著:カーネリアン大学文学部史学科准教授シガク・モリオン
※本記事はカルセドニーPLにより執筆されたアンソロジーであり、ミルズ地域の歴史資料に基づく記述を心がけてはおりますが、決してミルズPLの承認する正式設定ではないことにご留意いただければ幸いです。
危機の時代(827年~839年)
出来事
セニオリス共和国との平和友好条約締結
827年に建国されたとされるミルズ皇国が初めて歴史の表舞台に名前を表すのは建国翌年、 828年1月5日にセニオリス共和国エルドラード特別市第1区「ユーダリル国際レセプションホール」において調印された「セニオリス共和国とミルズ皇国両国の平和維持のための友好条約」においてである。セニオリス共和国は建国直後の国に積極的な支援を展開しており、その過程の一環としてミルズ皇国への支援を行ったところ、この条約の締結に結び付いたとみられるが、当時の資料は散逸しており交渉経緯は不明瞭である。Slackのgeneralで「同盟結びませんか!」とか言ってた気がするが忘れることにする。
ミルズシティ大火災
828年1月25日に発生した首都ミルズシティにおける大火、いわゆる「ミルズシティ大火災」において、ミルズ皇国は国際社会で知られるようになった。 後述する加普両国の調査により、本火災の出火元がミルズシティ郊外の倉庫であり、首都全域が焼失するという甚大な被害につながった原因は延焼防止の森林施設の未整備であったことが現在では明らかになっている。しかし、建国されたばかりのミルズ皇国に関する情報不足を背景として、当該調査報告書の発表までの1年半余りの間、数々の流言飛語が飛び交うことになった。
火災発生後直ちに普蘭合衆国ベルクマリ・タイムズ紙は「ミルズ首都壊滅は、同国の植民地化を図るセニオリス過激一派の犯行可能性がある。」と報じ、セニオリス共和国政府は直ちに火消しに走ることになった。これに対して国家元首であるアダム皇が「普蘭合衆国の動向に注視が必要」と発言した旨ミルズ通信が報じ、普蘭合衆国政府が「一紙の論説を元首が言及また合衆国全体への注視として捉えることに違和感を覚える」と反論するに至った。アダム皇はこの後にも「論説と呼ぶには強硬的で根拠提示が成されていない」とベルクマリ紙を非難、一民間紙と国家元首が論戦するという事態になった。
火災の「犯人逮捕」からセニオリス共和国との論争まで
828年2月ごろにミルズ通信報道部が報じたところによれば、ミルズシティ大火災はセニオリス共和国との平和友好条約締結に反対していたミルズ人グループで、 ハイド・マルタン以下12人が計画にかかわったとして拘束された。しかし、この直後の同年5月に中夏人民共和国政府広報が「ミルズの放火事件に関わった人物の一人を国内で逮捕」と報じたことから、元老院議長ラルバ・アイゼンシュタインが「当国としても無視できない事案であることは間違いありません」とのコメントを発表、先の国内捜査の結果に早くも疑義が生じた。
さらに、中夏人民共和国が逮捕した人物が「セニオリス人」と称したことも公表したため、ケイン・フォン・マクレーン外務大臣はセニオリス共和国に対して事実確認を行い、「我が国としては、かのような事実は把握しておりません。虚報の可能性が高いと思われます」という回答を得たとされる。これを受けて、アダム皇はミルズ通信報道部紙上で声明を発表した。その要旨は以下の通り。
- セニオリス共和国は火災に対するセニオリス人の関与を否定している。
- エルドラード通信はセニオリス人の関与するテロを噂する各国報道を「虚報」として切り捨てるも同然の報じ方をしている。
- しかし、敗戦国であるセニオリス共和国の通信社は確固たる事実を報道すべきである。事実確認をせず報じるのは無責任である。
- そのため、セニオリス共和国政府はこれらの噂について中夏政府に確認を取るなどの調査を行うべきである。
この声明は完全にセニオリス共和国に対する内政干渉であり、このような内容を国家元首の個人名で発表したことは十分非難されてしかるべきであると言えるが、この当時の国際社会で孤立状態にあったセニオリス共和国を支持する声は上がらず、レゴリス帝国では総統がセニオリスに関する一連の問題について「自業自得」とコメントし波紋を呼ぶなど、建国直後であり国家機能が未熟なミルズ皇国の外交の拙劣さは事実上免責されていたと言える。
この後国際会議場(掲示板)にも転載された本声明に対しセニオリス共和国は11月30日にセニオリス人を貶める「陰謀論」を否定する趣旨の丁寧な回答を送ってよこしたものの、アダム皇はこれに対し「証拠を提示せよ」「813年戦争で民間人を死傷させたセニオリスは信用に値しない」(なお、813年戦争の民間人死傷者のうちセニオリス共和国軍によるものはさほどウェイトとしては大きくはない)などと非難を続け、「愛が大きくなればいずれは久遠恒久の平和へとつながる」などとわけのわからないことを言い放った。セニオリス共和国側もこれには態度を硬化させ、「貴国の情報収集網を疑われた方がよろしい」「終結した問題を蒸し返すのはご遠慮願いたい」などとはっきりと反論したところ、翌829年2月1日にアダム皇はあっさり自らの非礼を認めて謝罪した。
元老院の組織再編及び大臣制導入
この論戦のさなかの828年11月28日、元老院議長ラルバ・アイゼンシュタイン及びアダム皇は共同で声明を発表、「我が国は1月に発生した首都放火テロ初動捜査にミスを犯し、テロ関係者を国外に逃亡させてしまうという国際上無視できないミスを犯した。この反省から我々元老院は組織再編と円滑な国政のために大臣制を正式導入することを決定したことを国際社会に通知する」とした。この時点で中夏で拘束された自称セニオリス人がミルズシティ大火災の犯人であると認識していることとなる。
「大臣制」の詳細は不明だが、元老院の改編であり事実上既存の元老院のメンバーに「大臣」としての肩書が付与されたものであると言える。
加普調査団報告書
829年2月2日、先のセニオリス共和国との口論論戦の終結直後にアダム皇は再度声明を発表、カルセドニー社会主義連邦共和国・普蘭・セニオリス・ミルズ4ヶ国による合同調査団の設立を提案した。しかし、カルセドニー政府は「依頼に応じ調査団員を派遣する用意がある」とはしたものの4ヶ国合同調査という形に対しては懸念を示し、結局普蘭合衆国と2ヶ国による調査という形に落ち着いた。
報告書は829年末ごろに公表された。結局、火災の「犯人」は特定できず、火災原因が事故であった可能性も留保された一方、延焼を防止するための防火設備の未熟さが批判される内容となった。セニオリス人の関与については一切報告書中では触れられず、事実上これについては否定される形となった。
中夏人民共和国による宣戦布告
830年7月下旬、中夏人民共和国は唐突にミルズ皇国に対し宣戦布告した。この直前の中夏日報において「ミルズ皇国政府職員が国内で有害工作を行っていた」などと報じているが、事前情報は一切存在せず、突然の難癖と言っていいこの宣戦に対して諸国は一斉に反発、中夏は直ちに宣戦布告取り下げを余儀なくされた。なお、アダム皇は宣戦布告を受けて「緊急声明」を発表している。
「第1回選挙」開催される
830年8月8日、議事堂の完成を受けて下院の「第1回選挙」が実施された。しかし、これは選挙というにはほど遠く、「立候補制で皇たちが承認していくという形をとった」とされており事実上の皇(及び元老院メンバー)による任命制であった(一応貴族階級の独占ではなく平民階級から任命されたようではある)。この時期の国家制度について残されている数少ない資料においても、「(下院議員から任命される)実行委員が独立して権力を持つともともと庶民の彼らは暴走しかねない」 などと記載されており、この「第1回選挙」において権力の皇・元老院から民衆への移管が回避されたことは明らかである。ミルズ通信報道部は「立憲民主政治へと舵を切った」などと自賛しているが、ミルズ皇国において憲法が制定された事実は存在せず、国内向けのプロパガンダ以上のものではない。
この「第1回選挙」以降、アダム皇は国家の政治的指導者の地位を引くと表明、国家権力の行使は以降ラルバ・アイゼンシュタイン総務大臣兼財務大臣兼元老院議長(以降は単に「首相」と呼ばれる)が行うことになるとされた。832年1月24日には「実行委員」が選出されたと報じられているが、これ以降これらの「実行委員」が何かしら主体的な活動を行ったとされる史料はなく、結局のところ名目上の地位に過ぎなかったことが察せられる。ただし、この時期に「「アダム皇を廃位し共和制に移行すべきだ」衆議院議員談」と報じられたケースもあり、ミルズ皇国における体制批判が公権力によって抑え込まれていたという指摘は的確ではない。むしろ、ミルズ皇国政府はミルズ地域全体に統一的な国家体制を築けているとは言えず、その権力基盤は主要政治家たちの「私兵」に依存する極めて弱体な体制であったと考えられる。
セニオリス併合騒動とその時期のミルズ皇国
832年10月、セニオリス併合騒動のさなかラルバ・アイゼンシュタイン首相は声明を発表、セニオリス共和国を批判した。その内容は828年9月のアダム皇声明の焼き直しにFENA総会でセニオリス共和国を擁護した普蘭合衆国に非難を飛ばした行為に対する批評を加えたもので、非常に長文であるが内容は既存の(セニオリスなら批判しても構わないという)意見表明の繰り返しであり、ミルズ語研究者にとってのよいテキストになる可能性はあるが史学的には見るべきものはない。
これから839年の内戦勃発までミルズ皇国内において見るべき出来事はない。830年の「選挙」から起算して10年時点で「自動的に大臣が解任になる」という誓約がなされていたとされる(なお、当時の制度では12名の元老院(上院)議員が互選で大臣を任命できるため、仮に解任になったとしても重大な変化が起こるとは考えにくかった)ため、「840年に重大な制度改革が予定されている」と認識した一部軍閥勢力が「政党会」と称される組織を形成していくのがこの時期であるが、表面的にはミルズ皇国内は平穏であった。
年表
年 | 月 | 出来事 |
827年 | 1月 | 建国 |
828年 | 1月 | セニオリス共和国と「セニオリス共和国とミルズ皇国両国の平和維持のための友好条約」を締結 |
828年 | 1月 | ミルズ地域首都ミルズシティが火災で焼失(ミルズシティ大火災) |
828年 | 2月 | 焼失した首都が再建される |
828年 | 9月 | セニオリス共和国に対するアダム皇声明 |
828年 | 11月 | 「大臣制」を導入 |
829年 | 2月 | 火災調査に関するアダム皇声明 |
829年 | 12月 | 加普両国による火災調査報告書発表 |
830年 | 7月 | 中夏人民共和国が宣戦布告、直ちに取り下げ |
830年 | 8月 | 「第1回選挙」が開催される |
832年 | 1月 | 下院において「実行委員」が選出される |
832年 | 10月 | セニオリス共和国に対するラルバ首相声明 |
混乱の時代(839年~852年)
出来事
普蘭合衆国との平和友好条約締結
839年9月17日、ミルズ皇国は普蘭合衆国と平和友好条約を締結した。ここに至るまでの交渉経緯を示す資料は存在しないが、フリューゲルの大国である普蘭合衆国の国家承認を受けたことはこの時期のミルズ皇国外交としては画期的である。ただし、この条約は数年後の普蘭ライン危機において問題となることになる。
政党会の出現
840年ごろに国体改革が行われるとの予測がミルズ皇国内に広がったことにより、839年末頃までにミルズ皇国における政治組織である政党会が出現したとされる。政党会はミルズ地域に公権力を十分に及ばせることができていなかったミルズ皇国政府に代わって各地域を支配していた地方豪族による軍閥が背景にあるものであるとみられており、いわゆる「政党」というよりは「武装勢力」と認識する方が適当であると言える。
しかしながら、これらの政党会に対してミルズ皇国政府は放置の構えを見せ、結果として政権内部に取り込むことも解体させることもできなかった。この政党会間の対立が先鋭化したことが、後々まで続くミルズ皇国の情勢混乱の直接の原因となる。主要な政党会のリストは以下の通り。
政党会名称 | 主要人物 | 政策 |
共和派 | ミリア・フォン・マクレーン ラルバ・アイゼンシュタイン | 内戦勃発時の政権担当者 |
社会民主主義連盟 | レンヤ・ミストフォールト | 社会主義的 |
保守党会 | ジュリア・メリックス | 軍国主義的 |
王党派 | バーナード・ビルマック | アダム皇による専制を支持 |
皇党派 | ルナ・エーテルファイデ | アダム皇の「象徴」化を主張 |
このうち共和派以外の4政党会は内戦勃発を伝える839年11月のミルズ通信報道部の記事で名前が挙がっているが、共和派についてはこの時点では存在が報じられておらず、国際社会で初めてその名が報じられるのは841年4月のミルズ通信による報道を待たなければならない。共和派は内戦勃発時点のミルズ皇国政府の首脳部を構成していた軍閥のことを指し、内戦初期には自らを「党派」として明確化する必要がなかったことがうかがえる。
第1次ミルズ内戦の勃発
839年11月15日、政党会のうち王党派が武力蜂起、「自然の町」アイルベルンを占拠したことによって第1次ミルズ内戦が勃発した。この直後、ラルバ首相による「王は必要ない。必要なのは共和政である」との発言が報じられた。この発言が国際社会に広まったことで、「専制君主制を目指す王党派」と「君主制廃止と共和制移行を目指す共和派」という認識が形成されたが、後の資料を総合するとラルバ首相を中心とした「共和派」は共和制を志向していなかったことは明らかであり、この理解は適切とは言えない。単に現在ミルズ皇国政府として国際社会に承認されている共和派と、それに対する反乱勢力である王党派の戦闘として理解するのが適当と考えられる。また、この直後にアダム皇が「私はもう政をすることはない」「王党派よ武装解除せよ。これは私からの命令である」と発言、王党派の蜂起を支持しない立場を示している。
この内戦勃発を受けて、まず平和友好条約締結直後であった普蘭合衆国は「領事館の閉鎖と自国民の保護を通達」し、ローレル共和国外務大臣は「共和国政府は現体制を覆す勢力を認めない」との発言を行ったと報じられた。しかし、ローレル共和国は以降の内戦で王党派を支持しており(実際に1兆Vaの資金援助を実施)、この発言とは完全に矛盾している。同盟国の行動があまりに混乱していたためカルセドニーPLは胃痛でクローンナンバーが増えた。また、普蘭合衆国も普蘭ミルズ平和友好条約に反して王党派への支持を表明しており、内戦勃発直後においては反政府勢力である王党派がむしろ国際社会からの支援を受けていたことが明らかである。
内戦初期の展開とローレル石材船への攻撃
840年1月頃、王党派を支持するデモがミルズ国内で発生したとされるが、これについて情報公開が行われたのは内戦終結後であり、諸外国がリアルタイムでこの情報を察知することはできなかった。また、同年5月には7月に予定されていたとされる「選挙」の延期が発表された。このような状況からも、序盤は王党派が優勢であり、ミルズ皇国政府(共和派)は苦しい戦いを強いられていたことが明らかである。
同年7月、ローレル共和国はミルズ地域から食料300億トンを石材12億トンを対価に輸入する貿易を行った。この貿易の相手が内戦勢力のいずれかであったかは当時の資料から明確に示されてはいないが、ローレル共和国は王党派を支援しており、貿易相手が王党派であったことはほぼ疑いない。内戦終結後のミルズ政府のレポートにおいては「政権は「石材と食料の貿易」を行っている」としているが、これは当時の王党派が国際的に比較的支持を集めていたことを否定するための捏造であると判断してよいだろう。そして、この貿易に用いられていた石材運搬船「ヌヴァール」が840年7月16日午前11時30分頃にミルズ皇国近海ミルズ海峡において攻撃をけ、1人が死亡、5人が重軽傷を負う事件が発生した(当時のローレル・ニュース報道)。王党派・政府双方が関与を否定しておりこの攻撃の実行者は不明である。
なお、ガトーヴィチ帝国(民主帝国への国名変更直前)の帝国新報が「ローレル船が沈没」と報じており、ローレル政府はフェイク・ニュースであるとして同紙に抗議を申し入れている。この帝国新報の記事について、ラルバ首相は「一刻も早い内戦終結のためには王党派との会談が必要」と発言したとされており、この時期に首都防衛のための防衛線が構築されたことが報じられるなど内戦は王党派有利に進展していたことがここからもうかがえる。 内戦終結後の政府のレポートにおいてはこの時期について「王党派に軍人は2000名ほどしかおらず」「王党派も軍事的に自然の町以外を奪取できる状況では無かった」とされているが、 そもそも近代的な国軍制度が整備されていなかったミルズ皇国において軍人数をもとに戦力を評価しようとするのはナンセンスであり、ミルズ政府も首都周辺を掌握するに過ぎなかったことを踏まえるとこの時期のミルズは各軍閥の乱立状態に陥っていたと解釈するのが妥当であろう。
戦局の転換と内戦の終結
王党派優勢に進んでいた内戦が転換するきっかけになったのは内戦終結後のレポートにおいては840年11月に行われた王党派バーナード・ビルマック総裁の演説であるとされる。この演説において、ビルマック総裁は「自給自足」による強国化を訴え、「自給自足政策は諸外国の反発を招く」と考えた「自然の町」アイルベルン市民の反感を買ったとされている。この後、841年4月に「自然の町にて王党派に対するデモが発生」し、7月には「自然の町にて王党派が社会主義者を虐殺」したと報じられている。これらの報道の真偽は不明瞭であるが、この事態を受けてこれまで動向が報じられることのなかった社会民主主義連盟レンヤ・ミストフォールト代表が「強硬な主張が行き着く先はいつも同じだ」として王党派による虐殺を非難した。ここまでは政府(共和派)と王党派の内戦を静観していた第三勢力である社会民主主義連盟が内戦に政府寄りの立場で介入、9月には保守党会も加わりミルズ社民連・保守党会・共和派が連立を発表するに至った。なお、この同盟形成に至る経緯でアダム皇の演説が大きな役割を果たしたと内戦終結後のレポートは説明しているが、真偽は不明である。
社会民主主義連盟及び保守党会の介入により内戦は一挙に政府側に有利になり、11月には王党派の本拠地であった「自然の町」アイルベルンの政府側による攻略が報じられ、12月に王党派の武装解除が終了したことをもって第1次ミルズ内戦は終結したとされた。なお、この際にアダム皇は陣頭指揮をとり、アイルベルン攻略後に王党派バーナード・ビルマック総裁と「一騎打ち」をしたともされているものの、これについての真偽もやはり不明である。
反乱軍蜂起とライン共和国軍による撃滅
内戦終結直後の842年1月、社会民主主義連盟・保守党会・共和派の連立はあっさり崩壊した。これと前後してミルズ皇国内の情勢は悪化し、同年7月に反政府勢力が武装蜂起を行った。この勢力の正体は未だに特定されていないが、王党派の残党と推測される。この反乱軍の鎮圧についてミルズ皇国政府はライン共和国の支援を要請、ライン共和国のSPPミサイルによる爆撃で反乱軍は撃滅された。この反乱軍に対して普蘭合衆国は「軍事顧問団を派遣していた」とミルズ地域における破壊工作に関与していたことを認めた上でライン共和国の爆撃によりこの「軍事顧問団」を殺傷したことを非難、ライン共和国に宣戦したことで普蘭ライン危機が発生したが、これについての詳細は当該記事を参照のこと。
「選挙」に向けた準備
内戦終結後、846年ごろには情勢は再度安定化し、「社民連・共和派・保守党会ミルズ選挙についての協議開催」などと報じられる状況になった。この時点でミルズ皇国政府はこの3軍閥の混在する体制になっており、内戦前の政権担当者である共和派の影響力は低下していたことが明らかである。但し、この軍閥連合政府は軍事力の意味ではミルズ皇国内では圧倒的であり、結果としてミルズ皇国内の安定化をもたらすことになった。この後847年5月には「政党会に関する審議」848年11月には「選挙制度に関する審議」がミルズ国会内で行われていることが報じられており、840年に延期されたままになっている選挙に向けた準備が進んでいることが確認できる。
ただし、あくまでこの議論は「第1回選挙」によりアダム皇及び当時の元老院により任命された議員により行われているものにすぎず、選挙を求める国民の動きを「警戒」していると報じられるなど決して民主化に向けた動きではなく、現体制の存続のためのアリバイ作りであると言っていいだろう。
こうして、849年には「政党会並びに選挙議論終了」と題する記事において「第2回選挙」に向けた制度が決定・公表された。しかし、その中では既存の7政党会のみが政党と認められ、さらに「王党派は選挙への出馬が認められない」ことが明らかにされるなど民主化とは程遠い内容であったことは言うまでもない。なお、この時期に初めて存在が明らかになった2つの政党会については以下の通り。
政党会名称 | 主要人物 | 政策 |
労働者連合 | 不明 | 最左翼、計画経済移行を主張 |
民主党会 | ジェームズ・ネイサン・クック | 「完全民主化」を主張 |
フリューゲル国際連合・国際交易協力機構への加盟
「第2回選挙」への準備が進むまでの間、848年6月1日に行われたフリューゲル国際連合憲章調印式にミルズ皇国は代表を送り、その後848年11月15日に批准書をカルセドニー社会主義連邦共和国に寄託、850年3月19日にフリューゲル国際連合が発足すると同時にミルズ皇国はその原加盟国となった。
ミルズ皇国は835年6月中旬に設置されたフリューゲル平和原則条約起草委員会に当初から代表を送っており、議場では一度も発言していなかったもののフリューゲル国際連合の一員として(後に加盟を求めたライン共和国のような諸国からの反対意見も受けることなく)認められることになった。
また、国際交易協力機構(WTCO)第9回加盟国会議はミルズ皇国の加盟を承認し、851年1月28日にミルズ国内の批准手続きが完了したことによって同国はWTCOの加盟国となった。
年表
年 | 月 | 出来事 |
839年ごろ | このころまでに政党会が成立 | |
839年 | 9月 | 普蘭合衆国と「普蘭合衆国およびミルズ皇国間に於ける平和友好条約」を締結 |
839年 | 11月 | 王党派が武装蜂起、第1次ミルズ内戦が勃発 |
840年 | 7月 | ローレル共和国船籍の石材運搬船がミルズ海峡で攻撃される |
841年 | 7月 | 王党派が本拠地アイルベルンにおいて社会主義者を虐殺と報じられる |
841年 | 9月 | 社会民主主義連盟・保守党会・共和派が連立(同盟)を発表 |
841年 | 11月 | 政府側がアイルベルンを攻略、第1次ミルズ内戦終結とミルズ政府発表 |
842年 | 1月 | 社会民主主義連盟・保守党会・共和派の協力体制が解消 |
846年 | 12月 | 社会民主主義連盟・共和派・保守党会が選挙についての協議 |
848年 | 6月 | フリューゲル国際連合憲章に調印 |
848年 | 11月 | フリューゲル国際連合憲章の批准書をカルセドニーに寄託 |
849年 | 11月 | 「選挙議論終了」と報じられる |
850年 | 3月 | フリューゲル国際連合の発足に伴いその原加盟国となる |
851年 | 1月 | 国際交易協力機構に加盟 |
暴走の時代(852年~866年)
出来事
「ミルズ共和国」の出現とミルズ皇国への宣戦布告
852年10月、「ミルズ共和国」と名乗る集団が国際社会に突如として現れ、建国宣言と同時にミルズ皇国に対する宣戦布告を実施した。これに対して、アダム皇は(政治不関与を宣言していたにもかかわらず)「ミルズ共和国と称する集団の声明は全くの事実無根である」と断言、「ミルズ共和国」に対して強硬な対応を取ることを示した。なお、上記の「ミルズ共和国」の声明は慣習国際法(ローカルルール)上の宣戦布告要件を満たしておらず、実際のところ両者間に戦争状態は生起していなかったが、発足したばかりのフリューゲル国際連合安全保障理事会はこの事態を重く見てS/RES/1を採択、当該紛争を安保理の仲裁に付すことを要請するとともにS/RES/2を採択し「ミルズ共和国」地域に対し軍事転用可能な物資(限定列挙で除外されている食料・燃料以外全て)を輸送しないことを国際社会の各国に対して勧告した。
アダム皇誘拐・殺害事件とライン共和国の砲弾誤送
S/RES/2の採択と前後する853年1月、ミルズ皇国政府は「アダム皇が行方不明にミルズ共和国と名乗る集団が誘拐した模様」と発表、「ミルズ共和国」が主張していた同組織によるアダム皇誘拐を事実と認めた。そして、ミルズ通信報道部の報じたところによると外務副大臣を(828年の大臣制導入以来ずっと)務めていたメイル・フォン・ミルズがアダム皇の血縁者であるという理由で女皇として即位した。ミルズ皇国は君主制を名乗っておきながらまともに皇位継承手続きも決まっておらず、結果として当時政権内にいた保守党会にとって都合のいいタカ派のメイルが女皇に据えられる形となったと推測できる。
この直後の3月、「ミルズ共和国」はアダム皇を「処刑」したと発表、さらにミルズ皇国への軍事支援を予定されていたライン共和国の砲弾10万メガトンが「ミルズ共和国」に誤送されるという事故も生起している。なお、ライン共和国はこの時期に自国居住施設に対する軍事演習も行っており、同国のFUNへの加盟手続きが(レゴリス帝国などの反対により)長引く要因となった。
安全保障理事会の強制措置と「ミルズ共和国」の敗戦
アダム皇の誘拐・殺害事件を受けて、平和的解決を両国に求めているに過ぎなかった安全保障理事会は態度を硬化させ、853年5月中旬にS/RES/3を採択し「ミルズ共和国」は国家ではなく国際犯罪集団であると認定、FUN憲章第31条に基づく強制措置を発動した。これを受け、ミルズ皇国は正式に「ミルズ共和国」へ宣戦布告を行った。しかし、この戦時中である9月にミルズ皇国内に巨大隕石が落下、500万人の犠牲者を出し、メイル女皇も一時行方不明になるなどの事態になった。このあたりの経緯について、ミルズ通信報道部が痛々しいプロパガンダ用の報道を行っているが、これらについては省略する。
S/RES/3を受け、カルセドニー、ライン、フェネグリーク帝国、ヘルトジブリール社会主義共和国、トラハト=ラシュハ連合王国、レゴリスの6ヶ国がミルズ皇国と共に「ミルズ共和国」へ宣戦を布告、854年6月下旬までには「ミルズ共和国」は強制敗戦水準まで破壊されることになった。安全保障理事会は終戦手続を定めるS/RES/4を採択したものの、「ミルズ共和国」はライン共和国から輸送されていた砲弾を「レゴリス民主共和國」に輸送したうえで消滅した。
レゴリス帝国との断交
853年11月中旬に建国された「レゴリス民主共和國」は、レゴリス帝国からの分離独立を主張し、レゴリス帝国から公開質問状を受けるなど同国と対立関係にあった。その中で「ミルズ共和国」が「レゴリス民主共和國」に砲弾を輸送したことについて、砲弾の本来の保有国であるライン共和国は直ちにこの砲弾の変換を要求した。この直後、ミルズ皇国は「レゴリス民主共和國」に対して外交関係の開設を打診した。ラルバ・アイゼンシュタイン首相による後の説明によれば「通常交渉を以て(砲弾の)返還を要請する」ためであるとされるが、この直後レゴリス帝国政府は「レゴリス民主共和國と国交を結ぼうとした為」として855年3月にミルズ皇国に対し断交を通告した。
ラルバ首相は「致し方ない」と開き直ったものの、世界最大級の超大国であるレゴリス帝国との関係を損ねたことでミルズ皇国は国際的に孤立を深めていく。
アダム皇の生存
「ミルズ共和国」こそ妥当したものの、アダム皇の行方は明らかにならず(855年1月時点で皇国政府の名義で「アダム皇の遺体を共和国内で捜索したが発見できなかった」と報じられている)、アダム皇は「ミルズ共和国」が公表した通り死亡したものとみなされていた。しかし、860年10月、トルキー社会主義共和国において「“ミルズ共和国”騙った詐欺の摘発中、「アダム皇」名乗るミルズ皇国籍の男性を保護。」との報道が行われ、アダム皇が生存していたことが明らかになった。
ミルズ国民に人気の高いアダム皇が復帰したことにより(アダム皇・ラルバ首相ともにこれを否定したものの)国内では絶対皇政を望む声が上がり始め、一方でメイル女皇もその地位を返上はしなかったことによりミルズ国内にはアダム皇・メイル女皇の2人の「皇」が併存する状態となる。これ以降ミルズ皇国は政治的な混乱状況が増していくことになる。
ラス・アノド海賊連合との紛争
862年9月下旬に成立した「ラス・アノド海賊連合」は近隣の途上国船舶に対する襲撃と身代金の要求を繰り返していた。その中、ラス・アノド海賊連合がサンシャ独立国船籍の商船3隻を襲撃、身代金を要求したことについてラルバ首相は863年3月30日、「ラス・アノド海賊連合政府によるサンシャ独立国邦人の不当拘束及びサンシャ独立国政府に対する身代金の要求に関する非難声明」と称する非難声明を行い、ラス・アノド海賊連合に対してサンシャ人・商船の開放を要求した。
ラス・アノド側がこれを一蹴するとミルズ皇国は864年2月初旬、「海賊連合所有の財産・鉱山の無償提供および永世の武装解除」を講和条件としてラス・アノドに対して宣戦布告を行った。しかし、海賊行為を繰り返すラス・アノドへの宣戦布告そのものはともかく、サンシャ船舶と一切関係のない「財産・鉱山の譲渡」を講和条件として要求したことについて国際社会からは懸念が殺到、直後の2月下旬にFUN安全保障理事会は平和的解決及び講和条件の取り下げをミルズ、ラス・アノド双方に求める決議S/RES/9を採択した。
この直後両者の代表が安全保障理事会に対してオブザーバーとして招請され、ミルズ代表は「ラス・アノドはテロ組織であり、講和条件は「事実上の講和不可能」を意味するために設定したものである」などと弁明を行ったが、安全保障理事会はミルズ側の主張を容れることはなく、サンシャ独立国とラス・アノドの間に紛争状態がもはや存在していないことを確認した上でミルズ=ラス・アノド戦争を無条件無賠償で終結させることをS/RES/10において勧告、両者がこれを受け入れて戦争は終結した。
この後、865年5月15日にミルズ皇国はラス・アノド海賊連合との間に「ミルズ皇国とラス・アノド海賊連合両国の平和維持のための友好条約」を締結、ラス・アノドを国家として承認した。しかし、ラス・アノドはあくまで海賊であるとし、主権国家としては認めていない諸先進国からは「懲罰戦争」から「国家承認」へと急展開したミルズ皇国の外交姿勢について批判が集まっている。
「第2回選挙」とその撤回
ミルズ皇国の代表者として安全保障理事会に派遣されていたのは社会民主主義連盟のトップであるレンヤ・ミストフォールトであった。彼はミルズ=ラス・アノド戦争に関する議論の終了後、ミルズ政府が「寡頭制」であるとし、自国政府に関する自己批判を行った。830年に行われた「第1回選挙」後、行われるとされていた第2回選挙は延期され続けており、国際社会はこれについて懸念を表明し続けていたが、ミルズ皇国政府の中枢にいるレンヤ自身がこれについても批判する立場となった。また、これに先立ってWTCOは858年に開幕した第10回加盟国会議において【ミルズ皇国に対する選挙監視団派遣に関する決議】を採択しており(採択は861年頃)、これらの情勢を踏まえミルズ皇国においてWTCO監視の下選挙が近く実施されるものと観測されていた。
しかし、865年5月25日、ミルズ皇国は唐突に「第2回選挙」の実施を発表、総数700議席のうち510議席をレンヤ代表の率いる社会民主主義連盟が獲得し大勝したと公表した。WTCOはこの時点までに選挙監視団をいまだ派遣しておらず、唐突な選挙の実施に国際社会は困惑を隠せなかった。さらに、この直後にミルズ通信は「上院及び下院「再選挙をすべき」との理由で再選挙を承認し無効選挙に」と発表、「第2回選挙」は一瞬にして無効になった。
ミルズ皇国、事実上の内戦状態へ
この時期のミルズ皇国関連の報道は客観性が乏しく、史料として使用に耐えるものは少ないため確たることを述べることは難しい。しかし、865年の「第2回選挙」を契機としてミルズ皇国が事実上の内戦状態に突入したことは断片的な情報からもほぼ疑いない。第1次ミルズ内戦(839年~841年)において友好関係を有していた3政党会(軍閥)、共和派=保守党会=社会民主主義連盟による協力関係はこのころまで継続していたとみられる。しかし、社会民主主義連盟レンヤ代表が安全保障理事会の議場で明確にラルバ首相(共和派)率いる政権を批判したことから、この時点では共和派・保守党会と社会民主主義連盟の間に亀裂が生じていることが明らかであり、世論は比較的社会民主主義連盟に近い立場であったためにラルバ政権は民意の支持を得られなくなっていた。
一方、ミルズ皇国の正規軍はほぼ完全に保守党会の支配下にあり、ラルバ首相はこの軍事力とラルバ個人の知名度によってなんとかその地位を保っていると言う状態であった。社会民主主義連盟は大衆動員能力が高かった模様であり、これ以降首都付近では共和派=保守党会政権に対する反政府デモが頻発している。
カルセドニー=ミルズ条約
ミルズ皇国最大の友好国であったカルセドニー社会主義連邦共和国はミルズ地域の情勢を憂慮し、「カルセドニー社会主義連邦共和国による、ミルズ皇国政治安定化支援のための包括的援助条約」をミルズ皇国に対して提示、ミルズ皇国がこれを受け入れたことで865年7月15日にこの条約が両国間で締結された。それによれば、ミルズ皇国はミルズ地域住民による憲法制定議会選挙をWTCO監視のもと実施し、成立した新政権にミルズ皇国政府はあらゆる権限を委譲して解体することとされ、事実上ミルズ皇国は近い将来の消滅を認めることとなった。
保守党会によるクーデターとメイル女皇拘束
ところが、この7月ごろから過激化したミルズ地域の反政府デモに対し、11月にメイル女皇はデモ隊を軍によって鎮圧するように指示した。これを受け、ミルズ皇国軍を掌握する保守党会、ジュリア・メリックス代表は「メイルは民衆の虐殺を要求した」と主張、逆に軍はメイル女皇を拘束した。メイル女皇は保守党会に近い立場をこれまで取っており、唐突な保守党会と女皇の対立を解釈することは困難だが、この時期までに保守党会はミルズ地域内の軍事力において圧倒的地位を確保しており、自らの正統性を担保するために活用していた女皇がもはや不要であると判断して切り捨てたものとみられる。
ラルバ・アイゼンシュタイン首相はこれについて「当然の結果であり何も問題ない」とコメントしており、もはやラルバ首相と彼の率いる共和派が保守党会に完全に支配されており、事実上保守党会の傀儡と化していたと考えられる。
安全保障理事会の介入とミルズ皇国の消滅
このクーデターを受け、カルセドニー政府は現状では憲法制定議会選挙の実施とミルズ地域の民主化は不可能であると判断、安全保障理事会に対しまず平和維持部隊の派遣を、続いてミルズ皇国政府の解体と国連統治領ミルズへの移行を要望した。これに伴い866年6月初旬にS/RES/11、同年9月下旬にS/RES/12が採択され、ミルズ地域にはカルセドニー軍が平和維持部隊として派遣され、ミルズ皇国政府は解体されることとなった。
S/RES/12に従い、フリューゲル国際連合安全保障理事会の下にミルズ地域統治委員会が設置され、ミルズ地域は以降国連統治領ミルズとして国連の直接統治下におかれることとなった。
年表
年 | 月 | 出来事 |
852年 | 10月 | 「ミルズ共和国」建国、ミルズ皇国に対して宣戦布告声明 |
852年 | 11月 | S/RES/1採択、ミルズ=ミルズ紛争の安保理への付託が要請される |
853年 | 1月 | S/RES/2採択、「ミルズ共和国」への支援を控えるよう勧告される |
853年 | 1月 | アダム皇が「ミルズ共和国」に誘拐され、メイル女皇が即位 |
853年 | 3月 | 「ミルズ共和国」、アダム皇の「処刑」を公表 |
853年 | 3月 | ライン共和国、「ミルズ共和国」に対して砲弾10万メガトンを輸送 |
853年 | 5月 | S/RES/3採択、「ミルズ共和国」への強制措置が発動 |
854年 | 6月 | S/RES/4採択、「ミルズ共和国」の敗戦処理手続き実施 |
855年 | 3月 | レゴリス帝国、ミルズ皇国に対し断交を通告 |
858年 | 5月 | 国際交易協力機構第10回加盟国会議開催(選挙監視団派遣決議採択) |
860年 | 10月 | アダム皇、トルキー社会主義共和国より復帰 |
863年 | 3月 | ラス・アノド海賊連合に対する非難声明 |
864年 | 2月 | ラス・アノド海賊連合に対する宣戦布告 |
864年 | 2月 | S/RES/9採択、ミルズ=ラス・アノド戦争の平和的解決を勧告 |
864年 | 6月 | S/RES/10採択、ミルズ=ラス・アノド戦争終結 |
865年 | 5月 | 「第2回選挙」実施、直ちに無効が宣言される |
865年 | 7月 | この時期から国内混乱、反政府デモ頻発など第2次ミルズ内戦 |
865年 | 7月 | カルセドニー=ミルズ条約成立 |
865年 | 11月 | 保守党会、メイル女皇を拘束するクーデター |
866年 | 6月 | S/RES/11採択、ミルズ皇国平和維持部隊派遣される |
866年 | 9月 | S/RES/12採択、国連統治領ミルズ成立、ミルズ皇国政府解体 |