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共和国、フリューゲル国際連合に再加盟
BCAT枠の初代同盟理事国に選出へ
1039年1月中旬、共和国政府は国連事務局に対し、※国連加盟国資格の回復を要請し、国連安保理は共和国の資格回復を決議(S/RES/50)した。
共和国の通告に先立ち、国連安保理は加盟国の権利及び特権の停止勧告に係る取極め(S/RES/49)を決議している。これにより、加盟国の権利及び特権の行使の停止勧告を含む決議案が提出された場合、その投票要求に移る為には当該国への聴聞動議可決が必須となり、当該国の発言権が保護された。言うまでもなく、この決議は共和国の国連脱退事由に関連するもので、1033年の別加会談により方向性が示されたものだった。
※国連加盟資格の回復 : 政府公式見解は、共和国は国連を「脱退」しており、今般の復帰は「あらためての加盟(再加盟)」というものだが、国連側の処理は「資格停止」であり今般の復帰は「資格回復」である。復帰要請にあたり、この見解相違は問題とされず、共和国は要請の本文で「表現に差異はあれど、事実上、共和国の提示した猶予期間中に条件無く脱退した」と前置きして政府見解をあらためて示しつつも、通告自体は「国連への加盟資格回復を要請する」とした。再加盟であれ、加盟資格回復であれ、もたらされる結果は同じであり、結果によって問題そのものが消失したといえる。この例をはじめ、ここ10数年の国連を巡る共和国外交は「顧小失大」回避を強く意識したものに映る。ヴィウチェイスカヤ首相自身、臆面ない実利主義傾向があったが、労働党や外務省も、十分にこれを踏まえていたようだ。
シュロイメ・ミルヌイ 国連大使(当時) インタビュー
脱退当時の状況では、眼の前の主権侵害を棚上げする事は難しかった。一方で、安保理による謝罪も、現実的でないことはよく理解されていたと思う。首相は勿論、外務省の全員がそうだった。謝罪は否決されつつも、今回のような聴聞動議が将来的課題と明示されていれば、共和国の行末は大きく変わっただろう。少なくとも国連脱退はなかった。SSpact脱退も、あるいはなかったかもしれない。
当時から、加国とは水面下の交渉があった。加国側の案は、実のところ今回とほぼ変わりがないものだった。当時も双方が妥協案を探ったが「謝罪要求に対する審議」そのものの可否で折り合いがつかず、交渉は打ち切られたと記憶している。
再加盟までに多くの時間を必要とした。この間、国内外の政治状況は激変し、党も十分に頭を冷やす暇が与えられた。そして共和国の国連復帰が、双方の利益と認識されるに至ることが出来た。
個人としても、救われた思いがある。私は既に引退しているが、現政権の一翼を担うエレーナ(ザラフィアンツ元首相)にとっては、それ以上ではないだろうか。
※編集後記
当時国連大使を務め、各国の矢面に立ったミルヌイ氏と、彼を送り出した政府・外務省が、国連脱退回避派であったことは、現在では大衆的にも周知の事実である。既に引退した彼からは、分裂しかかった労働党中央委員会の中の強硬派や、世論の波にのって脱退を煽った連盟に、脱退の責があるとの感情を強くしていると感じた。
共和国の国連加盟資格回復と普蘭合衆国の国連加盟を受け、第19回通常会期で採択された勧告は条件を満たす事となり、安保理は対BCAT同盟理事国枠拡大決議(S/RES/51)を採択した。
これを受け、1040年11月、BCATは加盟国政府理事会で同盟理事国の推薦を決議。BCATが推薦する最初の同盟理事国として、共和国が全会一致で指名されている。
カルセドニー中央通信社が直近の社説において指摘しているように、BCATは同盟理事国の次回任期である1041年の開始までに同盟理事国を輩出したい意向があったと見られ、その期日までに超えるべき多くのハードルをクリアした事は、国際外交史上、稀有な実績として記録されるだろう。
外務省は新しく派遣される国連大使として、駐烈大使や政策局長経験もあるロマノヴィチ・ サルィチェフを任命した。
瓦国ブラクノート君帝死去
ヴェールナヤ大公女が帝位継承
1040年7月、神聖ガトーヴィチ帝国は、同国の第27代君帝ブラクノートが死去したと発表した。在位期間は53年8ヵ月。
君帝死去の報を受け、共和国政府は「ブラクノート君帝陛下の崩御の報に接し、瓦国帝室、瓦国政府及び瓦国人民の皆様に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。」と声明し、弔意を示した。
ブラクノート死去により、その帝位は長女であるイヴァングラート大公女ヴェールナヤが継承した。
女性が帝位に着くのは第25代君帝インターリの例から史上二人目となる。
帝位継承権については、ガトーヴィチ民主帝国とガトーヴィチ・ツァーリ国間の争い(ガトーヴィチ内戦)の主要な問題の一つであり、最終的には、両勢力が結んだ「スヴャトホースト合意」の中で、長子相続が確認されていた。
しかし現在も、帝国発展党を筆頭とする右派勢力は、男子継承を主張する向きがある。
長男であるヴァダロート大公がいる中、女性であるヴェールナヤの帝位継承は、かつての帝国であれば大きな議論を巻き起こしたことだろう。最悪の場合には、遡っての継承権論争ともなり、かつてのような分断を招きかねない。
あるいは、これが右派政権下での出来事でなかったことが、混乱を抑制したともいえる。
なお、ガトーヴィチ君帝を大公として儀礼上の国家元首とするベロガトーヴィチ大公国では、ガトーヴィチ系とヴォルネスク系の差異によらず、住民の反応は概ね歓迎ムードであるようだ。
BCATを軸として、共和国と帝国の融和・協力関係が飛躍的に前進する今日、ヴェールナヤの即位は、ヴェールヌイを冠する共和国からすれば、縁を感じるところであろう。
1041年に執り行われる予定の戴冠式には、既にヴィウチェイスカヤ首相が参列する意向を示している。
フローリドで労働争議が社会問題化?
与党国民運動党に試練の時
ラ・フローリド共和国(以下花国)の主要メディア「エル・カバーニャ」は1039年の紙面で「経済成長は良い面ばかりではない。利益を得るのはいつの時代も一部の人々だ」と題し、近年の経済成長から来る労使対立の深刻化を懸念する記事を掲載した。
記事によれば、農業の効率化と大規模化によって、同国が主要な食料輸出国に成長したとする一方、外貨流入を原因のひとつとして、大幅な物価上昇を引き起こしている現状があるとした。
詳細は不明ながら、短期的に物価が大きく上昇する中で、比例して人民の生活水準を維持または向上させるには、持続的な賃上げが必要不可欠である。
内外に向け労使対立が大きく報じられた事は、消費者物価の上昇率が賃金の上昇率より大きく、花国の企業や行政側が適切に対応できていない状況が、深刻な段階にあるというサインだろう。
花国は、カバーニャ及びナルガの統一による現共和国の成立以来、※初代大統領リリアナ・バルベルデ率いるフローリド国民運動党が、一貫して政権を維持している。
※花国の大統領制は名誉職型に近しいもので、実権は閣僚評議院議長にあるが、バルベルデ大統領は国民運動党の代表でもあり、事実上の権能は絶大である。
ただ一人が超長期にわたって大統領の座にあり、国民運動党が与党であり続ける現状に対し、これを独裁国家と揶揄する声も少なくない。
一方で、経済・外交等のあらゆる分野における堅調な実績と、大統領自身の民族色の強いパッション性が、花国人民から広範な支持を獲得してきたのもまた事実である。
共和国は、花国が建国黎明期の旧ナルガ自治政府の時代より、開発支援協定を通じて、その経済開発に深く関与してきた。
花国は中規模商農国として計画的に開発された経緯があり、同時期に誕生した複数の新興国の中でも、社会安定性を早期に確立し、堅調な規模拡大を記録し続けるなど、抜きん出た存在であった。現在では普蘭、ガトーヴィチといった国から商品を輸入し消費する傍ら、主力輸出品である食料で、大国の食料需要の一端を担っている。
1014年には、花国バルベルデ大統領とコズイレフ首相が会談した。
この際、別側は開発支援協定と治安維持協定の見直し、終了を提案しており、開発支援協定の終了には合意したものの、花側の希望で治安維持協定は維持された。この事は、花国が1030年代に至っても目立つ経済成長を記録した事と、けして無関係ではないだろう。
花国は新興の小国から、確固たる中堅国家の地位に足を踏み入れ、その成熟を図る段階にあり、政治的にも新たな経験を積むべき時期にきているのかもしれない。
いずれにせよ、花国人民が自らの力で困難を克服し、さらなる飛躍に繋げる事を、我々は彼らの友人として祈るばかりである。
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ブルースター紙 発行:37473期1040年11月下旬