の歴史に幕を下ろした。
    • 自由派→自由民主党(自由派)(940年10月~1040年代)→自由民主党(リバタリアン派)(1040年代~1050年1月)
    • 共和派→自由民主党(共和派)(940年10月~1050年1月)
    • 立憲派→自由民主党(立憲派)(同上)
    • 進歩派セニオリス自由党(940年10月~947年7月)→進歩自由党(947年7月~)
  • 保守党(Konzervativna stranka / KS)(~972年7月)
    右派政党。保守主義を掲げ、セニオリスの民主共和制に対し懐疑的であった。軍部の指導による国家運営を主張した「軍制派」、君主制の導入を主張した「王権派」により構成されたが、972年7月のスラヴ国での「国家結束法」を受け入れ自主解党し救国評議会内部の派閥化した。その後党は旧王権派の一部により再建されたが、旧軍制派は救国評議会体制への強い批判の前に再建されることはなかった。
    976年3月に再建された党は、民主共和制への懐疑的色合いを薄め、反社会主義の立場を取って左派政党の経済改革路線に強く反対する立場を重視した。1050年1月に旧自由民主党立憲派と合流し、より保守的立場のセニオリス民主党を結党した。
    • 軍制派→救国評議会軍制派(972年7月~976年3月)→消滅
      軍部の指導による国家運営を主張。セニオリスの民主主義を否定する立場を取り、971年4月のクーデターによってその理念が実行に移された。救国評議会では旧青き八重歯のスラヴ主義派と連携しスラヴ国の建設に至るが、975年5月のヘルトジブリール国防軍の攻撃により主導者が軒並み戦死し王権派に主導権が渡る。976年3月の救国評議会解散に際して支持者が再結集することはなく、そのまま消滅した。
    • 王権派→救国評議会王権派(972年7月~976年3月)→保守党(976年3月~1050年1月)
      君主制の導入を主張。セニオリスの共和制を否定する立場を取り、971年4月のクーデターにおいては社会主義への反発と共に君主制の導入を期待して救国評議会に参加したが、主導権は軍制派とスラヴ主義派に握られ実現することはなかった。975年5月の攻撃において救国評議会の主導権を取り戻すが、評議会そのものが死に体となりつつあったこともあり、そのまま救国評議会体制にとどめを刺す立場となった。976年3月以降は、君主制の色を薄め反共の旗のもとに保守党を再建させた。
  • フルヴァツカ・スラヴ民族共同戦線「青き八重歯」(Hrvatska slavenska zajednička fronta – “Plavi dvostruki zubi” / HSZF)(~972年7月)
    極右政党。スラヴ主義や国家主義を掲げ、スラヴ民族としての誇りや国家の権益が個人の権利に優先されると公然と主張していた党。972年7月のスラヴ国での「国家結束法」を受け入れて自主解党したが、救国評議会崩壊後に支持者は「フルヴァツカ・スラヴ再興運動」を結成した。
    • フルヴァツカ・スラヴ民族共同戦線「青き八重歯」→救国評議会スラヴ主義派(972年7月~976年3月)→フルヴァツカ・スラヴ再興運動(976年3月~1084年9月)
  • 社会民主党(Socijaldemokratska partija / SDP)(~975年12月)
    中道左派~左派政党。社会民主主義を掲げ、労働者の権利向上を主張していた。経済の漸進的改革を求めた右派と社会主義体制の民主的実現を掲げた左派により構成されていたが、勢力の拡大と共に左右の路線対立が先鋭化していた。975年12月の「国家結束法」廃止を機に左派が離脱し、現在は右派が党を引き継いでいる。
    • 右派→社会民主党(975年12月~)
    • 左派→セニオリス社会党(975年12月~1079年1月)

11世紀前半

  • 自由民主党(Stranka liberalnih demokrata / SLD)(940年10月~1050年1月)
    自由民主主義を掲げた中道右派政党。資本主義経済の活発化を党是に位置づけ、セニオリスにおける資本主義勢力の一角として大きな存在感を持った。旧セニオリス自由党の3派閥を糾合した政党であったが、1030年代より右派の保守党との連携を巡って党内が軋み始め、各派閥の路線の相違がより鮮明となる。第11回選挙以降党は分裂状態となり、第12回選挙を控えた1050年1月に党は正式に解散した。
    • 自由派リバタリアン派(1040年代)→解放党(1050年4月~1080年1月)
      自由主義の派閥。中道に属し、自由権を全面的に擁護する姿勢を取る派閥だったが、979年5月の第6回選挙を最後に長年国政の場から離れていた。その期間中に主張をより先鋭化させ、政府による経済社会への介入の全てを忌避する右派リバタリアニズムの立場を取るようになり、1050年4月の「解放党」の結党に至る。
    • 共和派→自由共和党(1050年1月~1079年10月)
      共和主義の派閥。他派閥の急進化を抑制する役割を担う中道穏健的な派閥だった。1030年代になると立憲派主導の保守党との連携に異を唱えてさらに中道寄りの立場を重視することとなり、解党に際し中道を掲げる「自由共和党」を結党した。
    • 立憲派→セニオリス民主党(立憲派)(1050年1月~1080年1月)
      立憲主義の派閥。憲政体制の強化による体制の安定に重きを置き、社会保守主義との親和性が強い中道右派に属する派閥だった。資本主義勢力の結集を狙って保守党との連携を主導し、その連携を通じて1030年代にはさらに保守主義の色合いが濃い派閥となる。しかしそうした連携は共和派の反発を招き、党が解散すると保守党の連携を「セニオリス民主党」の結党という形で実現させた。
  • 保守党(Konzervativna stranka / KS)(976年3月~1050年1月)→セニオリス民主党(保守派)(1050年1月~1080年2月)
    旧保守党王権派→救国評議会王権派が976年3月に再建した保守党。派閥時代における君主主義の色を薄め、反共を旗印とした。11世紀に入ると当時の自由民主党立憲派と連携するなどして反社会主義勢力の結集を図っていき、1050年1月に自由民主党が解党すると同派と「セニオリス民主党」を結党した。
  • サンディカリスト連盟(Sindikalistička federacija / SF)(976年3月~1050年2月)
    労働組合を統治機構や経済の中心に置くべきとするサンディカリスムを掲げた政党。971年4月クーデター以降の救国評議会体制に対する労働組合の抵抗運動中、組合中心主義的傾向に急進化したグループを源流とした。党としてはセニオリス共産党との間に協力関係を築き、700年代のカルセドニー革命を理想に掲げて選挙に関与した。しかし1020年代に同国で社会主義評議会による政変が勃発すると、党では共産主義との連携を否定する流れが生まれ、無政府主義を取り入れたアナルコ・サンディカリスムが台頭する。なおも党の動揺は収まらず、1050年2月には無政府主義者がサンディカリスムを放棄し解散した。無政府主義者はその後「解放党」の結党に関与し、一方で協同経済を模索し続けた勢力はセニオリス社会党への合流あるいは「急進人民党」の結党を選択した。

11世紀後半以降

  • セニオリス社会党(Šenioridska socijalistička partija / ŠSP)(975年12月~1079年1月)
    左派政党。議会を通じた社会主義理念の実現を掲げ、社会民主党左派とセニオリス共産党の多数派によって結党された。結党以来、党内に傾向の異なる派閥を抱えながらもセニオリスにおける最大の社会主義政党として活躍してきたが、1070年代後半にプレンコビッチ第5代首相暗殺事件捜査への不正介入が行われていたことが発覚し、共産主義派を中心に所属議員が多数除名を受ける事態となった。党の存続すら危ぶまれる状況を前に党は派閥主義の解消と民主社会主義綱領の再確認を決定。実質的には壊滅状態の共産主義派を社会民主主義派が吸収する形で新体制へと移行することとなった。
    • 社会民主主義派→セニオリス社会党(1079年1月~)
      社会民主党からの離党者が中心となり形成された派閥。党内では右派寄りにあたった。階級闘争、暴力革命を完全に否定し、社会主義実現は民主的手法によってのみ行われると説いた。党結成以来の主流派ではあったが、イバナ・ブロズ第6代首相下では指導力に問題を抱え、1075年選挙で共産派に主導権を奪われる事態にも陥った。しかしその後共産派が捜査不正介入による除名処分で大打撃を受ける中で、党勢回復にあたっては社民派の主張が重用される形となり、現在の社会党に繋がっている。
    • 共産主義派
      共産党からの離党者が中心となり形成された派閥。党内では左派寄りにあたった。社会主義実現の道として階級闘争や暴力革命が存在することを認めるが、セニオリスにおいて取れる手法ではないとしていた。結党以来の非主流派であったが、イバナ・ブロズ第6代首相下の社民派の混乱を利用する形で一時は主導権を握った。しかし捜査不正介入が明るみになると、共産派は多くの関係者がその責任を負った。続く社会党の再建に向けた党大会においては、共産派の政治手法が批判の的となったこともあって社民派の主張を丸呑みする形となり、派閥の歴史に幕を降ろした。
  • 超越同盟(Transcendentalna zajednica / TZ)(976年3月~1079年12月)
    資本主義対社会主義に代表される様々な統治理論の二項対立の超越を訴えた中道政党。ロシジュアにおける971年10月の「セニオリス超越的協同共和国」にインスパイアされた超越研究の学生団体や市民団体を源流とした。結党以来、特定のイデオロギー色に染まらない穏健派中道政党として無視できない影響力を保ち続けていたが、1068年憲法の成立によって党是の超越が一定程度達成されると党内での路線相違が鮮明になり、「役割を終えた」として解散。穏健派超越体制を支持した層は自由共和党と共に「コモンウェルス共和党」を形成し、超越至上主義を掲げた層は「制度的超越党」の母体となった。
  • 自由共和党(Liberalno republikanska stranka / LRS)(1050年1月~1079年10月)→コモンウェルス共和党(1079年10月~)
    民主共和制の擁護を党是とした中道政党。旧セニオリス自由党の共和主義の系統を受け継ぎ、中道・民主主義・自由主義の立場を代表する政党であった。超越同盟内の路線対立が深まると、中道穏健の立場から穏健派超越体制の支持層と連携し、「コモンウェルス共和党」へと役割を受け継いだ。
  • セニオリス共産党(Komunistička partija Šenioridske / KPŠ)(~1084年9月)→制度的超越党(加速派)(1084年9月~)
    共産主義を掲げた極左政党。建国以来の政党ではあったが、975年12月には党員の大部分がセニオリス社会党の結成に参加し、より急進的な党員が残る形となった。共産主義理念を実現させるための急進的体制の実現を党是として掲げ、実現に向けての階級闘争や暴力革命をも容認した。分裂後の共産党はそのイデオロギーの公称である最大綱領主義の名前で知られ、1075年選挙では社会党と連携しての社会主義憲法の制定を目指すまでに党勢を回復させていたが、その後プレンコビッチ第5代首相暗殺事件捜査への不正介入が発覚したことで所属議員の大部分が除名され壊滅的被害を受けた。共産主義の理論的支柱が影響力を低下させ、代わって独自の超越理論が台頭。党員は制度的超越党の加速派の母体となるとともに、共産党の歴史に幕が降ろされた。
  • 急進人民党(Narodna stranka radikalizma / NSR)(1050年2月~1084年9月)→制度的超越党(至上派)(1084年9月~)
    非社会主義的な協同経済の実現を掲げる統合主義を党是とした。社会主義や自由主義の双方を批判しながらも民族主義に偏重しないことで独自の立ち位置を築いた。結党以来他党に依らない独自路線を貫いていたが、超越同盟内部の路線相違が鮮明になり始めると超越至上主義に接近。超越同盟内の超越至上主義の支持派と共に、制度的超越党の至上派の母体となった。
  • フルヴァツカ・スラヴ再興運動(Hrvatska slavenski preporodni pokret / HSPP)(976年3月~1084年9月)→制度的超越党(色彩派)(1084年9月~)
    極右政党。上述の「青き八重歯」の実質的後継政党として976年3月に結党。政党の名は変わるも主張に大きな変化はなく、スラヴ主義を掲げ、セニオリス人のスラヴ民族としての再興のため自由主義・民主主義を強く否定する立場を保った。また、セニオリス人の名称について「フルヴァツカ人」に”戻す”べきと主張するなどした。セニオリス国政における唯一明確な民族主義政党として存在感を放っていたが、1070年代前半の政治資金不正発覚、そして支持母体の三色協会への政治的圧力が重なることで党組織は壊滅状態となった。旧来のスラヴ主義の支柱が去ったことで党では代わってセニオリス特有の文化主義が注目され、セニオリス内に存在する中小の民族主義・宗教団体との連携が開始。このセニオリス特有の文化主義が超越思想とも結びつき、制度的超越党の色彩派の母体となった。
  • セニオリス民族保守党(~1084年9月)→制度的超越党(色彩派)(1084年9月~)
    ハルクステン人(先セニオリス人)の民族主義政党。古くは第一共和国の国政政党であり、国土崩壊・無政府の時期も含めて活動を続けた第二共和国における最古の政党だった。第二共和国においてはセニオリス人(フルヴァツカ人)主導の国家再建に反発し国政に進出することはなく、活動範囲はハルクステン人人口が多い地域の地方議会に限られた。「セニオリス人」の呼称をハルクステン人に戻すことが最大の主張であったが、第二共和国建国から世代を経るごとに呼称も差し戻し難いものとなり、またハルクステン人の根深い無関心も手伝って求心力の低下が目立っていた。1070年代になってセニオリス特有の文化主義が注目されると民族保守党もこれに加わる事となり、制度的超越党の色彩派へと合流した。
  • セニオリス民主党(Šenioridska demokratska stranka/ ŠDS)(1050年1月~1080年2月)
    保守主義を掲げた中道右派政党。資本主義の擁護を党是とし、政府えの市場介入の縮小や規制緩和を掲げた。自由民主党立憲派と保守党によって社会主義への対抗を目標に結成され、数少ない資本主義者の拠り所として機能したが、1070年代前半に政治資金不正が発覚。執行部への不信が蔓延し、2派閥は再び別の政党として活動することとなった。
    • 立憲派→立憲民主党(1080年1月~)
      自由民主党出身者が中心となり形成された派閥。党内では左派寄りで、憲政体制の強化による民主制の安定を重視していた。左派急進主義を抑えたい立場から保守派との関係性は良好ではあったが、党の不正が発覚すると民主党の存続に無関心となり、民主党と同様にイメージ回復を模索していた解放党と共に「立憲民主党」を結党した。
    • 保守派→セニオリス民主同盟(1080年2月~)
      保守党出身者が中心となり形成された派閥。党内では右派寄りで、左派政党の経済改革路線、特に社会主義の伸長を特に警戒する派閥だった。民主党全体に執行部への不信が蔓延すると保守派も党の解体的出直しを模索することとなり、立憲派が離脱すると不正のイメージが強い民主党の解党を宣言し、保守主義を柱に「セニオリス民主同盟」を結党した。
  • 解放党(Oslobodilačka stranka / OS)(1050年4月~1080年1月)→立憲民主党(1080年1月~)
    右派リバタリアニズムを掲げた政党。自由民主党のリバタリアン派を母体とした党であり、政府による市場介入や規制の全てに反対し、無政府資本主義に基づく中央政府の廃止の立場をも支持した。サンディカリスト連盟から流出した無政府主義者の系統を受け継いだことより、同じ資本主義政党の民主党ともそりが合わない独自路線を貫いていた。しかし1070年代前半に政治資金不正が発覚すると、それまで力を持った無政府資本主義の影響が弱まり、解放党の悪評から脱するべく「立憲民主党」の結党に参加した。

地理  

4つの県から構成されており、首都であり最大都市であるイグナイトはユーダリル州に属する。
国土が分断されるなどした激甚災害の影響を受け、国土はクラリス連邦の時代より変化している。新規の国土及び旧ハルクスタニア県地域は920年代まで中央政府が直接管轄していた。

1069年7月中旬(38504期)現在
  • ハルクステン州
    • 南東部に位置する。州域は第一共和国における旧ハルクステン特別市の他に、残存した旧ハルクスタニア県を含む
    • 500年代初頭の移民船団セニオリスから続く由緒正しい都市であり、かつては第一共和国の首都だった時期もあった。第二共和国初期に問題となったルッコラの被害を最も大きく被った地域でもあった。
    • ハルクステン城を州のシンボルとする静かな街。ハルクステン人が最も多く居住する地域でも有り、945年1月成立の「ハルクステン語公用法」による標識・公共施設でのセニオリス語・ハルクステン語の両語表記義務の対象地域。またハルクステン語は1068年7月から州の公用語の1つにもなっている。ハルクステン語学校数は国内最多である。
  • ノルテアレフィス州
    • 北東部に位置する。第一共和国当時の県域からは東部の多くが水没し、北西に僅かに拡大した。
    • 第一共和国時代は航空宇宙産業の施設を多く擁する先進的県として知られたが、その後の戦争により当初の技術などは完全に失われた。
    • 州南部の沿岸地域にはロケット打ち上げ台が位置する。10世紀後半に掛けて隣接するエンデルヴァルト州、ユーダリル州のベッドタウンとして一定の都市開発が進んだ。
    • 南部の沿岸地域及び北東部にハルクステン人の居住者が多い。945年1月成立の「ハルクステン語公用法」の対象地域で、居住者の少ない南部内陸部にも両語表記義務が適用される。県から州へと再編された1068年7月より、ハルクステン語は州の公用語の1つともなっている。
  • エンデルヴァルト州
    • 北西部に位置する。第一共和国当時の県域からは北部の一部が水没し、西に拡大した。
    • 第一共和国時代は森林が多い地域であったが、その後の戦争により荒廃。クラリス連邦時代にも復興が遅々として進まないまま荒野となっていた。しかしその状況からルッコラの繁茂は比較的軽く抑えられ、現在のセニオリス人によって真っ先に開墾されていった。
    • 西部は共和国の食糧生産を支える一大農業地帯、東部は首都イグナイトの近郊都市という東西において異なる特色を持った州である。
  • ユーダリル州
    • 南部に位置する。第一共和国当時の県域からは南部のごく一部が水没し、西に大きく拡大した。
    • 第一共和国時代はユーダリル山脈を擁する山岳地帯だったが、国土崩壊と共に多くが崩れ落ちた。第一共和国の最高峰もここに位置したが、その名は現在のセニオリス人によって建設された首都が伝えるのみとなっている。
    • 都市化が進む首都近郊から共和国有数の畜産産業を有する西部までの広大な州であり、共和国経済の中心的存在である。南部の森林は多くの地域が開墾されるなどする中で共和国に残る貴重な自然となっている。

構成民族  

セニオリス人(フルヴァツカ人)

言語研究などから、環境汚染と資源の枯渇が進んだ21世紀の地球からの南スラヴ系民族の移民を祖としている民族であることは分かっている。
南スラヴ語群に属するセニオリス語(フルヴァツカ語)を母語とし、長い移住時代を経て無宗教や無神論といった特定の宗教を信仰しない層が多数派となっている。
セニオリス人という名称についてはフリューゲル移住後に居住地域の名称から取られたものであり、8~9世紀頃に存在したクラリス連邦構成民族のセニオリス人(現在のハルクステン人)との直接の関係はない。

一部では地球時代から引き継ぐとされる「フルヴァツカ」を正式な名称とする主張も存在するが、これは口承のものである。
フリューゲルに移住した経緯については以下のように伝えられている。
まず先祖に当たる第一の移民船団は同太陽系の火星に移住した。しかし火星においては300年程度居住した後に他民族との抗争が生じて脱出を余儀なくされた。
そこで彼らは遠方の土星の衛星であるタイタンに移住。細々と600年程度経営された後、タイタンの資源枯渇などに直面し、太陽系を脱出しフリューゲルに移住したというものである。
しかしこの火星・タイタン経由説に対しては科学者などからの反論も多く、神話と同様なものとして扱われることも少なくない。具体的例としては以下が挙げられる。

  • 移住に使われたとされる船団にタイタンのものと思わしき痕跡が見られなかった
    • 一方、同じ調査では地球や火星以外の何らかの岩石惑星の痕跡があることもわかっている。
      • この結果を元に、本来600年間を過ごした惑星が誤ってタイタンと伝わっていた可能性を指摘する声も有る。
    • これに対し、火星・タイタン経由説を支持する立場はタイタンの痕跡でないとする根拠が虚弱であるとしている。
  • 火星やタイタンの環境が600年間人類を支え、更に移住を可能とする程度のものであるとは思われない
    • 火星・タイタン経由説の支持者からは、両惑星は人類の地球大脱出時にテラフォーミングされたと解釈が提供されている。
      • 一方でこの見解に対し、タイタンについては上述に従えば「細々と移住」しており、テラフォーミングが行われたとは考えがたいと反論する声もある。
  • 地球や移住船内での出来事に関する資料はことごとく散逸しているにも関わらず、どこで居住していたかだけが正確に伝わっているのは不自然である
    • 一方で、”どこの惑星に居住していたか”は大雑把な情報であり、伝わっていても不自然ではないとする意見もある。

ドモロダツキ

セニオリス語で「domorodački」と表記され、原語の意味は「先住民」である。
その名称の通り、上述のセニオリス人の移住以前よりセニオリス地域に居住していた諸民族を指す。8~9世紀頃のセニオリス共和国→クラリス連邦を構成していた民族であるが、移住船団の到着と共に少数派となった。
著しく消極的で孤立志向な民族性で知られ、少子高齢化が著しい。かつて異常繁殖し国土崩壊の一因となった「ルッコラ」を料理などに常用する文化でも知られている。
ただしこの「ルッコラ」は必ずしも一般的に知られるキバナスズシロ(Eruca vesicaria)とは限らず、地域によってミント(Mentha L.)やドクダミ(Houttuynia cordata)、クズ(Pueraria montana var. lobata)、更にはメダケ(Pleioblastus Simonii)やモウソウチク(Phyllostachys heterocycla f. pubescens)なども同様に呼ばれている場合がある。
これは9世紀中起きたとされる国土崩壊の時期にこれらの植物が一斉に異常繁殖し、当時の居住者が全て一様に「ルッコラ」と呼んだためと考えられている。

特徴的な民族性は830年代以降の当時のセニオリス地域を取り巻く情勢が元凶だったと見られ、現在のドモロダツキが868年の旧クラリス連邦滅亡時の政府による国外脱出呼びかけを拒絶した人々の子孫にあたることも形成の大きな要因になったと見られる。

ハルクステン人(先セニオリス人)

ドモロダツキの最大民族であり、全人口の1割ほどを占める。
かつては全土に広く居住したが、10世紀前半にかけて東部への移住が進み、950年代には東部のノルテアレフィス及びハルクステンに居住者が集中している。
地球時代の北欧を出自とし、移民船団時代のクレオール言語から発達した北ゲルマン語群に属するハルクステン語(先セニオリス語)を母語とする。
8~9世紀頃までの民族としての名称は「セニオリス人」であったが、上述のセニオリス人からは居住者が多かった地域から取られて「ハルクステン人」と呼ばれるようになり、そのまま定着した。
この一方的な乗っ取りとも言える状況に対して反発はほとんど無く、甘んじて受け入れる格好となった。ハルクステン人による少数民族政党となったセニオリス民族保守党は「セニオリス人」の呼称奪還を訴えていたが、広がりを欠いたまま11世紀に解散した。
なお、このような複雑な経緯から「先セニオリス人」と呼称される場合があるが、旧セニオリス共和国や旧クラリス連邦を振り返る上での便宜上の呼称としての利用が主である。
無宗教や無神論といった特定の宗教を信仰しない層が多数派である。その他にはラウリス教が細々と信仰されている。

ランガル人

ハルクステンにおいて僅かにコミュニティを形成する少数民族。
7世紀前半頃滅亡したラングラード連邦共和国の避難民の子孫であるが、国土崩壊により主要な居住地域は現在のセニオリス地域からは切り離された。
地球時代のドイツ語圏を出自とし、標準ドイツ語に類似したランガル語を母語とする。
ランガル語はヘルトジブリール語などと同じ標準ドイツ語の潮流を色濃く受け継ぐ言語であるが、ハルクステン語からの影響が次第に強くなっていると指摘されている。
キリスト教を信仰する層が多数派である。教派としてはルター派とカトリックが大多数を占めると見られている。

カルス人

ハルクステンにおいて僅かにコミュニティを形成する少数民族。
ランガル人と同様、7世紀前半頃滅亡したラングラード連邦共和国の避難民の子孫であるが、国土崩壊により主要な居住地域は現在のセニオリス地域からは切り離された。
地球時代の東欧地域を出自とし、スラヴ語派に属するカルス語を母語とする。
カルス語は東スラヴ語群の潮流を受け継ぐと考えられているが、西スラヴ系の言語からの影響も指摘されており、また筆記にはラテン文字を使用している。
さらに現在セニオリス地域で話される言語の中では南スラヴ系であるセニオリス語からの影響を最も強く受けていると指摘されている。国土崩壊の時期にあたってハルクステン語からの語彙流入も経験したと考えられ、属する語群については議論がある。
キリスト教を信仰する層が多数派である。教派は正教会とカトリックが大多数と見られる。

宗教

憲法により信教の自由が保証されている。国内では無神論や無宗教の層が最多を占める。

キリスト教

セニオリス人の一部やランガル人、カルス人の間で信仰される、地球時代における三大宗教の一つ。
国内では、主だった教派として以下が挙げられる。

カトリック

地球時代にローマ教皇を頂点とした構造を成していた教派だが、フリューゲルにおいては分裂状態にある。
国内では「セニオリス・カトリック教会」が活動している。
この組織はセニオリス大司教区において役職を務めるセニオリス大司教を事実上の頂点とした組織を築いているが、これはローマ教皇などその他のいずれかの指導者からの認可を受けたものではない。

プロテスタント

国内のキリスト教徒の中では最多を占めている。
セニオリス人の間では元来カトリックと正教会が主流だったとされるが、移住時代に往来のカトリック組織が崩壊したことでルター派の教義が広まった。
国内の主たる教会組織としては、セニオリス人の信仰体制に由来する「セニオリス福音ルーテル教団」と旧セニオリス共和国時代の組織に由来する「セニオリス・ルーテル教会」が挙げられる。

正教会

セニオリスにおける正教会の教会組織は「セニオリス正教会」が担っている。
これはセニオリス人の移住時代に構成された組織に由来し、フリューゲルへの移住と共に拡大した組織である。
なおカルス人の間では国土崩壊以降「ハルクステン正教会」が細々と継承されていたが、移住船団の到来と共にセニオリス正教会に統合された。

ラウリス教

ハルクステン人の間で生まれた宗教と言われ、その教義が必ずしも明らかにされない秘密結社的な性質を持つ。
その来歴については移民船団時代から発展していった土着信仰とする説や、キリスト教が土着信仰と結びつき変容と遂げたものとする説など様々に存在する。
教義などの細かな違いにより複数の宗派が存在し、過去には「セニオリス民族には怪獣の血が流れている」と主張する宗派も存在した。
遅くとも第一共和国の時代に少数派に転じている。現在ではラウリス教徒自体の減少により宗派の多くは自然消滅したと見られ、目立った組織としては「セニオリス=ハルクステン教会」があるのみとなっている。

イスラム教

セニオリス人の一部で信仰される、地球時代における三大宗教の一つ。
国内では無宗派が多数を占め、スンニ派がそれに続いているが、ほぼすべての教徒に共通し信仰形態は非常に世俗化が進んだものとなっている。

恒真教

悟りに強い指導者と言われる「唐辛雅弘」を永遠の教祖とする、ハルクステン人のごく閉鎖的なコミュニティにおいて継承される宗教。
実態は未だ謎に包まれている。ごく少数の研究では「唐辛雅弘」は7~8世紀の人物とされるが、別の研究では単なる冗談宗教であるという説も提唱されている。

空飛ぶスパゲッティ・いのら教

かつてのセニオリス共和国における、ラウリス教の一部宗派が主張していた説を公教育に導入する運動に対する反発が由来のパロディ宗教。
「あらゆる証拠が、セニオリス地域がスパゲッティであることを示している」など、過去に様々見られた既存の宗教関係者による主張を皮肉った"教義"が特徴である。
現在においてもドモロダツキのコミュニティを経てセニオリスの幅広い地域で"信仰"されている。

軍事  

憲法において、軍隊従事者の人数について、陸軍40万人以下、海軍6万人以下となるよう定められている。これはハルクステン条約第14条の「クラリス連邦軍」に掛かる規定を踏襲したものだったが、ハルクステン条約効力そのものはセニオリス共和国に対して適用されないと915年11月に確認された。
続く条では侵略戦争と国際紛争解決のための手段としての武力による威嚇の禁止を定めるが、これはハルクステン条約にも含まれない趣旨である。

諸国との関係  

944年2月(33990期)以後、国交関係は「相互交信基準方式」によって運営されている。これは、国交はないと特別に宣言された場合を除いて、外部から確認できる方式で相互に通信が行われた事実によって国交を有していると確認するものである。

一方で、過去に相互での通信が存在せず特別な宣言もない場合については、引き続いて「シュレディンガーの猫方式」が用いられている。これは国交関係の有無は確認がなされるまで確定しないというものである。

国交を有する国家一覧?外交問題になりかねない要素をなんでWikiに晒す必要があるんですか(逆ギレ)

国体としては868年以前のクラリス連邦構成国であったセニオリス連邦を引き継ぐが、ハルクステン条約の効力については915年10月にその不適用が明言された。また諸外国の関係についても、クラリス連邦政府が事実上機能停止状態で資料も散逸していたため再確認が出来ないとしてその引き継ぎを放棄し、上述の「シュレディンガーの猫方式」を導入する一因となった。

過去・現在のいずれかの時点で効力下にあった協定・条約は以下の通り。

発効年月失効年月名称
917年4月(明示なく失効)ヘルトジブリール・セニオリス共和国における開発支援協定(最長でも1017年4月に失効済)
917年4月効力下ヘルトジブリール・セニオリス共和国における治安維持協定
951年11月効力下フリューゲル国際連合憲章
953年5月効力下サンサルバシオン条約(正加盟国としては965年9月~)

その他

国名&一部都市名の元ネタ→(Wikipedia記事へ)