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尊攘義軍事変

986年(正明50年)6月17日、同年4月に発生した震災の混乱の余波が続く中、関東地方にて「尊皇攘夷起義臣軍」(通称「尊攘義軍」)と称する賊軍が蜂起した。

首領、北条吉兼(元・武蔵守)は国連決議違反騒動により公卿多数が処罰、島津公自死が起きた事件以来、朝廷、幕府の国連重視政策に不満を持ち同調の武家、公家、寺社神社勢力と共に抗議を続けてきたが、前年末に遂に将軍殿下の沙汰により官職を解かれていた。

彼らは「国連脱退」「国粋主義」を掲げ関東各地で謀反を起こし、洛安京を目指すも中山道の戦いで幕府追討軍に敗れ、東北地方に逃亡、蜂起軍に与した保守派の武家伊達高治(仙台鎮台司令官・幕府陸軍少将)の庇護により奥羽山脈に立て籠もり徹底抗戦の構えを見せた。

幕府軍は友邦大石動帝国に航空支援を要請し、ガトーヴィチ帝国の弾薬提供のもと大攻勢を掛け、987年3月8日、9ヶ月の乱戦の末「尊攘義軍」は平定された。

尊攘義軍の蜂起に、一部の幕府陸軍・空軍の将官が寝返ったことにより初動対応が遅れ甚大な被害が生じ、他国の手を借りて鎮圧した事実に幕府は大きな批判に晒されている。

従来、地方の諸侯を守護知藩事、鎮台司令官に兼職させ大きな力を持たせてきた体制の脆弱性が露呈し、この機に中央集権を進めるべきであろう。

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