幕府報道官は「赤光」紙の「石動国皇帝」の記事について説明を行った。
安保理理事国巡る交渉妥結か
天照院幕府は910年の細川経隆公による全土平定を経て911年に開国した。
その後、香麗民主帝国の崩壊以来戦乱に喘ぐ幹半島に出兵、香麗国統一を支援し、朴葉華皇帝の嘆願により保護国化した。
次いで幹半島同様、統一から離れて久しい石動地域への進出を企図し佰愿諸島に避難されていた近江宮流(かの南朝の系譜)皇族の後長押宮陛下(山城宮陛下の母君)の協力を得て在秋津石動人による「在秋津石動政府」を樹立した。
しかしながら、泰平洋はコロール諸島より彼方の石動への進出は困難であったのが現状であった。
そこで、人工島「扶桑」の建設が進められ、石動系市民の移住を推進、来る石動帰還への前線としての役割が期待されていた。
神聖ガトーヴィチ帝国におけるアパラート君帝陛下戴冠式への出席は香麗国及び在秋津石動政府の周知の一環として行われたものである。
(秋津列島並びに周辺図)
この度の、足利将軍家による石動本州統一を幕府は歓迎しており、山城宮陛下もかつての南北朝の対立は水に流し、全石動同胞の帰還を望まれておられます。