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新メトロポリス出版『詳説セニオリス史B』

概要

このページではセニオリス共和国後期中等教育課程相当のセニオリス史教科書の内容を抜粋している。なお理解を助けるため、一部では同課程で用いられる資料集から引用する場合がある。この色の文字では、後期中等教育課程の範囲から逸脱する補足や考察などを付けていく。なお、考察にはメタ的な考察も含む。

教科書の概要

『詳説セニオリス史B』は、セニオリス共和国の後期中等教育課程において用いられる「セニオリス史B」の教科書の一つである。新メトロポリス出版からの教科書は社会系科目の教科書である「詳説」シリーズで知られ、その中でもセニオリス史A・B、フリューゲル史A・Bの4冊は幅広い学校で採用されている。

セニオリス史A・Bはその名の通りセニオリス史を対象とする科目であるが、Aは915年のセニオリス第二共和国以後のみを対象にするのに対し、Bは6世紀初頭の移民船団「セニオリス」の到来から現代までを幅広く対象とする違いがある。いずれも日本史A・Bの戦後史を延々とやり続けるようなものなので外交史や政党史など、学習内容が多彩な社会科学系分野に跨っている特徴がある。

0.まえがき

「セニオリスの歴史って何の役に立つの?」
この教科は、皆さんがこの国で文系としての進学を志す限り、多くの場合で避けることができない科目となっています。
セニオリスの未来を担う皆さんの中には、もしかしたらこの国の歴史を学ぶことに価値を感じていない方もいらっしゃるかもしれません。
まもなく1000年を迎えようとするこのフリューゲルの暦の中では、生まれそして消えていった国は数知れません。そのような中では、個別の国家の歴史を学ぶ必要性に疑問を持つことも、致し方のないことです。
では、なぜセニオリス史が求められているのでしょうか。
皆さんが世界に羽ばたく時、もしかしたらセニオリス出身という言葉に驚かれることがあるかもしれません。
実は、このセニオリスはフリューゲルの数ある国家の中でも特異な歴史をたどった地域なのです。
皆さんが将来フリューゲルの広き海に飛び立つ時、セニオリス出身者としてどうたち振る舞えばよいのか?
その問への答えを出すことはもちろん簡単なことでは有りません。しかし、そのヒントはこのセニオリス史という科目こそにあるのだと私達は考えます。
さあ、飛び立ちのための第一歩を歩んでみましょう。

1.セニオリスのはじまり

セニオリス地域の歴史は6世紀まで遡ることができます。721年の共和国建国までの歩みを追いましょう。

セニオリス王国の起こり

セニオリスの名の由来は、資源枯渇と汚染の進んだ地球からこの惑星フリューゲルへの移民を乗せた船団の名に由来します。移民船団「セニオリス」の到着はフリューゲル歴で500年頃のことでした。この地域には「セニオリス王国」が建てられ、人々は豊かな森林資源を元手に生活をしていました。

620年に、地域の南方に位置したラングラード連邦共和国が滅亡し、その避難民が到着しました。セニオリス王国はこれを受け入れ、ランガル人とカルス人が新たに王国の一員となりました。この難民は当時の王国に失われていた地球時代の技術や社会制度を持ち寄りました。これによって王国の経済は急成長していきました。

拡大する貧富と怪獣

急発展する王国経済でしたが、同時に経済競争の激化によって貧富の格差が生まれつつありました。目覚ましい発展の中にあって問題の顕在化は遅れましたが、貧困層の不満が王国を次第に蝕みつつありました。

そのような中の683年2月、突如として巨大怪獣「いのら」3体がセニオリス本島南東部に上陸しました。軍備力が限られ国際社会との結びつきが無かった王国は対応が出来ぬまま、国土は荒らされ続けることとなります。全土に渡ったこの災害は特に農村部に甚大な被害を及ぼし、王国の食糧生産基盤は大きく損なわれました。怪獣災害は約1ヶ月の間続き、1体のみが撃退、残りは自発的に撤退という凄惨な結末となりました。

セニオリス内戦

経済成長の影で拡大していた貧富の格差に、怪獣襲撃による国土荒廃が加わったことで深刻な社会不安が王国を覆いました。食料流通の壊滅には富裕層による穀物買い占めも拍車をかけていました。全土では食糧不足の貧困層が富裕層や商業施設、更に農家を襲撃し始めるなど治安が急激に悪化し、経済状況をより深刻なものとしていました。このような事態の中では食料生産の回復も遅々として進まず、政府の徴発政策は長期化していました。しかし根本の生産量が足りていない状況であり備蓄の回復も遅れ、一部農村では飢饉が発生し始めました。

飢饉を受け、各地では政府の徴発政策への不満が急激に高まることとなります。秋の収穫期には富裕層による再びの買い占めと高額転売が起き、打ち壊しや襲撃に歯止めがかからない状況となりました。一連の買い占めには当時の王宮と繋がりが深い人物も公然と関わっていたために政府は有効な手が打てないままでした。まもなく冬を迎えようという時期にこの買い占めと王宮の繋がりが衆目に晒されることとなり、社会不安は急激に体制への不満へと発展しました。

最初の蜂起は683年12月14日に南部の小都市でありました。次いで買い占めに乗り遅れた地方領主、社会不安により転落しつつあった中産階級らが反王政に加わっていくこととなり、国土は王国軍と反乱軍の間で2分されました。王国側も反乱を受けて親しい富裕層の囲い込みを急速に進め、反乱軍は一時補給難に陥るなど膠着状態となりました。しかし王国政府は大衆の支持を失ったことで親しい富裕層への依存を強め、有効な施策を打ち出すことがますます困難となっていました。事態を重く見た反乱軍は王国の完全なる打倒で一致し、688年9月7日に臨時政府を形成しました。臨時政府が食料流通の復旧に力を注ぐ一方で、王国政府は富裕層からの支援に依存しその体力を失っていきました。691年には両勢力の体力の差は歴然となっていました。同年11月21日に臨時政府側は王宮ハルクステン城に突入に成功し、王族らに退位と全面降伏を要求しました。王国側はこれを受け入れ、セニオリス王国は滅亡しました。

臨時政府体制

全土を統一した臨時政府を待っていたのは、従前からの経済格差に加えて怪獣に次ぐ内戦で焦土化した国土でした。対応は困難を極める事が予想されましたが、政府は富裕層への増税や規制強化により断固として対応し、長らく低迷するばかりであった情勢を上向かせることに成功します。こうして、ここにその後100年近く続く「社会的市場経済」の源流が現れることになりました。
経済が完全に立ち直った721年12月14日、臨時政府は革命38周年のこの日にセニオリス共和国憲法を発布しました。この時同時に開国も宣言され、「セニオリス共和国」の歴史が始まりました。これを「第一共和国」と呼ぶこともあります。最初の大統領選挙で当選したのは、臨時政府にて復興に尽力したアルベルト・ハルヴァリでした。

考えてみよう

王国はなぜ社会を安定化出来ないまま倒れてしまったのだろう?また、臨時政府が安定化に成功したのはなぜだろう?両者の違いはなんだろう?

2.急成長するセニオリス

721年12月に成立したセニオリス共和国は、発展とともに国際社会への歩みをゆっくりと進めていきます。

発展の時代

共和国の最初の目標は、700年以上の歴史を経験していたフリューゲルの水準に追いつくとともに、開発のための資金源を確保することでした。
722年9月、ヴァノミス連邦からの支援を受けた鉱業公社がウラン鉱脈の探索を開始し、見事に成功しました。共和国は燃料定期輸出により安定した財源を手にし、国土の開発が急速に進められました。724年5月には総人口が300万人を突破し、725年の大地震を経験しながらも730年には年間商業売上が10兆Vaを突破する急成長を見せたのです。

社会的市場経済の目覚め

こうした経済発展の裏で、共和国は7世紀中の王国時代に起こったような貧富の格差拡大の懸念を強く抱えていました。ハルヴァリ大統領は経済発展の裏で、経済政策に関し中道左派の社会民主党と連携を取ることを決断し、充実した社会保障政策を実行していきました。これによって王国時代のトラウマとなっていた経済成長による格差拡大を克服するだけでなく、先進国並みの幸福度を実現することに成功したのです。これが、その後1世紀近くに渡り続く「社会的市場経済」の誕生の瞬間となりました。社会的市場経済の形成は、政治的には社会民主党の支持拡大という効果をもたらすことになりました。8世紀中盤のセニオリス共和国は、大統領を擁する共和党の一党優位政党制から、社会民主党との二大政党制への道を歩みつつありました。

自給自足経済と首都移転構想の起こり

こうして発展を続けた共和国は、一方で国内産業の成長によってこれまでの資源輸出政策に行き詰まりを覚えつつありました。当時の首都ハルクステンもまた開発限界に達しつつあり、都市の歴史的価値がその再開発をも妨げていました。共和党・社会民主党の2党はこれらの問題を解決すべく、2つの構想を立ち上げることとなります。

一つはハルクステンより離れた地域に新都市を作り上げようとする「首都移転」でした。こちらは共和党が中心となり取りまとめたもので、共和国経済の総仕上げにも位置づけられました。もう一つは国内外との取引を最小限に押し留め、自国領域内での経済を優先させようとする「自給自足経済」でした。こちらは社会民主党が中心となったもので、飢餓輸出状態の回避と国際市場の変動に関わらない安定的な社会保障体制の構築が名目でした。

ハルヴァリ大統領は746年の第4回大統領選挙において、首相だったエルフリーデ・ローレンフロストに移転計画と自身の後継を委ねました。選挙結果に基づき、ローレンフロスト新大統領の元で開発計画が進められていくこととなりました。新首都の候補予定地は平原が広がっていた南西部が有力視されました。しかし候補地は湿原が混ざる国内有数の地域だったことで環境破壊を懸念した緑の党などが根強い反対に回りました。また一方ではフリューゲル最大規模の首都建設構想も持ち上がったことで、計画は迷走をはじめました。

新首都エルドラード

首都移設計画が難航を見せる中、755年6月に首都ハルクステンの北部を巨大隕石災害が襲いました。死者・行方不明者は200万人超を記録したこの災害の復興は歴史的地区の復元などに大きな手間が掛かったことで大幅に遅延し、首都移設の必要性をまざまざと見せつけました。

大統領就任から18年が経過した764年9月、議会は首都移設計画を大胆に進めていく必要性から、大統領の再選規定を最大3選から最大6選へと拡大しました。これによって、当初770年までが最大任期であったローレンフロスト大統領は794年までという長い時間的猶予を得ることが出来ました。

第一共和国の大統領任期は1期8年であり、3期を全うした場合は24年となる。これは現共和国大統領の最大任期(12年×2期)と一致し、フリューゲル特有の事情を加味してもかなり思い切った延長だったとわかる。フリューゲル歴24年は現実時間でおよそ6ヶ月程に当たり、メタ的に見るならばIN率に対応するためと考えられる。また、丹精込めて生み出した人物に6ヶ月余りで退場されてはたまらないとの思惑もあったのだろう。なお、この48年という期間そのものの長短については、ストリーダ王国の初代国王シャルガーナの在位が約330年という事実をもち、判断を差し控えることとする。
ところで、この再戦規定拡大に触れる報道では「一部野党は政権の長期化に伴う右傾化を懸念している。」と紹介された。ここで読者の皆様に意識していただきたいのは、第一共和国は経済政策で中道左派の社会民主党と協調路線を取るなど全体的に左右の隔たりが一貫して曖昧であり、かつ大連立により与党が巨大化する傾向にあったということである。「右傾化」との文言は当時の最右派であったセニオリス民族保守党の台頭を連想させるが、実際にはこの改憲草案が共和党及び社会民主党が主導するものであったことは明白だった。この場で懸念すべき点としては右傾化よりもむしろ単純に「民主主義の硬直と弱化」であろう。このようなさりげない見解不足は左派政党のみならず当時の共和国全体に蓄積しており、この後のセニオリス史において深刻な影響を及ぼすことになるのである。

768年7月には新首都「エルドラード」の建設計画が始動しました。この計画は、総事業費約280兆Vaに上った当時のフリューゲルでは最大級の都市計画でした。新たな都市名は、かつて地球にあったと言われる「黄金郷」が基です。この計画によって、前首都ハルクステンが抱えていた防衛力の低さの問題が解決されることが期待されました。またこの巨大都市の建設は、自給自足経済構想に基づく国土開発の最終段階にも位置づけられました。発展を続けるセニオリス共和国は、8世紀後期に完成形を迎えつつ有りました。

考えてみよう

当時のセニオリス共和国が、半世紀ほどで目覚ましい発展を遂げる事が出来たのは何故だろう?また、現在の共和国と比べてどのような点が異なるだろう?

3.国際社会への歩み出しと誤算

768年7月に懸案であった首都移転にも目処をつけたセニオリス共和国は、いよいよ国際社会への第一歩を踏み出します。

新興諸国開発共同体(ENDC)とユリウス戦役

これまで国内の経済開発に注力していた共和国は、建国からまもなく半世紀を迎えようという時期にあたるまで外交的動きが乏しいままでした。しかしその国土開発にも一定の目処が付きつつあり、ローレンフロスト大統領は国際社会に向け存在感を示すべく動き始めます。

共和国の最初の試みは新興国同士の連携を構築することでした。768年7月24日にはラルティスタ社会主義共和国、ユリウス王国との間に「新興諸国開発共同体条約」を締結しました。この共同体は英名から「ENDC」との略称を持ち、加盟国間での資源融通や既存の機構に依らない国際経済の発展を目的としていました。

しかし、条約締結の僅か2ヶ月後、ENDCは危機を迎えました。共同体の原加盟国であったユリウス王国の国営報道機関が突如として「セビーリャ自治政府国、カルセドニー社会主義連邦共和国へ宣戦布告」と事実無根の情勢を報じたのです。これを敵対行為と認定したカルセドニー社会主義連邦共和国、ロムレー湖畔共和国、レゴリス帝国は直ちにユリウス王国へ宣戦布告し、ここにユリウス戦争が起こりました。ユリウス政府はその後11月にはENDC加盟国であった共和国及びラルティスタ社会主義共和国に明白に敵意を示すなど錯乱の動きを見せ始めました。共和国は768年11月中旬にユリウス国に宣戦布告し、望まぬ形での初めての戦役を経験することとなりました。

このユリウス戦争によりENDCは発足から1年に満たない間に加盟国を1つ失うこととなりました。ラルティスタ国も新興国向け開発支援を告知するなど当初は建て直しの動きを見せましたが、突如の戦災は政府機能を確実に蝕んでいました。政府機能を低下させていったラルティスタ国は786年1月の外交活動を最後の記録として滅亡し、加盟国がセニオリス共和国のみとなったENDCはその花を咲かせることなく消滅しました。

自給自足経済の頓挫

外交において苦い経験を積んだ共和国でしたが、内政では780年代までに新首都エルドラードが完成し開発の最終段階を迎えていました。その締めくくりとして共和国は「自給自足経済」の完遂を目指し、各国との定期貿易の終了を通達します。794年の第10回大統領選挙にてローレンフロスト大統領はシルウァ・イェールシュテットを後継に任命しました。イェールシュテットは大差で勝利し、共和国の舵取りを引き継ぎました。

しかし、こうした動きは国際社会に必ずしも歓迎されるものではありませんでした。レゴリス帝国、普蘭合衆国、ロムレー湖畔共和国の三カ国は799年2月1日、セニオリス共和国に対して共同非難声明を発しました。声明では自給自足経済政策について「悪しき政策である」と断じ、鉱山資源は「幅広く国際社会に輸出されるべき」として政策転換を迫りました。

この一報に国内政界は大混乱に陥りました。イェールシュテット大統領はこれまで国是に位置づけられていた政策の危機に国民に信を問うことを決意し議会を解散しました。第17回国民議会選挙の結果は自給自足経済を主導した左派政党が惨敗し、経済政策転換を掲げた共和党が大勝する結果でした。この民意を受けた共和国は、自給自足経済政策の放棄及び国内鉱山の定期輸出再開を三カ国に向け回答し、危機は回避されました。しかし社会民主党はこの事態を招いたとしてその支持を大きく失うこととなり、二大政党の一端という夢はここで潰えることとなりました。

ここまでセニオリス史を眺めてきた読者の皆さまにはおわかりいただけることかと思うが、この第17回国民議会選挙ではある奇妙な事態が起きている。それはこれまで社会民主党と共に自給自足経済を自ら推進していたはずの大統領及び与党共和党があたかも最初から国際貿易推進政党だったかのような扱いを受けているのである。まず、この点について以下に解説する。

この第一共和国において、共和国が誇りとしていた複数の政策が与党共和党が中道左派の社会民主党に理解を示す形で実装されてきたことは先に触れたとおりだ。与党の共和党は記録の残る第5回選挙までに議席を5割を割ることはなく、その後の選挙においても公認候補の余裕の当選が報じられるなど、一貫して一強の状態であった。第16回選挙までの間は「社会民主党主導の福祉政策に理解を示したため社会民主党が伸びた」=「共和党の議席が減退した」傾向にあったことが史料に記されているが、この間に共和党が具体的に社会民主党への対抗策を練る様子は見られなかった。この様子から伺えるのは与党共和党にとって社会民主党による議席減は織り込み済みだったとの事実である。少数の社会民主党の政策を与党共和党が積極的に取り入れるとの事実も勘案すれば、非難声明を受けるまでの間は共和党-社会民主党による大連立政権の状態であったと見るのが適切であろう。
本来共和党には、左派系野党が提唱した自給自足経済を数の力を持って拒絶するだけの勢力があった。それにも関わらず、「自給自足経済」は第一共和国の国是に一時位置づけられたわけである。これを読み解けば、声明への返答や後のFENA加盟申請などで用いられた「自給自足経済は左派系政党主導だった」との説明は大嘘だったと認識できるだろう。少数政党が、議会で過半を握っている相手に主導権を握ることなど出来ないのである。

さて、ではそのような共和党が、何故第17回国民議会選挙において再び7割半もの議席を獲得することが出来たのか。まず見えるのは、都合の悪い物を社会民主党に押し付けた大統領及び共和党の凄まじい身の軽さである。ここで、第17回国民議会選挙の結果を報じた当時のハルクステン通信の報道から抜粋する。
「遷都計画を通じ共和党に迫る勢いで議席を伸ばしていた社会民主党は、大国の圧力で大幅に議席を失い二大政党制への道は無残にも消え去った。」
ここで注目したいのは、「大国の圧力で」という文言である。先の通りこの選挙が実施される要因ともなった非難声明は共和国に自給自足経済の破棄を求めていたが、当然のように社会民主党への規制などは一切求めていない。すなわちこの箇所は当時の選挙戦の様子が僅かながら漏れ出したものと考えられる。この選挙では同時に右派伸長の傾向も見られたこと、更に自給自足経済は左派政党が主導したと後付けされたことから勘案すれば、おおよそ「左派は我が国が三国に圧力を掛けられる状況を作った」のような喧伝がなされたと考えられる。国政選挙で圧倒的優位を保ち続ける共和党に対し、二大政党制への道を歩んでいたとは言え未だ少数派の社会民主党の反論の機会は不十分だったに違いない。

一方でこれは、第一共和国をその終わりまで苦しめていた病の一端をも示している。それは自らの理論に固執し弱体化していく左派と主権擁護の気概が薄い右派、そして双方の悪いところを受け継ぐ大連立という長らく変わらなかった構図である。この第17回国民議会選挙以降の左派は明確に低迷を迎えるが、社会保障政策のため左派系の指導を仰ぐ右派の構図が変わることはなかった。この声明での紛争回避を成功体験としてしまった右派は、主権擁護意識の欠如が治療されないまま残ることとなり、後のセニオリスの運命を決定づけることとなった。

エルドラード条約機構(EDTO)の発足

国是であった政策の放棄を迫られる痛恨を経験した共和国は、外交的・軍事的に連携できる同盟国を必要としていました。これまで国是となっていた2本の柱の一角を失った共和国は、これまでの自給自足経済構想に代わり「社会的市場経済」を拠り所としました。

折しも8世紀中頃から9世紀初頭の共和国では、社会主義の優勢が囁かれていました。700年代に生じたカルセドニー革命は、763年の憲法制定議会選挙においても否定されずに保存されました。776年1月の中夏民国大総統選挙においては中夏共産党が勝利し、780年に人民共和国体制へ移行していました。当時のサンサルバシオン条約機構(SSpact)は、4カ国の社会主義国家同盟としての性格を覗かせていました。そして国内でも、社会主義革命を掲げるセニオリス共産党とセニオリス共産党赤軍が活動を始めていました。

そして9世紀初頭の国際情勢は流動的でした。時代とともに国家間の集団安全保障の多くは廃れ、経済共同体と二国間条約、そして条約に依らない連携がその代替となり始めていました。8世紀に名だたる資本主義国家の多くが滅亡していたことは、社会主義国家の存在感をさらに強調していました。こうした中で8世紀末に生じた三国声明は、社会主義に対する包囲網の不存在を共和国に痛感させました。

共和国は社会主義のさらなる拡大を懸念し、「資本主義の擁護」を新たな国是に位置づけることとなりました。資本主義を理念に掲げる集団安全保障体制の構築が目指されました。そして720年代のヴォルネスク独立戦争以後外交的な後ろ盾を求めていたガトーヴィチ帝国とヴォルネスク・スラヴ共和国、新興のフェネグリーク帝国との間で合意に達し、808年4月10日に「エルドラード条約(資本主義市場経済相互援助条約)」が締結されました。この条約に基づき発足した機構はエルドラード条約機構と呼ばれ、「EDTO」との略称を持ちました。760年代から続いた外交的地位の模索は、ここに一つの結論を得ることが出来たのです。

8世紀中頃から9世紀初頭にかけてはセニオリス史的に言えば第一共和国の外交の模索が始まった時代であるが、同様に国際社会にとっての移行期でもあった。フリューゲル国際連合などの10世紀中盤現在の国際社会は、まさにこの時期から始まっていると言っても過言ではない。
9世紀初頭、二国間条約等を除くと「陣営」と称されることのある多国間組織には以下があった。

  • 348年5月から続き、昭栄国、レゴリス帝国、普蘭合衆国を加盟国としたフリューゲル経済諸国同盟(FENA)
  • 641年10月から続き、ヴェールヌイ社会主義共和国、ヘルトジブリール社会主義共和国、そして凍結中だったトルキー社会主義共和国及び西岸州独立連合共和国(凍結中)を加盟国としたサンサルバシオン条約機構(SSpact)
  • 688年9月から続き、カルセドニー社会主義連邦共和国、ローレル共和国、御岳山大社共和国、中夏人民共和国、そして凍結中だったヨリクシ共和国を加盟国とした国際交易協力機構(WTCO)

こうして当時の国際情勢を振り返ると、現在フリューゲル国際連合憲章に記された同盟理事国を派遣するいわゆる「3陣営」の構図がこの頃既に完成されていた事が分かる。このうちSSpactとWTCOの2つの成立は共に7世紀中頃以降であるが、この2つが残ったことにはそれぞれの”強み”によるものというよりも、7世紀まで外交の主力を担っていた国家が相次いで滅亡したことが大きいだろう。
例えば7世紀末頃には石動第三帝国、アルビオン連盟王国を筆頭としたフリューゲル集団安全保障条約(FuCoSTO)が存在したが、両国は8世紀中盤までに滅亡し組織も消滅した。7世紀に多数のオブザーバー国や準加盟を抱えてフリューゲルの一大経済機構を構成していた新興諸国経済理事会(ENEC)は、720年代のコーデクス共和国及びテークサット連合滅亡によって正加盟国がガトーヴィチ帝国一国のみと成り消滅した。そしてこの両国の滅亡により、相互防衛に関する取極(PDEC)もまた崩壊した。
現在までに続く3陣営もまた崩壊の危機と無縁だったわけではない。例えばWTCOは720年代から760年代に掛けて凍結中の国家を除くと加盟国がローレル共和国一国のみという時代を経験している。またSSpactは9世紀初頭は加盟国4国中2国が凍結中であり、まさにこの時期が崩壊の危機にあったと言えるだろう。そして最も長い歴史を持つFENAについても、準加盟だったヴェールヌイ社会主義共和国の無期限資格停止を施行した721年2月から普藍共和国(当時)の加盟を決議した773年5月の間は2カ国体制になっていた。

さて、以上のように9世紀初頭の外交情勢を振り返ったわけであるが、ここまでに「社会主義」という単語が一度も登場していないことに注目していただきたい。そう、8世紀中頃から9世紀初頭は社会主義国家が存在感を示した時期ではあったが、社会主義全体の連帯が形成されることは最後までなかったのである。
これは主に、第一共和国が認識したところの「社会主義陣営」が、実際にはWTCOに加盟する2国とSSpactに加盟する4国に別れていたことが大きい。
当時より巨大経済国家であったカルセドニー社会主義連邦共和国は、WTCOの再始動に伴って「社会主義世界に限らない国際協調」を志向していた。一方のSSpactは、672年4月の改定によって条約全文から社会主義との文言を排除しながらも未だ”社会主義世界”の感から抜け出せておらず、更に2国の凍結とヴェールヌイ社会主義共和国の政府機能低下によって対応力に欠く状態にあった。当初よりこの2陣営は「国際経済」と「集団安全保障」と重要視する点が異なる組織でもあり、仮想敵国とはならずとも無視し難い距離があったのである。

しかし、残念ながら第一共和国の認識はそうではなかった。声明によって国是の一つを失って間もない当時の第一共和国が「資本主義国家間の連携」を重視したのは、まさしく互いに結びつきのない社会主義国家の双方を仮想敵国に指定と見たからに他ならない。当時の報道を引用する。
「本条約は国際的な社会主義・共産主義運動が活発化する中、市場経済の優位性を確認するとともに、テロをはじめとする国家的脅威に対抗することを目的としている。」
この報道中にあるテロとは国際的問題になった特定の事項ではなく、国内のセニオリス共産党赤軍がこの頃起こしていた過激な闘争のことである。しかし当時の大統領及び与党共和党は、この国内のテロ活動と国外の社会主義国家を混同していたのである。この誤った認識は選挙の度に喧伝されて広く一般市民に拡散されることとなり、第一共和国のアイデンティティが自給自足経済から「資本主義体制」に移るとますます強調された。これ以降のセニオリス史とも関わるが、成長するヴェニス株式会社の株式の一定割合をヘルトジブリール社会主義共和国と中夏人民共和国が購入した事実を元に「ヴェニス島は社会主義の牙城」と評価する声があったなどの事例もある。これらの事実を持って考えるならば、第一共和国は深刻な反社会主義パラノイアに陥っていたとの評価を下さざるを得ない。
セニオリス人の政治に対する見解不足は、9世紀初頭頃に最悪の形で結実することとなってしまったのだった。

考えてみよう

新興諸国開発共同体は、何故短命に終わったのだろう?自給自足経済は、どのような点が問題視されたのだろう?現在の共和国は自給自足経済体制と呼べるだろうか?

以下執筆中…


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