神聖ガトーヴィチ帝国(Священная Готовитская Империя、Holy Gotovitian Empire、略称:瓦)は、937年に成立した君帝制民主主義国家である。前身は、843年に成立したガトーヴィチ民主帝国、及び427年に成立したガトーヴィチ帝国。
元首は君帝であり、憲法において、ガトーヴィチ人の「模範」とされている。
国名 | 神聖ガトーヴィチ帝国 Священная Готовитская Империя Holy Gotovitian Empire |
国旗 | ![]() |
国章 | ![]() |
標語 | 帝国の発展に邁進せよ |
国歌 | 栄えよ、ガトーヴィチ! |
国鳥 | ツバメ |
首都 | イヴァングラート(13,13) |
元首 | ブラクノート・アパラートヴィチ・リーソフ第27代君帝 |
公用語 | ガトーヴィチ語 |
政体 | 君帝制民主主義 |
通貨 | マリュースク |
建国 | フリューゲル歴427年1月16日(15374期) |
目次
概要
ガトーヴィチ人はもともと、稲作に目覚めたスラヴ民族であったとされる。かつては「大スラーヴ主義」を掲げ、フリューゲルのスラヴ民族の連帯を推し進めるとともに、ガトーヴィチベルサリエーレ戦争や、ヴォルネスク独立戦争を指導した。
9世紀に入り、反共陣営EDTO(エルドラード条約機構)の一角として813年戦争に参戦するも、連合国に降伏。ディースブルク条約の下、866年まで厳しい軍備制限を課せられていたが、フリューゲル国際連合安全保障理事会理事国を務めるなど、国際的地位が上昇している。
国歌 栄えよ、ガトーヴィチ!/Процветай, Готовить!
480年1月16日、国歌法の成立により制定された。作曲者は民謡を取り入れた交響曲制作に定評があるアシュルモフ氏、作詞者はテジュールヴィチ氏(だが彼は曲の難解さに匙を投げ作詞を放棄し、「Ураと叫んでおればよい」という言葉を残した)。五拍子で、ガトーヴィチ民謡特有の陰湿さが良くも悪くも表れた国歌であり、国民の支持不支持は五分五分といったところ。
〽︎万歳!栄えよ、ガトーヴィチ! より
準国歌 君帝行進曲/Марш Императора
506年3月24日、スヴャトホースト君帝陛下御即位10周年を記念し、国歌同様、アシュルモフ氏が作曲を、テジュールヴィチ氏が作詞をした。旧ロシア帝国の国歌「神よツァーリを護り給え」の旋律が引用されている他、印象的な音型「Es(S)→H」が多用されている。これは御名「Святхост(スヴャトホースト)」の「С(S)」と「Х(H)」からとっている。
〽︎君帝に栄光あれ 偉大なる君帝は ガトーヴィチを発展へと導く君帝行進曲 中間部より
国旗
白が純粋な国民性を、青が四方の海洋を、赤が発展の象徴である太陽とガトーヴィチ本島を表す。
日+ロ。税関旗に酷似しており、税関国家ガトーヴィチとも言う。
国章 十八歯輪稲穂玄鳥紋
建国前史にゆかりのある稲穂と、稲作における益鳥であるツバメが、工業国を象徴する歯車を取り囲むように配置されている。国鳥 ツバメ(Ласточка、ラースタチカ)
国章、イヴァングラート帝国大学燕が丘キャンパス、609年第二回国際スポーツ大会山岡大会に出場したガトーヴィチ代表野球チーム「ラースタチキ・ガトーヴィチ(ラストーチキ・ガトーヴィチ、ガトーヴィチ・スワローズ)」、3泊4日ロムレーの旅を手掛ける「ラースタチキ交通社(ラストーチキ交通社)」等、ガトーヴィチ人に愛されている鳥である。地理
ガトーヴィチはほぼ全土が亜寒帯湿潤気候に属し、一部が温帯湿潤気候に属する。元来、ガトヴィカ米と呼ばれる寒さに強い独自種が栽培されていたが、現在は食料自給率の低下により、ジャポニカ米およびインディカ米の流通量が増大している。
行政区画 1市18県
- イヴァングラート市
- 帝国の首都。中心にある官公庁街はザーマク(Замок、城郭)と称され。、官僚機構の換喩として用いられる。
- 東イヴァングラート県
- 光り輝く巨石、成長記念碑、観光都市を抱える。
- 西イヴァングラート県
- 帝居、官邸が立地する。
- コリツォー県
- クミス銀山の銀を利用した鉱工業と、クミス湖における養殖業が盛ん。「ガトーヴィチ養殖業組合」は、国内有数のロビー団体として有名。養殖ブリ「シリブロー」は、お歳暮やお土産に欠かせない。
- チェーニスク県
- チェーニスクの森とチェーニスク大聖堂しかない。県民は敬虔な陰キャである。
- ローシスク県
- 建国初期創業の老舗遊園地プラウダを抱える。
- セヴェロモルスク県
- 建国初期に造成された海抜ゼロメートル地帯。北の商業文化都市。
- イノラ県
- 帝国初の怪獣が出現した地であることが名付けられた。怪獣の出現跡地には、多神教のガトーヴィチ宗に基づく怪獣神社が建立されている。
- ラヴニーナ県
- 建国初期、北西方向への干拓の足掛かりとなった地域。平原。
- ドィーム県
- ガトーヴィチ本島の西部に位置する。工業生産額全国一のドィーム工業地帯を抱える。
- ザーパドナヤ・カロヴァ県
- 県東部はドィーム工業地帯に含まれる。県西部はのどかな地方都市と言うべき風景。
- ヴァダーコイ県
- ドィーム県の南に位置し、国際貿易港ヴァダーコイ港を抱える商業都市。
- ヴァルヴァルストヴォ県
- 首都圏とデー・ヴェー圏(ドィーム・ヴァダーコイ圏)との間にあるド田舎。大都市圏に挟まれているのに、なぜか全く発展しない。とてつもなくきつい訛りととてつもなく古い風習を保っている。
- 中央ガトーヴィチ県
- ドヴァトリピャーチウラン鉱山のウラン採掘業が盛ん。
- ユークリル県
- 帝国の南に位置する諸島。ナダニヌール宇宙基地は帝国宇宙開発の拠点。大洋に臨むため観光業が盛ん。
- ユジノズヴェズダー県
- 帝国南東部ズヴェズダー島南部。630年代に首都機能分散の一環として国会議事堂が移転した。国会議事堂は、ネオバロック建築の傑作であり、多くの観光客が訪れる。
- セヴェロズヴェズダー県
- 帝国南東部ズヴェズダー島北部。ユジノズヴェズダー県には色々な点で負けているが、森を活用した観光業が盛ん。
- オストラフ県
- 元々帝国北東部の流刑地であったが、8世紀より開発が進み、今では軍需産業が花開いている。
- アスタリノイ県
- 帝国北西部の細い島。セヴェロモルスク都市圏の防波堤としての存在価値を持っており、県民は絶望的に隠キャである。

6世紀竣工の鉄筋コンクリート造。この時代めいた建物で、首脳会談、国際会議の殆どが行われる。

数々の歴史的事件の舞台である。

ネオ・バロック様式の名建築
文化
高等教育
イヴァングラート帝国大学 | 法、医、薬、工、文、理、農、経済、教養学部 |
![]() | イヴァングラート市にある国立大学。ガトーヴィチ初の近代的な総合大学として428年に設立された。国内で最高位にある大学であり、政界、学界共に多くの著名人を輩出している。美術的価値が認められる建物が多く、燕が丘(ラースタチヌィエ・ゴールィ)キャンパスに位置する本館(写真)は、左右対称の威厳溢れる建造物で、国の重要文化財に指定されている。 |
セヴェロモルスク帝国大学 | 法、医、薬、工、文、理、農、経済、歯学部 |
![]() | セヴェロモルスク県にある国立大学。イヴァン帝大に対抗する最高学府として、鎖国中の675年に設立された。イヴァン帝大や中央政府への反抗心が強く、771年にはСГУ全学共闘委員会を立ち上げて反体制を高らかに宣言し、774年の五月革命に繋がった。近年、自然科学の研究実績で頭角を現しており、「実力のСГУ」と称される。 |
ドィーム工業大学 | 工、理、農学部 |
![]() | ドィーム県にある国立の工業大学。イヴァン大帝が工業大国を提唱した翌年の433年に設立された。帝国初の工業大学として、今もなお国内の工業大学の最高位にある。ドィーム工業地帯に位置し、近隣企業との産学協同が大いに行われている。 |
ヴァダーコイ大学 | 商、経済、社会学部 |
![]() | 450年に設立された、国立の商科大学。国際貿易港ヴァダーコイ港に近いという好立地で、商業の実際に接することができるとあって人気がある。 |
ガトーヴィチ帝国医科大学 | 医学部 |
![]() | イヴァングラート市にある国立の医科大学。431年に設立された。医学を志す受験生の憧れの大学である。大学に隣接する付属の病院(ガトーヴィチ帝国医科大学附属病院)は、君帝家のかかりつけである。 |
君帝院大学 | 法、文、理工、文化教養学部 |
![]() | 西イヴァングラート県にある私立大学。元々帝室の為に帝居に設置された学問所であったが、スヴャトホースト第4代君帝の「帝室は学問の面においても門戸を開くべきである」という勅語を受けて、515年に一般国民でも入学可能な大学として設立された。それでもなお、学生は格式のある家の出であることが多い。 |
アシュルモフ記念・ 国立イヴァングラート音楽院 | 音楽学部 |
![]() | 西イヴァングラート県に位置する国立の高等音楽教育機関。509年以来、ガトーヴィチを代表する作曲家アシュルモフの名を冠している。 |
チェーニスク正教大学 | 法、文、理工、経済、正教文化学部 |
![]() | チェーニスク県にある国立大学。605年、時のキスラロート君帝陛下の命で設立された。フリューゲル神学研究の最高峰に数えられる。 |
政治
君帝

ブラクノート・アパラートヴィチ・リーソフ
Блокнот Аппаратович Рисов
「ブラクノート」は帳面の意。
幼少期より秀才ぶりを顕され、飛び級で君帝院大学に進学、同大学院にて政治学博士号(ドークトル・ナウーク)を取得された。
御気性は物静かであられるが、これは頭の回転速度が合わない侍従達に対して関心を払わないようにされているからだという。
君帝として、国民の幸福を願われる一方、能力主義の立場から、君帝制を批判的に考察する論文を上梓している。
正式名称:全ガトーヴィチの君帝、ブラウ・ゲルプ・ロートのツァーリ、ベロガトーヴィチの大公にしてサザンベルクの公

為政院総理大臣

イオアーンナ・イオーシフォヴナ・ノジーンスカヤ
Иоанна Иосифовна Ножинская
帝国発展党総帥
ノジーンスカヤ氏はイヴァングラート帝国大学在学中に帝国発展党に入党、たちまち頭角を顕し、帝国発展党の理論的支柱として知られている。
国連大使

Б Б ボンダレンコ
Б Б Бондаренко
セヴェロモルスク帝国大学農学部卒。
元国連事務総長

アレクセイ・アレクセーエヴィチ・アルカゴーリ
ガトーヴィチ民主帝国(現神聖ガトーヴィチ帝国)アスタリノイ県出身。ガトーヴィチ国籍。
男性 50歳
■経歴
908年 ガトーヴィチ民主帝国(現神聖ガトーヴィチ帝国)アスタリノイ県生まれ。父は帝国陸軍幹部、母はブリヌイのチェーン店の経営者。
930年 セヴェロモルスク帝国大学博士課程を修業年限より2年早く卒業。博士論文の題目は「種々のアルコールの醸造過程に及ぼすランマホップの影響の評価」。
931年 帝国農林水産省に入省、食料産業局知的財産課に配属される。
932年 食料産業局知的財産課係長
935年 食料産業局知的財産課課長補佐
936年 高度な法知識を買われて帝国外政省に出向。フリューゲル国際連合神聖ガトーヴィチ帝国常駐代表部経済局知的財産課・農林水産省出向官
938年 帝国外政省に転省。国連常駐代表部経済局知的財産課課長補佐
941年 国連常駐代表部邁進官・経済局知的財産課課長
944年 国連常駐代表部邁進官・経済局長
947年 国連常駐代表部大使(経済担当) 現職■人柄
農学専攻でありながら大学法学部の講義に足繁く通った結果、法体系を熟体得し、特に知的財産の分野では帝大教授に匹敵するほどの知識と思考力を獲得するに至った。はじめ農林水産省に勤めたが、その頭脳明晰はたちまちザーマク(官公庁街)一帯で噂されるようになり、深遠な法知識を買われて外政省に出向、のち外政省に転省した。外政省では目覚ましい速さで出世し、39歳の若さで国連常駐代表部大使(常駐代表大使の次席)まで上り詰めた。第2代フリューゲル国際連合神聖ガトーヴィチ帝国常駐代表大使アレクサンドラ・ドーブレヴナ・ロクシドール(彼女もセヴェロモルスク帝国大学農学部出身である)からの信頼は極めて厚い。外政省幹部としては異色の経歴である彼は、他の官僚を差し置いて大使まで上り詰めたことに気まずさを覚えていた。大使の任期が終わったら、早々に退職し、故郷セヴェロモルスクで自適な生活を送るつもりでいた。しかし、ロクシドール国連大使の「あなたは帝国の内にとどまる人物ではないわ」という言葉がきっかけとなり、フリューゲル国際連合の崇高なる目標のため、国連事務総長を目指す意志を固めた。頭の回転が早く、立て板に水を流すように己の思考を相手に伝える。メモは全くとらない。協議や対談、記者発表のときには常ににこやかであるが、職務室で一人で仕事をしているときは鬼の形相であるらしい。
ガトーヴィチ人にはめずらしく、野球観戦を趣味としているが、ひいきのチームはカルセドニー・ソーシャリスツである。ラースタチキ・ガトーヴィチを応援しないのは、同チームがイヴァングラート帝国大学野球部を主体としており、かつ弱いため。好きなお酒はヴォトカ「ザムコーヴァヤ」。

政党

- ガトーヴィチ共産党ГКП (ゲーカーペー)Готовитская коммунимтическая партия
- 極左。435年結党、643年解散命令、799年再結党 。極左政党。共産主義の信奉者らが結党した。君帝の廃止、労働者階級の代表による国家運営を提唱、究極の目標は共産主義国家の樹立である。しばしば活動を禁じられている。
- 社会民主党СДП(エスデーペー) Социал-демократическая партия
- 左派。525年結党、650年解散命令、724年再結党。瓦成安保改定等で中道左派への転換を図ったミーロフ党首に反発した旧国民党(現労働党)の議員、および極左色を強める共産党に見切りをつけた同党の右派議員らが結党した。政策は旧国民党の政策に類似しており、軍事費削減、高福祉社会の実現など。一度解散を命じられたが、国体純化法改正を受けて724年に再結党した。
- 労働党ЛП(エルペー)Лейбористкая партия
- 中道左派。434年結党、524年改称。中道左派政党。保守的な立憲帝政党(当時)に対抗する形で結成された。旧称は国民党。低負担(減税)・高福祉社会を実現させるため、軍事費、公費の削減を訴える。諸外国とは協調外交で接し平和国家を目指す。党名を変更した頃から中道に寄る。935年第43回選挙で党勢を失った。
- 立憲進歩党КПП(カーペーペー)Конституционно-прогрессивная партия
- 中道右派。434年結党。建国当時から君帝を輔弼してきた学者・専門家らが結党した。旧称は立憲帝政党。「自然且つ緩やかな経済発展」が目標で、自由主義経済を標榜する。政権を担当した期間が最も長く、気位が高い。
- 正教保守党ПКП(ペーカーペー)Православная консервативная партия
- 保守・宗教。650年結党。正教の教義を尊重し伝統文化を継承することを目的とする。
- 帝国発展党ПРИ(ペーエルイー)Партия развития и империи
- 極右。436年結党。軍事軽視の立憲帝政党(当時)に対抗して結党された。君帝の指導のもと国力を強化する全体主義を標榜する。瓦辺戦争後の選挙(639年)以来、我が国の指導的地位にあったが、774年の五月革命によってその地位を追われた。現在は、スラヴ主義路線を放棄し、正教主義路線を掲げている。

外交
国交樹立基準
我が国は、自動国交樹立方式を採用している。参加中の国際機構
- WTCO(国際交易協力機構)
- 我が国は816年6月に加盟した。
- FUN(フリューゲル国際連合)
- 我が国には850年の発足からの原加盟国であり、852年より安全保障理事会一般理事国を務めていた。
- オプシストヴァ(ソサエティ)
条約
- ガトーヴィチ民主帝国とロシジュア帝国との間の交流に関する協定
- ガトーヴィチ民主帝国とリブル民主共和国との間の平和友好交流条約
ガトーヴィチ民主帝国とアッザース朝との間の銀鉱山の開発に関する協定- ガトーヴィチ民主帝国とベロガトーヴィチ大公国との間の安全保障条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とリブル民主主義人民共和国との間の銀鉱山の開発に関する協定
- 神聖ガトーヴィチ帝国とサンシャ独立国との間の不可侵条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とサンシャ独立国との間の修好条約
- 神聖ガトーヴィチ帝国とベロガトーヴィチ大公国との間の銀鉱山の開発に関する協定
- 神聖ガトーヴィチ帝国と民族自治軍管区ハルィチナーとの間の修好条約
宗教
ガトーヴィチ正教会

ガトーヴィチ正教史
ガトーヴィチ正教会は、帝国民の8割が信仰している、国内最大の宗教である。5、6世紀に、正教を信仰する帝国民は限られていたが、転機となったのは、キスラロートКислород第九代君帝(在位595-631)の治世である。キスラロート君帝は、タチヤナ2年-596年-に朕深く帝室と朕が国家の現状とに鑑み正教への改宗を聖断し而して正教要理及び洗礼を受け以て正教徒と為れり。…
という書き出しの「正教改宗の勅語」を発表し、(1)正教への改宗 (2)聖堂の建設 (3)君帝の君主号維持を表明した。当時、キスラロート君帝の御身辺では、イストーチニク先帝陛下の崩御に続き、姉のコージャ皇女・娘のラパータ皇女が薨去、さらにはオストラフ県に巨大隕石が落下し、県内の防衛大学校で勉学に励まれていた皇孫ミェール公も犠牲となった。こうした悲劇が、元々正教に関心をお寄せになっていたキスラロート君帝が改宗を決断した理由とみられている。 タチヤナ5年-599年-の宗教統計調査では、ナターシャ14年-589年-比でガトーヴィチ宗(後述)の信者数が1/3に、正教の信者数が4倍になった。 タチヤナ14年-608年-には、救世主ハリストス大聖堂において新コンスタンティノープル・イヴァングラート大主教、全地総主教に着座された。全地総主教は、6世紀はじめにシオン総主教が就いていた地位であった。君帝と全地総主教を兼任するという事態は、皇帝と総主教が互いに尊重・理解しあい、この世を鑑とするビサンティン=ハーモニーから外れており、フリューゲルにおける唯一の正教会の方針を決定づけるものとなった。 タチヤナ19年-613年-、キスラロートイヴァングラート総主教・全地総主教・君帝は、
朕惟ふに、我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民正教を篤く信仰するに因りて、帝国愈々殷盛を極めたり。(中略)然るに朕爾臣民と倶に瓦都美地正教を国教と為し之を拳々服膺して皆其徳を一にせんことを庶幾ふ。という文の「国教に関する勅語」を渙発し、タチヤナ22年-616年-にはゾロアスター教を名指しで批判する「異教に関する勅語」を渙発した。その後は、ゾロアスター教徒によるデモが発生し、618年には正教保守党グランカ司宰の暗殺事件(血の降誕祭事件)、君帝の権限縮小を求めるデモ隊と近衛軍の衝突、帝国議会の解散総選挙が立て続けに起こった。タチヤナ37年-631年-、キスラロート君帝の崩御により、ガトーヴィチの宗教的混迷は終熄したが、このタチヤナ時代を転機として、ガトーヴィチ正教会は帝国における一大宗教の地位を確立したのである。