トップページ › フォーラム › 外交交渉 › 953年石動・秋津首脳会談 › 返信先: 953年石動・秋津首脳会談
フリューゲル歴953年五月十八日、大秋津国上将軍細川経政公は石動へ訪問。宮中へ参内し児島宮太上皇帝、扇宮皇帝両陛下に謁見したのち、公方府庁舎へ訪問。公方府庁舎六階第一応接室「屏風虎の間」で大石動帝国征夷大将軍、足利輝子殿下と会談を行った。
細川経政
畏くも太上皇帝陛下、皇帝陛下、大君殿下にお目通り叶いましたこと恐悦至極の至り、この度は訪問を調整頂いた大石動の皆様に深く感謝申し上げ候。
足利輝子
石動へようこそ!細川経政上将軍殿下!大石動帝国征夷大将軍、足利輝子でございます!
長旅の上、上皇、皇帝両陛下への謁見、さぞやお疲れでございましょう。
とんでもございません!この輝子も殿下とお会いする時を心待ちにしておりました!
さあ、殿下の為特選の石動茶と銘菓生八つ橋をご用意しております!お口に合うか分かりませぬが、どうぞご賞味ください!
さて、殿下もご承知の通り、我ら石秋の間には行き違いによりいらぬ疑念が生じておりましたが、貴国報道によってこの疑念も晴れ、
こうして石秋両朝の国交再開が相成りました。この上は、愈々石秋友好を期すべく、本会談を有意義なものとしたいと考えております。
細川経政
おぉ、これは洛安のお茶と八ツ橋とは違った趣で美味ですな。
私も秋津茶と和三盆糖、八ツ橋を持参して参りました。先程、皇上にも献上させて頂きました。
これ、持って参れ!
(武官、輝子殿下に御土産を献上致す。)
我らも秋石間の誤解が解け、国交再開成ったこと、我が主上も喜んでおります。
897年生まれの私は、丁度大御所殿下と同年代ではありますが、遠慮なくお話下さい。
足利輝子
お口に合いました様で、何よりです!
和三盆糖!地球時代の四国からの伝統を持つというあの!
……失礼いたしました。かつて石動にも和三盆は伝わっており、嘉川道で盛んに生産されていたのですが、南北動乱の折に職人が絶え、今では嘉川道へ行ってもうどんしか食べられない有様で(笑)
いやはや、こうした地球日本の文化を正しく継承する我ら両朝が友諠を結ぶことこそ、まさに東方情勢の安定化の第一歩、ひいてはフリューゲル史に遺る第一歩といえましょう。
ああ、話していると喉が渇いてしまいました。私も失礼して…ズズッズ…
(一杯一万Vaの特選茶を一気飲みする輝子。後ろで青ざめる二条治子外務卿。さもありなんと輝子を冷えた目で見る細川幽子管領)
そうですね、気品ある殿下とお話ししておりますと、まるで亡き父、伊勢隆景と話しているような、不思議な安心感がございまして…
ああ、話がそれてしまいましたね。さて、両朝の疑念が晴れたのは喜ばしい事なのですが、我ら二朝には歴史的遺恨もございます。かの5世紀後半に第二帝政期の本朝が秋津皇国を併合、その後当時の秋津洲が離反し、石動からの主権放棄がなされるに至ったという一連の事件がそれでございます。すでに500年近く昔の話ではありますが、殿下に於かれましては、これらの歴史的経緯について如何にお考えでしょうか?
細川経政
左様でしたか。本朝の戦国同様に南北動乱の爪痕は大きいようですな。
(輝子を温かく見つめる経政)
それは興味深いですな。また父君のお話しをお聞きしたいですな。
これ、もう一杯淹れなさい。
(茶を点てて輝子に献じる坊主)
勿論、かつての歴史はよく存じておりますとも。
時の宰相が愚昧な為に当時の石動第二帝国や大幹帝国には多大な迷惑を与えました。
何でも国際社会に向けて「やられたらやり返す」などと低劣な発言をしたと伝わっておりますが、当に秋津の恥ですな。
そのお蔭で初代上将軍、経氏に至るまでの混乱があったのです。
足利輝子
そうですね、私が齢12の折に死別してしまいましたが、伊勢家の出身らしい、殿下の様な気品あるお方でした…ええ、その話はまたいずれ(笑)
ああ、これは秋津茶でございますね!頂きます!いやあ、茶坊主まで連れてご訪問されるとは、風流人の殿下らしいですね!
ズズッ…美味しい!まことに美味にございます!その、石動茶にはない味わいですね!
(本当に味が分かっているのかという目で輝子を見る細川幽子)
殿下のお言葉をお聞きして安心いたしました。
さすれば悲しい結果となってしまったかつての石秋関係に囚われず、これからの新たな、より良好な石秋関係を築いていける様、本朝としても努力していきたい所存にございます。
しかし考えてみれば本朝も貴朝もいつの間にか将軍が国を治める政治体制となった事には奇妙な縁を感じますね。
こうした文化・政治両面に於いて価値観を共有する我ら二朝なればこそ、新たな、より持続的な友好関係を築いていけるのではないかと、この輝子は考えております。
細川経政
そうでしたか。
石動再統一もそうですが、殿下は苦労を成されてきたようですね。
経氏公や、秋津再興を遂げた父、経隆の若い頃を思わせますよ。
ほっほっほ。気に召して頂けたようで良かったですよ。
経氏公は足利尊子公や足利滿子公に倣い、幕府制こそが秋津を立て直す道であると考えたのです。
貴国が田中某という立憲制時代の総統の失政から国家社会主義制を経て、第三帝政以来の幕政に落ち着いたように、秋津も最早歴史に名も残っていない阿呆宰相の反省から、第一の朝臣たる将軍と関白が主上と臣民に対し責を果たす国となったのです。
今の両朝ならば殿下が仰るように友好が叶うものと思います。
足利輝子
恐れ入ります(笑)
松永の刺客に取り囲まれた時は正直もうダメかと思ったのですが、何とかなるものですね(笑)お陰で将軍家相伝の宝刀を五本ばかりダメにしてしまいましたが(笑)
地球時代の細川京兆家の系譜に連なる秋津細川上将軍家が秋津の再統一と再興を成し遂げられたことは、誠にフリューゲル史に遺る素晴らしき佳例と存じます。
おっしゃる通り、本朝の初代将軍統持院尊子公、三代将軍鹿園院滿子公の築かれた、征夷大将軍が第一の臣下として主上から兵権を含むあらゆる大権を預かり、国を治める事こそ石動再興の道と信じ、この輝子も今日まで血が滲むような努力をしてまいりました。
私も上将軍殿下と親しくお話しまして、この輝子もこれからの石秋関係により一層希望を持てるようになりました。これからの石秋関係を、フリューゲル史に遺る発展的・互恵的関係に昇華していきたいと存じます。
細川経政
殿下は剣の達人とのことで、一度仕合うてみたいものですな(笑顔)
我が家は本来、足利の家臣筋、歴史上出過ぎた真似をした例もあるとは言えそれは変わりありません。お褒めに預かり光栄の至りです。
私も殿下とお話しすることが出来て、過去の歴史を超えて新しい秋石関係に希望を見出すことが出来ました。
差し出がましいことを申しますが、これからはこの経政を父のように思って貰えれば嬉しいですな。
実は、男子が三人おりますが女子が居なかった故、失礼ながら殿下が可愛くて仕方ないのですよ。
足利輝子
ぜひぜひ(笑)竹刀でよければ、この後如何ですか一番(笑)
かっ可愛い…?将軍家の娘として生まれ、軍議政務と剣術に明け暮れた輝子に、その様なお言葉をお掛け下さったのは、殿下が初めてにございます…(赤面)
(まずいことになったんじゃないかと細川幽子を見やる二条治子。無言で経政上将軍を睨む細川幽子)
(盛大にわざとらしく咳き込む伊勢隆貞政所執事)
でっでは、これからの石秋関係をより素晴らしいものにするため、本題に入りましょうか!父う…上将軍殿下!
細川経政
(武官、僧官に緊張が走る。何ら気にしない様子の経政)
では、会談の後食事の前にお手合わせ願いましょう。
さ、始めましょうか。輝、、征夷大将軍殿下!
こうして石秋首脳会談は終始和やかに進み、会談に於いては相互に以下の案件が合意された。
・瓦帝戴冠式に出席した「石動皇帝」の出自等、秋津に対する石動側の疑念が晴れた点を改めて確認する
・石動・秋津は相互に両国が石動第三帝国、秋津皇国の正統後継政府である事を改めて確認し、両国の立場を尊重する。
・在秋津「石動皇帝」山城宮とその一族は石動皇室の宮家たる後明日香宮家として石動に帰国する。山城宮は石動皇族たる王となる。
・石動・秋津間のこれまでの義務・請求権は一切を継承せず、新たなる友好関係を築く。
・石動・秋津は旧世界日本国の民族・文化を継承する東方の友好国として経済・文化両面に於いて協力・交流を深め、フリューゲル東方地域の安定化に寄与する
・在秋津石動人のうち、石動本州への帰国を望むものは段階的に石動へ帰国する。
・両国の経済・文化交流及び犯罪者引き渡しの相互承認。
これら諸案件の合意を確かなものとするため、本会談に於いて「石秋友好修好条約」が締結された。
- この返信は3年、 7ヶ月前に大石動帝国が編集しました。理由: 誤字の為(足利照子× 足利輝子)