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【他社寄稿】ミルズ皇国選挙が無効 未熟な行政ここに極まり ほか

【他社寄稿】ミルズ皇国選挙が無効 未熟な行政ここに極まり

865年5月、ミルズ皇国において”第二回選挙”と称される選挙が執り行われたが、同月中に急転直下で選挙の無効が宣言される事件が発生した。
ミルズ皇国における国政選挙は830年より行われておらず、同国国民や国際社会からも政情混乱の収束が期待されていたが、果たされることなく逆に混乱の象徴の一つとなる結果に終わった。

これら一連の流れはミルズ皇国の国営報道機関であるミルズ通信を通じ報じられた。同紙において選挙結果の詳細は「第二回選挙結果」として報じられている。
これらの記事を読み直すにつれ、多量の疑念が膨らんでいくこととなる。いくつかを抜粋し順を追い記していきたい。

ミルズ皇国の現状において確認できる国家情報はやや古い物となっている。情報は遅くとも840年代に記されたものと思われ、上掲記事との矛盾点も生じている。情報によれば、ミルズ皇国における立法府は元老院、衆議院の二院制を取っており、元老院は皇より任命される12人、衆議院は任期10年、定数300による議院。第一回”選挙”は830年に人民の立候補から選出されたと記されており、民主主義の体を一切成さぬ代物であったことがわかる。
この情報は前述の通り最新のものとの乖離があると推察され、上掲の報道とは異なる定数が示されている。
また更に、今回の第二回”選挙”はこの任期を大幅に超える35年後に行われている。約25年間に及ぶ空白期間には何があったのだろうか。

25年に渡る”無駄な時間”

ミルズ皇国はこの空白期間に於いて同国は相次いだ紛争を経ている。選挙の延期は国内の内紛であった王党派-共和派(政権)の争い(839年11月-841年11月)にあたり840年5月に当時のラルバ・アイゼンシュタイン首相により決定された。規定に基づいて840年8月に衆議院は任期を迎えているが、同時期に各政党会の一時的な連立政権が発足するなどしており、下院がどのように扱われたのかは、驚くべきことに現時点においても定かではない。

同時に国内外においては第一回選挙の制度の致命的な欠陥を強く批判されていた。政府は選挙制度の確定と選挙に向けた環境づくりが進めようとしたが、これは遅々として進まなかった。849年11月には「政党会並びに選挙議論終了」とする報道が行われたが、この時にも選挙は開催されていない。この報道の文言中には「来る第一回選挙」などと記されており、情報の錯綜がここにおいても見られる。

850年代前半には皇国はその政治システムを強く非難する”ミルズ共和国”との紛争に直面している。「アダム皇の拉致及び惨殺(後に生還が確認される)」などの数々の暴虐行為が指摘された”ミルズ共和国”は最終的にフリューゲル国際連合により854年6月に解体が確認された。一部報道では今般の”第二回選挙”にこの事案の影響を指摘されているが、皇国内の政治勢力と”ミルズ共和国”の関係性は詳らかではなく断定し難い。

864年2月頃には一部関係筋より「暴走だった」とも囁かれる”ラス・アノド海賊連合”に対する宣戦布告を行い、この弁明のため国際連合安全保障理事会にオブザーバーとして参加したレンヤ・ミストフォールト氏(=ミルズ社会民主主義連盟代表)が皇国政府に対する批判的な発言を行ったとして国内の保守派から猛烈な批判を受けている。しかし同氏の発言は国際的な常識とミルズ皇国の現状を照らし合わせた現実的な発言に過ぎないものであり、皇国に蔓延る深刻な病巣の一端を表している。

今般の選挙が行われたのは長期に渡る遅延が続き、865年5月に首相が「選挙の準備は整った」との談話を公表しようやく行われたものである。しかし実態は同月中に選挙の無効が宣言される体たらくであり、真に選挙の準備が整っていたとは到底考えられない。この25年もの足踏みの間に一体何をやっていたのか、一体何を持ってして”準備は整った”としたのか。また849年の報道に於いて「選挙に関しては国際的な選挙監視団派遣を待って行う事が決定した」と報告されているが、今般の選挙は選挙監視団がほぼ関与できない状況において行われたとの指摘がある。これはもはや国内の内政問題に留まらず国際的な信用に関わる問題であり、国民や国際社会の期待を裏切ったミルズ皇国政府の責任は重大である。

国家の体も成さぬ稚拙な行政

今般の”第二回選挙”は同月中に無効が宣言されるという異常事態を招いたわけであるが、その原因は何だったのか。
背景にあるのは他でもない。運営を担った選挙管理委員会を含め、あらゆる部門に蔓延る病的に幼稚で、致命的に腐敗したミルズ皇国の体制そのものだ。

この問題の根源はそもそもの国民意識から始まる。ミルズ皇国の多くの国民は建国時期より権威の象徴に就き続けたアダム皇に心を寄り添わせ、政から離れた後もある種崇拝に近い形で皇に未来のミルズ皇国の姿を重ね続けてきた。しかし”ミルズ共和国”との内紛時期にアダム皇が失踪し、メイル女皇が戴冠するとそれはやや性質を変える。
自らの決断に自信を持ち、慮ることを行わない女皇の思考が国民に波及し、違う思考に対する攻撃性を持たせるに至ったのである。
知識が欠け、人間的に未熟な者であるほど女皇の危険な影響を強く受けた。

疑念の中に居る国民らを更に刺激したのはレンヤ氏の国連安保理における皇国政府に対する発言だ。彼により控えめに述べられた不都合な真実は、稚拙な国民を不条理な憤怒へ駆り立てた。
こうしてもはや手の施しようがないまでに悪化した国民の意識は”第二回選挙”を破滅に導いていく事となる。

“第二回選挙”は選挙管理委員会が運営しており、本来であればWTCOより派遣される選挙監視団が業務を監視する予定であった。しかしその選挙監視団は、本来WTCOとの連絡を取り持つ手筈だった職員が保守派議員による「連絡しなくともやるときには居る」との虚偽の発言を鵜呑みにするなどし業務に致命的な手違いが発生。この”第二回選挙”においてはほとんど監視業務を行うことが出来なかった。
監視が無き中で、自覚が乏しい者による選挙管理委員会は投票先が記入された用紙を紛失するなど業務中に致命的なミスを多数犯し続けた。 「ある地域においては用紙の汚損等により約8割の票が反映されなかった。」 とは選挙管理委員会関係者による談だ。
また期間中法令違反の選挙活動が無いか監視していたという警察関係者は「具体的な名称を挙げることは避けるが、特にある党派を中心に我々の手では対応しきれないほどの選挙違反が確認されていた。比較的対応事項が少ない私の地域でさえこうであったのだから、首都ミルズシティなどはもはや無法状態と化していたのではないか」と疲れ切った表情で語った。
最早そこに公平公正な選挙の姿など欠片もなく、ただ費用の無駄遣いの如き行為が行われていた様子が伺える。

そして”第二回選挙”の結果を受け不服に感じた国民や議員らはなんと「選挙の無効」を顕著に主張した。財力のある議員は上院下院において買収工作を行うなど議会は法の精神を重んじない者たちによる無法の地と化し、腐敗しきった議会は選挙の無効を宣言した。この議会による議会選挙の無効宣言はミルズ皇国憲法において合憲であるのか、また無効と判断した法的根拠は何かは定かではない。
ミルズの政治について研究を進めているミルズ大学のエミリー・パーカー准教授は「根本的に、この国で生まれ育ち研究を進めている私でさえ不明な部分が多い」と前置きした上で、憲法や法を無視した異常な超法規的措置が図られた可能性を指摘した。
「国際的には選挙制度はもちろん、立法府として議会と行政府の長たる首相、そして司法府の裁判所のそれぞれの関係は一切明らかではない。今般の選挙は国際社会に向けた民主化のアピールの側面を持っていたが、当事者の間に”バレてない部分は隠してしまえばよい”のような異常な集団心理が働いた可能性は否めない。」

稚拙な国民意識と体制は第一回”選挙”の前後においても指摘されていたが、25年経ち悪化する形で表れた。もはや皇国の少なくない政治家は理性が残らぬ獣と化しており、現状のミルズ皇国の議会が真の民主主義的な政治の場となる日は著しく遠い。
選挙で皇国が変わると期待していたという市民は失望の念を語った。
「選挙すらろくに出来ないというあまりに幼稚な政府にはほとほと呆れ返る。ここまでにひどい国に生まれてしまった自分の運命を恨む。おそらくこの国は自力では何も変える事ができない。生き長らえたければ国外に移住する以外ないのだろう。」

ミルズ皇国の政治はもはや自己解決能力を完全に失っている。都合の悪い選挙結果を政府が抹殺するなど民主化を志す国家としては言語道断であり、人民に残された手段は抵抗のみである。理性あるミルズ人民の決断と行動が求められている。

(文責:赤き五芒星 ヤウズ・セレンギル)

【局説】皇国再起の道は選挙監視団で終わらない

「もうこんな場所には期待しない―」
首都ミルズシティに住む市民はこのように話した。
865年5月の第二回選挙に係る混乱はミルズ皇国の抱える深刻な病を強く示した。赤き五芒星報道によれば今般の混乱の根源は「関係各筋における稚拙な行動」であり、全身に根を張るが如く広がる問題によってその解決の難しさが推察される。

筆者は以前、特集記事の取材のため長期間ミルズ皇国に滞在した経験がある。遺憾ながら君主制について完全に認識が無かった私は、皇が持つその独特の雰囲気に驚いたものだった。しかし取材を進めるに連れ、その雰囲気に隠された闇が相見えた。当時既に皇は儀礼的な権限に留められており、普通選挙導入に向け政府が試行錯誤していた時期であったが、そんな中においても「絶対皇政のほうがいい」あるいは「皇は廃止すべき」との声が相次いで聞かれたのだ。
当初その意図を図りかねずにいたが、今になり考えれば一見正反対に見えるこの声は実際には同じ根本から来ていたのだろう。それは混乱の極みで民権を尊重する政治がままならぬ政府への不信感だ。

当時皇の立場に居たアダム・フォン・ミルズ皇はミルズ皇国内では屈指の知識人と言われ、絶対皇政時代にも国外の政治を参考に早期に立憲君主制の導入を決断し、立憲君主化以降も内戦で議会が紛糾する中一喝により場を収めるなど非常に大きい影響力を持っている。
しかしその後の政府の対応は混迷を極めた。アダム皇の指示を受け政府が導入した選挙はなんと”立候補制”という民主化の欠片もない代物であった。国際的な困惑を受け政府は新たな選挙制度の導入とそのための環境づくりを開始したが、議論を纏めることが出来ずに多くの時間が費やされた。
絶対皇政の支持者は政府に対する不信感から「皇がやってくれたほうが良い」と考え、逆に廃皇論者は「こんな政府になったのは皇の責任だ」と考えたというわけだ。

私は対照的な社会主義国の市民として、これらの論争がどうといった評価を下すつもりはない。ただこれらの議論を乗り越えてもなお続く皇国政府の混迷には根本的な問題が関わっている気がしてならない。
主権国家においては、国家が国民を統治するのと同時に国民が国家を統治すると言っても過言ではない。だが赤き五芒星、そしてミルズ皇国内の一部週刊誌報道から伺えることはミルズ皇国の国民に市民意識が足りていない実態だ。

市民意識無き国家の行く先は狂気の沙汰だ。今般の混乱は一部で選挙監視団無き状況によって起こされた悲劇との声も見られるが、問題は選挙監視団を派遣し公正に選挙が行われるだけでは到底解決しないことは容易に想像される。問題の根幹はより広がっており、そして根深い。ミルズ皇国政府、そして国際社会の能力が問われている。

緑の党、第60回人民院選挙後の政権「0ベースで」

現在トルキー労働党との連立政権を担っている緑の党が、任期満了では868年2月に控える第60回人民院選挙について第59回選挙と同様に事前に労働党との連立維持協定を結ぶかについて「予定はない」としていることがわかった。党関係者が月刊誌に答えた。

誌面では関係者は「今回の選挙は憲法改正など重大な論題が多い選挙であり、(選挙後の)政治状況は計り難い。緑の党としては0ベースで臨むことを考えており、選挙後に再度議院構成を見つめた後に何が望ましいか検討していきたい。」としている。

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