ロシジュアの政治体制を、既存の用語で端的に形容しようとするのは難しい。なぜならば、当該の体制が従来の政治学の常識を「超越」しているからである。
一般に、ロシジュアの国家元首は「ロシジュア皇帝」とされる。しかしロシジュア皇帝は建国直後の首都火災で行方不明となってから数十年が経過しており、生きているとは考えにくい。だが皇帝不在の状況にもかかわらず、帝位は他者に継承されていないし、帝位廃止の宣言もなされていない。であるから、政治的にはロシジュア皇帝は存命とみなされており、ゆえに未だ帝位が保持されていると考えるのが妥当である。だがこの結論は前述した皇帝の存命可能性の低さに反し、矛盾する。この時点で、一般的な政治学の考察法がロシジュアの政治体制に通用しないことは明らかである。
ロシジュアの政治体制は、現実に存在する実体と、精神世界に存在する非実体の二つの要素を併せ持つものであると私は考える。この理論に基づき、ロシジュアの政治体制を具体化した場合、「唯物的な考察では共和制であり、唯心的な考察では君主制である」などと述べることができる。唯物論―実体を根源とし、非実体をその産物とする―の論調に沿えば、ロシジュアに皇帝がいない現状は明らかに君主の喪失であり、ロシジュアの政治体制は共和制だという結論に至る。他方、唯心論―非実体を根源とし、実態をその産物とする―が真であるとの見方をすれば、皇帝は実体としては消失しているが、根源たる非実体としてはまだ存命といえる―ロシジュアの民の精神上では、あの偉大な皇帝は生き続けているのだから。したがって皇帝が存命であることにより、必然的にロシジュアは君主制であると結論づけられる。ここで分かるのはロシジュアの政治体制が、考察者の事物の捉え方の差によって全く異なる出力が得られる、極めて厄介な代物だということである。
ここで「唯物論⇔唯心論」、および「共和制⇔君主制」を対立概念だと捉えてはいけない。「資本主義⇔社会主義」のように、物事を何でも二項対立に捉える考え方は、まさに旧態依然の考察法であるからだ。ロシジュアの政治体制は、そのような二元論を超越し、全く新しい政治学の段階に昇華したものなのではないか。すなわち、唯物論と唯心論という二つの概念が重複しても互いに干渉せず、それでいて同化することもなく、それぞれが固有の性質を保つ。その奇妙でかつ超越的な同時存在が、現在のロシジュアの政治体制を生むことに繋がったと私は思っている。
ところでロシジュアの地方政治は、地方住民が参加する直接民主制機関の帝国民ソシアートに担われている。しかし中央政治において、各分野の公的決定権を持つ議決機関である中央ソシアートの構成員は、民主的に選ばれているとは言い難い―帝国民ソシアートで選出された地方の代表らが帝庁の幹部となる、間接民主主義的な制度もあるにはあるのだが。果たしてロシジュアは民主国家であるのか?民主的でない中央政府の権限は弱く、民主的な帝国民ソシアート相手には基本的に強く出ることができない。これを根拠に、公権力を民主的に制限することができていると断言してよいのか?だとすれば、国民の主権はどこに存する?ロシジュアにおいて国民の意見が直接的に通るのは地方政治だけであるが、非民主的な中央政府の存在を無視して国民主権を標榜できるのか?そもそも民主的であるという概念の定義自体が曖昧ではないのか?「ロシジュアは民主的か、それとも非民主的か」。また新たな政治学上の難問が浮上した。
もう一度言う。従来の政治学における単純な観念の区画分けでは、ロシジュアの政治体制を真に理解することは不可能なのだ。どうかこのことを念頭に置いてから、ロシジュアの政治学を咀嚼してほしい。
執筆:ジャンナ・ナシオーナ(超越政治学博士研究員)