イェゴール16年7月7日、私は第140回ソサエティ事務級会議に出席した。そのときの衝撃を、忘れることはできない。
先輩から無造作に渡された資料、もとい古文書の修復をおえて読み込むのは骨が折れる仕事だったが、事務級会議当日の午前2時には、一通り読み終えることができた。今回、私は事務級会議に初めて出席するから、上司が一緒に参加してくれることになっていた。
午前9時50分に、イヴァングラート市ザームカヴイ通り30番の前に降り立った。30番は白い梁とベージュの壁で彩られた古風な4階建てのビルで、正面のドアには帝国の国鳥であるツバメのレリーフが飾られていた。ドアを開けると、右手にひどく年老いた受付嬢がいて、ぼそりと「ズドラーストヴイチェ」と挨拶された。私も一声「ズドラーストヴイチェ」と掛けた。上司はにやりと笑ってこう言った。
「プズィーリェフ君、初めての事務級会議にも面食らわずに、揚々としているように。そうだな、ドアは君に開けてもらうとするか。」言われるがままに、私は扉を開けて、議場に入った。
「うっ!」 議場の空気に驚いて、私は顔をびゅっとすくめてしまった。他のどの四感よりも先に私を襲ったのは、ひどくひどく甘ったるい香水の匂い、それに乗ってほのかにかおる饐えた匂いだ。慌てて鼻をつまんだが、上司がすぐにその手を外してきた。「よせ、各国代表に失礼だ」。
そうたしなめられて、私はゆっくりと前を見上げた。すると、経験したことのない視覚情報が飛び込んできた。部屋の内壁は木目調で、部屋内の調度品は年季の入った木製のものばかりである。中央には、ドーナツ状の円卓が置かれており、恰幅のよい三人の大使が三方に既に着席していた。しかし、各代表は、椅子に浅く腰掛け、背もたれにどんともたれて、顔は虚空を見上げていた。口は半開きで、目つきは極めてとろんとしている。入室した我々のことを認知しているようにも、議論をしているようにも、なにより、生きているようにも……到底見えなかった。ここまで見て、議場内にはかすかにドビュッシーの「月の光」が流れていることに気づいた。既に、嗅いだことも見たこともない情景を体験させられて、脳の処理が追いついていない様だった。
上司に促され、私は空いている席に着席した。時刻は午前10時。
「例によって例のごとく、ここザームカヴイ通り30番にご足労、いや、ご着席下さいまして誠にありがとうございます。只今より第140回会議を開催致します。本日の議題は、例によって例のごとく、セビーリャ共和国の早期独立を求める第136次声明の採択、義理戦争全参加国の健闘を称える第87次声明の採択、多軸的外交の観点上有益なるソサエティの重要性に関する第50次声明の採択、ミルズ地域の早期独立を期待する第34次声明の採択、ガトーヴィチ情勢の安定化に係る第16次声明の採択、これに加えてフリューゲルゴスロリータファッション普及第6小委員会の設置、フリューゲル社会主義論編纂第5小委員会の設置、フリューゲルコーデクス主義拡散プログラム開発第4小委員会の設置並びにフリューゲル大スラーヴ主義記憶処理水開発第3小委員会の設置でございます。これら全ての詳細は我が国の新任より説明させて頂きます。」
滔々と述べた上司には敵わぬが、私も用意した資料を一生懸命に読んだ。賛否表明を願います、と言えば、他の三代表は必ず、宙を見上げたままゆっくりと両手をあげて、口元に若干の笑みを浮かべて賛意を示してくれた。スムーズな会議進行に私は安堵していた——各国代表の恰幅のよさが、体内の腐敗によるものだと気づくまでのことだったが。
全ての議題を終えて、第140回会議は散会となった。他の三代表は席を立ちそうにない。上司と私は書類をまとめて議場を後にした。
『いいや、プズィーリェフ君。ソサエティ局は、君が思うよりも——旧不義理諸国局よりも——ずっとずっと、ドラマチックな場所なんだよ。』
確かに、イヴァングラートにこんな場所が存在するなんて思いもよらなかった。誰も見向きをしなくなって、それから1世紀半が経ったあのソサエティの議場で、他の三代表はどういう力か、代表として存在している。あの議場、あの代表らにかけられた魔法の力は、ソサエティに再び日の目が当たるまで、暴かれることも、消えることもないだろう。どっときた疲れを癒すべく、ふっと湧いたソサエティへの愛着に包まれて、私は深い眠りに落ちた。